
最終回
原宿のワンルームでピーという音が鳴っていた。
昭和59年(1984年)
[ 更新 ] 2023.03.17
もっとも、当時新宿区中落合の実家暮らしの者としては、『金魂巻』でマルビのクリエーターの居住地や仕事場の在り処に指定されている新宿と中央線沿線の街の方が通いやすかったが、原宿(神宮前)はそういう点で、わが家からも比較的近い、オシャレ地帯の玄関口のようなエリアであり、TVガイド時代にNHKに日々通っていたこともあって、親しみがあった。さらに遡れば、中学受験のために小学5、6年生の頃、毎週日曜に模擬試験と講義を受けにきていた進学教室の会場が東郷神社横の日本社会事業大学の教室だったので、原宿はその帰りがけに寄り道した“散歩タウンの草分け”でもあった。キデイランドや千疋屋のフルーツパーラーは友人と何度か行ったが、僕がひとりでよく立ち寄っていたのは、千疋屋よりも数軒原宿駅寄りのところにあった「フクオ」という趣味の切手屋で、ここでは切手以上にショーケース上のカゴにぶちこんである、記念乗車券とか記念タバコのパッケージ……なんかを物色するのに熱中した。
この店の隣りは輸入物中心のプラモデル屋で、玄関戸の脇のショーケースに「アダムスのお化け一家」の輸入プラモが飾られていたのを思い出す。
なんていうのは昭和42、43年頃の話で、小学生の僕はまだ無関心だったが、もう少し上の世代の若者の間では、スポーツカーやバイクで原宿・表参道のスナックやブティックにやってくる「原宿族」が話題(ピークは少し過ぎていたかも)だった。当時から、そんなヤングタウン原宿のシンボルだったセントラルアパートは、明治通りと表参道の交差点角に健在であり、その表参道側の一角には伝説の喫茶「レオン」が店を開いていた。美大(ムサビ)出の三浦君は僕以上にこのレオンを聖地視していて、「レオンで打ち合わせができる」というのが、高円寺からこの地に仕事場を移す、かなりのキメ手になったようだ。
レオンの前を通り過ぎ、渋谷川暗渠の脇の神宮前交番を過ぎると、くすんだ黄土色をした同潤会アパートの棟が並ぶようになる。その途中の中庭のような所を通りぬけて、裏道の一角の短い坂の路地を上っていくと右手に真新しいワンルームマンションが建っている。オートロックの門越しに、マンションの外壁に掲示された〈ハイシティ 表参道〉という看板が見えた。
ハイシティ──このストレートなネームがかなり大きな字体で掲げられているのが、少し恥ずかしかった。8畳レベルの小部屋がコの字型に10室くらい並ぶ3階建てのつくりで、先に入った三浦君から「上の階がまだ空いてますよ」と勧められた僕の部屋は、1階の彼の所の正に真上の2階だった。家賃8万円台と前回書いたが、階が上がるごとに4、5千円ほど高くなっていた、料金表の記憶がある。

実は今もまだ健在の「ハイシティ表参道」。
同潤会アパートの中庭を突っ切って、奥へ入っていく通勤のルートは、ファッション界の通人になったようで気に入っていたが、原宿の駅からアプローチする場合はもう1つ、竹下通りを進んでパレフランスの前で明治通りを渡って、路地を奥へ奥へといくルートもあった。
明治通りと並行する商店街(原宿通り)は、当時“とんちゃん通り”と呼ばれて、すでににぎわっていたけれど、飲食店にくらべて古着屋の数はまだ乏しく、奥の渋谷川暗渠の方へ入ったあたりに“裏原宿”(ウラハラ)の愛称は付いていなかった。仕事場を構えて少し経った頃、暗渠道のそばにシャレたメガネ屋がオープンして、ここで買った楕円型のメガネを“新人類”のキーワードでもてはやされていた頃に掛けて、雑誌の撮影などに臨んでいた。
僕のオシャレメガネもそうだが、三浦君は原宿に仕事場を構えるのに合わせたかのように、肩までのハードロックなロン毛を、スパッとテクノカット風に刈りあげてきた。彼の著書『テクノカットにDCブランド』(太田出版、2010年)に掲載された一文によれば、まだ住まいのあった新高円寺の理髪店のオヤジに「モッズヘアーにしてください」と、原宿の有名ヘアサロンの名を挙げて注文、チンプンカンプンのままできあがったテクノカット風のヘアスタイル、だったというが、そもそも髪を切る決意をしたのは、師事していた糸井重里氏に、「髪の毛を切って、高円寺を出ろ」(売れたいのなら、という意味)と、冗談まじりに提言されたのがきっかけらしい。
糸井さんの事務所はこの当時まだ「レオン」のあるセントラルアパート内にあったそうだが、そういえばこの年『夕刊イトイ』という“パロディ新聞”の仕事で初めてナマの糸井重里と対面したのだ。12月にリブロポートから刊行された本の巻末には、このように記されている。
「1984年10月6日オープンした有楽町西武は百貨店の枠を超えた生活情報館として注目されました。本書はそのオープニング企画として好評だった糸井重里氏と14人の編集長による『夕刊イトイ』を記念として復刊したものです。」
