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最終回

プロテストで世界は変えられたり変えられなかったりするけれど。

[ 更新 ] 2024.07.22
 私がはじめてプロテストに参加したのは2019年の春。
 国民投票で決定してしまったブレグジット(イギリスのEU離脱)にたいして「いや、やっぱり考え直そうよ! 国民投票をやりなおそうよ!」と訴えるためのプロテストでした。

 が、けっしてひょいと身軽な気持ちで初プロテスト参加ができたわけではなかった。
 なにごとにも、恐る恐るの最初の一歩があるのだ。

「イギリスがEUを離脱するなんて嫌だ」と強く思っていた私でしたが、実はSNSで反ブレグジットのプロテストがあるという情報を見かけた時、「気にはなるけど、デモに参加ってちょっと抵抗あるな」と、最初は見なかったことにしてスルーしようとしていました。
 なぜなら、街に出て抗議運動をするような「変わった人々」は、自分みたいな「普通の一般市民」とは違う、なんていう感覚が心の中にずっとあったから。

 しかし、プロテストの数日前になって、仲良しの友人から「これは参加しないといけないよ! 政府に意思を示さないと!」と何度も強めに誘われたのです。プロテストにこんなにも情熱をもって誘われたことがなかったし、なにより尊敬する大好きな友だちだったということもあり、私は次第に「うーん」「そうかな?」「そうかも」「そうだよね?」と心変わりしてゆき、最終的に「オッケー、行こう!」と清水の舞台から飛び降りるような気持ちで参加を決意しました。
(大きな壁をぶちやぶってくれてありがとう、友よ!)

 当日の朝、当時まだ2歳だった息子を抱きしめ「ママ、行ってくるからね‼」と、エベレストでも登るの? ってくらいの緊張感で家を出発しました。

 サンドイッチもぐもぐしながら、練り歩く。

 が、ロンドン中心部に着いたとたん、良い意味で拍子抜けしたのです。

 そこに集まっていたのは、ベビーカーを押した家族連れ、若者、お年寄りなどなど、なんというか、いつも街ですれ違うような「普通の一般市民」ばかりだったのです。
 みなそれぞれのプラカードを持って、サンドイッチやスナックをもぐもぐ食べたり、時に大きな声でシュプレヒコールをしたり、歌ったり楽器を演奏したりしながら和やかに練り歩いていました。
 この日の参加者は約100万人と言われていて、イギリスの歴史の中でもとりわけ大きなものだったみたいです。

 エベレスト登る級の緊張感で挑んだ初プロテストは、非常に大規模なものだったにもかかわらず想像の斜め上をいくような平和な雰囲気で、「同じ問題意識をもっている人が世の中にはこんなにいるんだな。世の中捨てたもんじゃないかも!」とパワーをもらえたし、政治を思いっきり自分ごとに感じたし、なにより楽しかったのです。
 これはとてもポジティブな新発見でした。

 自分の中にずっとあった「デモ活動に参加する人=ちょっとクセのある変な人たち」という思い込みはいったいなんだったのだ。というか、そう思い込んでいた私のほうが、もしかして「クセのある考え方」をしていたのではないか? なんてことを思ったりもしました。

 街を封鎖して抗議活動。

 その数週間後、今度は環境保護団体の Extinction Rebellion(エクスティンクション・レベリオン)がロンドン中心部数ヶ所を10日間以上にわたって封鎖するという大きなプロテストを起こしました。これによりロンドンの交通網が麻痺。混乱する街の様子が連日ニュースで取り上げられていました。

 最初は「ちょっとこれは、さすがにやりすぎなんじゃないの? もっと穏便に訴えられないのかな?」なんて思いながらニュースを眺めていた私ですが、プロテストが何日間も続いたことによって、よく利用するカフェや商店にもXR(エクスティンクション・レベリオンの略称)のポスターが貼られるようになったり、友人やご近所さんとのなにげない会話の中でも話題になるようになり、心にだんだんと変化が生まれていきました。
 交わされる会話は必ずしも肯定的ではなくて「通勤ルートが乱されて困っている」といった意見もあったけれど、多くの場合、「なぜあそこまでするんだろう?」のように、XRがここまで大きなアクションをして伝えようとしていることはなんなのか? といった議論に発展していったのです。

