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第9回

資生堂とパルコのCMを待ちかまえていた。
昭和52年(1977年)

[ 更新 ] 2021.12.01
 僕が広研(広告学研究会)なんてサークルに入ったのは、子供の頃からCMが大好きだったというのが素直な理由だが、それに加えてこの時代はオンタイムの広告が実におもしろかったのだ。雑誌や映画、TV番組と並ぶ1つの娯楽メディアになりつつあった。
 時の流行語を生み出したようなものとは別に、僕らの間で圧倒的に人気があったのは、資生堂とパルコの広告。資生堂の場合は石鹼やシャンプーなどの商品解説をきちっとした、オーソドックスな広告もあったが、商品から離れた文芸センスのコピーとアートで見せる、季節ごとのキャンペーンなどはパルコとともに“イメージ広告”の代表とされていた。
 パルコの本拠・渋谷公園通り(出店は池袋パルコの方が4年早いのだが)については以前ちょっとふれた(第3回)けれど、公園通りのパルコのイメージを上げたのは、単に街並だけではなく、石岡瑛子のアートディレクションによるカッコイイ広告の力が大きいだろう。広研では毎年の年度末に「三田広告研究」という機関誌を発行していたが、昭和52年3月に出た第62号(創刊号は大正15年)に掲載された座談会(僕ら2年生部員が好みの広告を語る)のページに、人気CMの順位の円グラフがある。各CMにパーセンテージが記されているから、アンケート集計をもとにしたのかもしれないが、対象人数はよくわからない。が、とりあえず紹介しておこう。

 1・PARCO(小林麻美) 15%
 2・ゆれるまなざし(資生堂) 14%
 3・ベネフィーク(資生堂) 7%
 4・唇のブランデー(資生堂) 6.5%
 5・黒い瞳はお好き(カネボウ) 6%

 広告主、キャッチコピー、タレントなどの表記が統一されていないあたりからして、テキトーな学生調査……って感じだが、パルコと資生堂が人気を二分していたことはわかる。資生堂の「ゆれるまなざし」は小椋佳の曲を使って、切れ長目のモデル・真行寺君枝をブレイクさせた昭和51年秋のキャンペーンだが、それを上回るパルコの“小林麻美”とはどんなCMだったかな? ネットでチェックするとユーチューブにもそれらしき映像はアップされていなかったが、ヤフオクに「コレか!」と思われる広告ポスターが出品されていた。
 肩を出した赤いパーティードレスを着た小林麻美が後ろからタキシード姿の白髪紳士に抱き寄せられる──そんなショットに、シャレたパルコらしいコピーが付いている。