有楽町西武とは、あのマリオンのなかにオープンした西武百貨店で、通路を挟んで西の雄・阪急百貨店と向かい合っていた。つまり、まだデパートの黄金時代だったわけだが、とくに当時の西武はここにあるように“生活情報”を売る新しいデパートをめざしていて、糸井氏がコピーを担当した「不思議、大好き。」や「おいしい生活。」は、西武セゾングループ全般のナウなイメージを作り出していた。
さて、この『夕刊イトイ』の内容は、巻末文に書かれているように、14人の日替り編集長が思い思いの新聞を作り、それをもとに代表の糸井さんとトークする……という2週間のイベントで、10月26日から11月10日にかけて催された。久住昌之、蛭子能収、みうらじゅん、川上宗薫、島地勝彦、石原真理子……と、初日の方からの編集長の名が本の表紙に記されているが、僕は渡辺和博さんに続いて、11月3日に編集長を務めている。
全般的に“ふざけたカワラ版”みたいなものが多いのだが、僕の新聞の1面トップは、「トンバ男、東京に上陸!」なんていう大見出しのもと、昭和40年代初めに「トンバで行こう」という珍曲を歌っていた城卓矢を怪獣や台風災害に見立てたような記事を書いている。「トンバ」の曲名入りのタンバリンを手にした城の背景に東京タワーが映りこんでいる、この写真はなかなかナイスなのだが、確かコレはちょっと前まで勤務していたTVガイドの資料室で見つけてきたもので、細かい使用許可など取っていなかったのではなかったか。
アナクロなB級ニュース的な笑いを狙った記事が目につくなか、「マイケル・ジャクソン来日」なんて見出しもある。とはいえ、掲載された写真は、インド人演歌歌手のチャダ──に違いない。いまならばまず通らないフェイク記事だろうが、この年はマイケル・ジャクソンに加えて、ロス五輪で活躍したカール・ルイス、そして角界の小錦が“ブラックパワー御三家”のような感じでブームを巻き起こしていた。僕は10月(執筆は9月中)から「週刊文春」で「ナウのしくみ」という時事コラムを連載し始めたが、その2回目で彼ら3人に阪急の助っ人外国人選手・ブーマーを加えて“ニュー黒人”のキーワードで人気を分析している。
そんなわけで、退社(総務的日付としては7月末日だった)直後から仕事は割と順調に舞いこんできたが、入居したばかりの頃の部屋の様子を書きとめておこう。
2階の部屋の窓からの眺めはさほど良いものではなく、とくに原宿という感じでもない民家の裏方と庭のシイの木の枝葉くらいしか見えなかった。そんなガラス戸にはカーテンではなく、ハヤリのブラインドを取り付け、リノリウムの床には80年代らしいイエローカラーの小型テレビ、それを眺めるためのクッション型ソファー、せいぜい百冊収納できるかどうかの本棚とダイヤル式末期の黒電話……くらいは配置されていた。
もう1つ、カフェバーのインテリアみたいな折りたたみイスとテーブルのセットがあって、しばらくこの不安定なイスに座って、小さな丸テーブルに原稿用紙をのせて執筆していたのだ。そう、そのセットを東急ハンズで買ったときに、組み立て式の仕事机(ステンレスの脚を組み、空間に黒板をハメていくような)も購入していたのだが、脚を途中まで組んだところで、継ぎ目のパーツがズレてうまく板が収まらず、未完成のL字やT字の状態で部屋隅に立てかけたままになっていた。
あるとき、ふらっとやってきた三浦君がこれを見つけてトンカチでタントンと叩いて、30分かそこらで机を作りあげたとき、さすが美大出! と感心した。
ようやく、この仕事机(こちらのイスも折りたたみ式のものだった)で執筆するようになったのだが、仕上がった原稿はどこかの喫茶店で編集者に受け渡したり、こちらに編集者やバイトのお使いさんが取りに来ることもよくあった。ファクシミリを導入したのが、半年あるいは1年近く経った頃だったと思う。
こういうニューメディアな通信機器のなかで、いち早く設備したのが留守番電話だった。先に“ダイヤル式黒電話”と書いたように、あの当時のは電話機に内蔵されたものではなく、別売りの箱型のレコーダー装置(僕のはパイオニア製だったか?)で、従来のサイズの4分の1くらいのマイクロカセットテープに声を録音する。もちろん、相手側からのアナウンス(仕事の依頼など)の記録が重要なのだが、当初は“こちら側のあいさつ”の吹き込みにも気を遣った。予めテープに録音された出来合いのものではなく、オリジナルのメッセージを作成するのがハヤッていた。
収まりのいいBGM──シャカタクあるいは小林麻美の歌もハヤッていたガゼボの「アイ・ライク・ショパン」のサワリを使った気がする──をラジカセでゆる~く流し、時候にふれつつ留守の謝意を伝える。
「秋の気配も感じる今日この頃……せっかくお電話いただきましたが、私、泉麻人は留守にしております。お手数ですが、ピーという発信音が鳴りましたら、ご用件をよろしく……」
秋の気配……なんて言っているように、初めのうちはひと月に1回くらいのペースでBGMを変えて、録れ直していた。原宿の仕事場にやってきて、点滅する留守録ランプを確認、仕事依頼のメッセージが再生されてきたとき、フリーでやっている……と実感した。
ガラス戸を開けていると、時折「ピーという発信音……」という三浦君の留守録の声が聞こえてきた。