 こういった会話を重ねるうちに、私も「多くの人が逮捕されてまで必死に訴えている気候の危機とは、いったいどれほど深刻なんだ?」と地球温暖化の現状を改めて調べるようになり、「想像していたよりも相当危機的な状況なんだな」ということを知ったのです。

 XRが大きく掲げている標語の1つに “TELL THE TRUTH”(真実を伝えろ)というものがあります。「市民は真実を知る権利がある」というメッセージを広く伝えることが、この大規模プロテストの狙いの1つでした。

 実際、これをきっかけにBBCなどの主要メディアが気候危機のことをトップニュースで扱うようになったと言われています。
 まさしくXRの狙いの1つが達成されたのです。
 プロテスト活動の奥深さを感じた出来事でした。

 ちなみに私はそれ以降、ちょくちょくXRのプロテストに参加するようになりました。ファミリー向けのものも多く企画されるようになり、近所の美術館でプロテストが行われたりと、様々な形でできるだけ多くの人が関われるように変化していっているのが印象深いです。

 市民の誰もが抗議者になる社会。

 2019年以来、いくつかのプロテストに参加をしているのですが、プラカードを持って近所を歩いているとすれ違いざまに、「お、プロテスト行くの? がんばって!」と見知らぬ人に話しかけられたりすることがけっこうあります。プロテスト中も近所の商店が参加者に水を配ってくれたり、通りすがりの人が「そうだー!」と応援してくれたりもします。デモ行進やプロテストというものが、「特別な人々や団体が行う奇っ怪なもの」という認識ではなく、市民生活の中で、意見を伝えたり権利を守ったりするための、誰にとっても大切な選択肢の1つとして捉えられている雰囲気を感じるの
です。

 息子が通う小学校でも、2021年にイギリスのグラスゴーでCOP26が開催されていた時期に、高学年の生徒たちが「ロンドンの空気をクリーンにしよう!」というプラカードを持ちシュプレヒコールをしながら校庭を練り歩いているところを見かけたこともあります。(おそらくその様子を撮影して、首相のSNSアカウントに送っていたのだと思う)
 息子のリーディング用の教材に掲載されていたストーリーでは、主人公が森林保全のために住民を巻き込んだプロテストを計画するというものがあったり。

 近所の家の窓にも環境保全を訴えるポスターや、BLM、ウクライナ支援、パレスチナ支援、エッセンシャルワーカーへの感謝の意を表したプラカードが貼られている様子をよく見かけます。

 こういった風景に出会うたび、政治的、社会的な意見を伝えるということが日常の中に根付いているんだなと実感します。


 プロテストはみんなの権利だ。

 が、しかし。そんなイギリスだっていろいろあるのです。

 最近になって、保守党によって市民の抗議運動に警察がよりいっそう介入できるような法案が作られました。
「うるさすぎる騒音を出して抗議運動をしている場合は取り締まりの対象になる」など、あいまいな基準で、警察の主観で逮捕や取り締まりができそうな文言が綴られたこの法案に対し、人々のプロテストの権利を狭めることになりえるのでは? と批判が相次いでいます。と同時に、「それでもわれわれのプロテストする権利は侵害させない!」というイギリスの人々の反骨精神もヒシヒシと感じたりします。

 印象的だったのが、2023年の第一次世界大戦による戦没者を追悼する日と同日に行われた、パレスチナでの即時停戦を求めるプロテストをめぐってのあれこれです。

「これ以上武力で人を殺さないで」という思いから企画されたプロテストだったにもかかわらず、当時のブレーバーマン内相はプロテスト開催予定の数日前に「これはヘイトマーチだ」と発言。「この発言に煽られた極右団体が、プロテストを妨害しに来るのではないか」と緊張感が高まりました。
 こういった緊迫した雰囲気が影響してプロテストに参加する人が減るかも? と心配されていたけれど、蓋をあけたら主催者発表では70万人ほど(ニュースでは30万人と報道されていました)が参加。非常に大きな集いになりました。
「私たちに脅しはきかないよ! プロテストはやり続けるよ!」といったイギリスの人々の気概を感じました。

 エモーションを怒りや暴力でしか表せないのは、どうして?