   人生は短いのです。夜は長くなりました。

 AD・石岡瑛子 P・横須賀功光 C・長沢岳夫──という黄金メンバーによる76年(昭和51年)の作品、コピーの内容から察して秋冬のバザール時のものだろう。これは紙(ポスターあるいは雑誌)媒体だが、この「人生は……」のフレーズの後にただ「パルコ」と付け加えるナレーションのTVCMもぼんやりながら観た記憶が残る。そう、当時麻雀なんかをしているとき、「場にピンズが目につく季節になりました。パルコ」なんて調子で、どうってことない一言の後に“パルコ”と付けて、ふざけていたことを思い出した。
 小林麻美が「いい女」のキーワードでファッション系女性誌を中心に讃えられるのはおよそこの10年後のことだが、このパルコ広告などは予兆が見られる。石岡瑛子のパルコ広告としては、オカッパ髪の長身モデル・山口小夜子を使ったものや山口はるみのエアブラシ技法のイラストレーション作品も定番だった。
 そんなパルコの広告で“夜あそびに馴れたオトナの女”みたいな顔を見せていた小林麻美がこの春(52年)、資生堂の「クリスタルデュウ」のCMに、“サワやかなショートカット”に変身して登場したときは、まさに目が点になった。「クリスタルデュウ」は口紅の商品名だが、春キャンペーンのキャッチフレーズ「マイピュアレディ」の方で広く知られている。
 尾崎亜美の曲もぴったりハマッたこのCM、ユーチューブをチェックすると、どこかの砂浜で彼氏と思しきサーファーのライディングの様子を眺めるロコ風の女……なんてシチュエーションのものがヒットする。これなどいかにも「ポパイ」の時代を思わせる(実際このノリの小林麻美が特集されていた気がする)けれど、僕の記憶に強く残っている「マイピュアレディ」のCMは、田園調布のロータリーらしき並木道の脇に停まった車の助手席で、彼女がバックミラーを見ながら口紅を整える……なんて演出のやつなのだが、これはどういうわけか画像が見つからない(再確認すれば、多少内容は違っているかもしれない)。
 ところでBGMの尾崎亜美はこの時点ではまだあまり知られていなかったけれど、僕らの仲間内では前年のデビューアルバム「SHADY」がけっこうハヤッていて、とくにボサノバ調の「冥想」って曲を気に入って、カセットテープで何度も聴いていた。プロデューサー(編曲も)は松任谷正隆だったから、ユーミンやハイ・ファイ・セットの曲をれたテープにもすんなりハマった。「マイピュアレディ」はかなりヒットしたはずだが、当時の尾崎亜美はほとんどテレビに露出していなかったから、イメージチェンジした小林麻美のPVのような印象がいまだ強く残っている。
 いわゆる、最近のシティポップ・ブームのせいもあって、「マイピュアレディ」を聴く機会は増えたけれど、洗練されたメロディーはともかくとして、2番の初めの「ダイヤルしようかな ポケットにラッキーコイン」のフレーズは過ぎ去りし時代を回想させる。電話ボックスを探した青春の一齣ひとこまが甦って、胸がキュンとなる。
 資生堂はこの次の「夏のキャンペーン」ではダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「サクセス」(広告コピーは“サクセス、サクセス”)を使い、僕ら男子はモデルのティナ・チャウの肢体に目を奪われた(「サクセス」のB面は彼女を歌った「愛しのティナ」という曲だった)。
 この夏あたりから、化粧品キャンペーンに力を入れ始めたカネボウは「Oh! クッキーフェイス」のキャッチフレーズで水着姿の夏目雅子を起用して、以降しばらく資生堂とカネボウ化粧品の季節(とくに春夏)キャンペーン合戦が続くのだ。「クッキーフェイス」の曲はティナ・チャールズという資生堂側のモデルと紛わしい名前の外国人歌手がディスコ調のオリジナルを歌っていたが、デビューしたての夏目雅子がいっぱいいっぱいな・・・・・・・・・感じで歌う珍盤もあった。
 資生堂とカネボウ──起用された女優やモデルの良し悪しはともかくとして、BGMのセンスは圧倒的に資生堂が勝っていた気がする。山下達郎も大貫妙子も大橋純子も……売れる前の早い段階の資生堂CMでその声を聴いた。こういったシティポップ、というか当時らしいフレーズを使えばシティーミュージック系の人の曲を積極的にCMに採用していたのが大森昭男という人物。広告フリークだった僕は書店で「コマーシャル・フォト」なんて専門誌をよく立ち読みしたが、資生堂やパルコのそういう好みの曲を使ったCMの紹介欄に目を向けると、P・大森昭男、あるいはその制作会社、オン・アソシエイツの名が記されていた。大森氏はCMソングの大家・三木鶏郎の弟子筋にあたる人でもあり、73年(昭和48年)からスタートする大滝詠一の三ツ矢サイダーCM(76年の曲は山下達郎)を手掛けた人でもあった。
 ところで、パルコはオシャレなことばかりやっている会社(組織といった方がいいだろう)ではなかった。パルコ出版から出ていた月刊誌「ビックリハウス」は僕が高校生の頃に創刊(昭和49年)されて、執筆陣などは当初「宝島」や「だぶだぼ」あるいは「話の特集」なんかとカブるようなところもあったけれど、読者からの“おもしろ投稿”に力を入れるようになって「エンピツ賞」という投稿名人を対象にした文学賞も生まれた。そんな、「ビックリハウス」的な笑いのキーワードになっていたのが、パロディーという手法。
 誰もが知っている名画や小説、建造物……の一部をイジったり、全く違ったシチュエーションに取りこんだりしてそのギャップを笑う(とまぁこういう説明は難しいが)──というもので、この年(52年)の10月には「JPC展(日本パロディ広告展)」というのが渋谷パルコ(PART2)で開催されて、何回か続くヒット・イベントになった。


著者の手元に残る「第1回 JPC展」のチケット。上部に映画「禁じられた遊び」のパロディー「禁じられた立読み」の画像が掲載されている

 この「JPC展」よりも1年近く前、おそらく昭和51年の暮れか52年のはじめの頃だったと思うが、テレビの夜更けの時間帯に「ビックリハウス」の奇妙なCMをやっていた。
 当時、アラン・ドロンがレナウンの紳士服「ダーバン」のCMモデルを演じていて、洗練されたスーツ姿で語る「ダーバン、セ、エレガンス~」ウンヌンというフレーズが定着していた。「ビックリハウス」のCMはそれをパロったもので、ダーバンならぬターバンを頭に巻いた中近東風の男の画像とともに「ターバン、シャレデゴンス、ドンナモンダイ」(だったか?)、アラン・ドロンのフレーズに似た語感のふざけた文句が流れる──なんて感じのものだった。
 男が「ビックリハウス」を手にしていたような気もするし、最後にボソッと雑誌名がアナウンスされるだけだったかもしれない。けっこう話題になったCMだったので、ネットに動画の1つくらい上がっているかと思っていたのだが、まるでない。いや、そればかりか「ビックリハウス パロディーCM ターバン」などと検索しても解説文が現われない。もしや、“ターバンの茶化し”が最近のコンプライアンス(倫理規定)に引っかかって削除されてしまったのだろうか……。
 それはともかく、「ビックリハウス」のパロディーCMが話題になっている頃、広研の新代表になろうとしていた僕のもとに「CMを作りませんか?」という1本の電話が舞いこんだ。
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