 このプロテスト、私も同じ小学校の保護者友だち数人と参加しました。そこでとても印象に残る光景を目撃したのです。
 数時間にもおよぶプロテストは、様々な年代、ジェンダー、肌の色、宗教の違う人々みんなでロンドン中心部を練り歩いた終始平和なものでした。ユダヤ系の方々も多数見かけました。とにかくパレスチナにいる市民を殺さないで、誰も殺さないで、とみんなで願うために集まった、そういった雰囲気を感じました。

 そんな中、その日私が唯一見かけた暴力が、ユニオンジャックの旗を掲げた酔っ払った極右団体によるものだったのです。彼らは見た感じはみな白人の男性で、参加者の一部に怒鳴ったり通りかかる無関係の車をパンチしたりして、最終的に警察に連行されていました。
 その様子を遠くから見ていた私は、「この人たちは、暴力以外で自分の気持ちをうまく表現できないのかもしれない」といろいろ考えてしまって、なんだか怖いし寂しいし腹立たしいし悲しいような、複雑な気持ちになりました。

 そして、対立を煽るような発言をして本当は必要なかった暴力を生み出したブレーバーマン内相やそのほかの政治家にたいしても怒りを覚えました。
(この直後、一連の発言を巡ってブレーバーマン内相は更迭されました)

 プロテストで世界は変えられたり変えられなかったりするけれど。

 ところで、私の記念すべき初プロテストとなった反ブレグジットのデモ行進。歴史的な数の人が集まったけれど、結局ブレグジットの決定は覆りませんでした。
 なので2024年の今は、イギリスはもうEUの一員じゃない。しょんぼり。
 そう、どんなに大勢で頑張ってプロテストをしても、変えられない時もあるのだ。
 むしろそのパターンのほうが多いのかもしれない。
 でも、変わる時もある。
 政治的に変化を起こせなくても、誰かの心が変わることもあると思うのです。
 実際、この10年あまりで私は確実に変わりました。
 声をあげている人々にたいして「変な人たち」と大きな壁を作っていたのに、今はそう思い込んでいた自分にたいして、「なぜそんな風に思っていたのだろう?」とクエスチョンするようになりました。

 こういった1人1人の心の変化の連鎖って、とても大事だなと思うのです。

 みんなで街で集まって大きな声で抗議運動をしたりしない国民のほうが、権力者にとっては都合がいいはずです。政治的な発言をせずに沈黙を貫くことは、中立ではなく現状維持を支持するということにも繫がってしまう。

 日本に暮らしていた頃の私は、いつもプロテストが遠い存在でした。周りで参加している人もいなかったし、抗議運動を街中で行っている人々に向けられる通行人の冷ややかな反応が自分の中にも染み付いていました。とにかく「私の生きる毎日には存在しない」ことにして見ないふりをする、そんなスタンスで過ごしてきました。
 なぜなら、ひとたび興味を持ったり心を寄せたりすると、自分にとって心地良くない「社会の現状」が見えてくるから。無視をするほうが楽だったのです。

 ここ数年は日本でもフラワーデモやパレスチナ問題、日本の入管法改正にたいしてなどのプロテスト運動が増えてきていると聞きます。
 イギリスよりもずっとプロテストにたいする抵抗感が強い日本で、そういった活動に参加をすることは、私がロンドンのプロテストに参加するよりも何倍も勇気がいるのでは? と想像します。
 心から尊敬です。

 なので、SNSを通して日本で行われたプロテストの様子を見るたびに、「ああ、世界は変えられないかもしれない。
けれどさ、やっぱり変えられるのかもしれない!」と心の中にパワフルでポジティブな予感がキラッと光ったりするのです。


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