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第2回

脱抑圧の三代記――私たちはなぜフェミニストでなくなるのか 鴻巣麻里香

[ 更新 ] 2024.04.01
「私はフェミニストだからさ」

 18歳になったばかりの娘がそう言った。そのひと言はありふれた会話の中で唐突に、それでいてあまりにも自然にあらわれ、溶け込み、流れていった。今日は風が強いね、アイスクリーム食べたいな、やっぱ猫ってかわいいよね、私ってフェミニストだからさ、あの新曲いいよね、そんな感じで。

 そうか、この子はフェミニストなんだ。
 そして自分がフェミニストであることは彼女にとって自明で、かつそれを表明することに抵抗も気負いもないんだ。

 私の中にじんわり広がった感覚は羨望であり、よろこびであり、また疑問だった。彼女はなぜフェミニストになったのか。彼女をフェミニストにしたものはなにか。
 それは幼い頃に田舎の封建的な暮らしの中で経験した家父長制の抑圧であり、「よのなか」から女の子の身体に向けられる視線であり、それらによる個人的な傷つき体験の数々かもしれない。
 あるいは不自由極まりない、毎月の大量出血やら痛みやらでままならない身体そのものかもしれない。
 あるいはプリキュアであり、侍女の物語であり、マッドマックス怒りのデス・ロードやアナと雪の女王であり、レディー・ガガや(G)I-DLEかもしれない。
 そしてもちろん、私かもしれない。
 18歳になったばかりの高校生が、様々な理不尽や抑圧に対して「女だから」という解答を得るのは、たぶんそう簡単ではない。ままならない身体は「ままならないまま」にしておく必要はなく、医療的な対処によって自分で手綱を握れるようになるのだということを教えてくれる大人も少ない。娘の「なぜ苦しいの?」という問いに「女の子だから」という答えを与えたのは私だし、ままならない身体がより快適に、少しでも思うままになることを許していいのだと導いたのも私だ。娘が冗談めかして「フェミ棚」と呼ぶ書架に並ぶ本の数々、一緒に観ようと誘った映画。それらがなければ、つまり私との関係性がなければ、彼女は法事の場で「なんで女ばかりお茶汲みしなきゃいけないの?」と憤ることも、路上で見知らぬ男性に声をかけられて「声をかけてもいい相手だと舐められたことが悔しい」と腹を立てることも、「マンスプされたくないから」と女子大を志望することも、女性哲学者に光が当たらないことへの疑問から哲学専攻を選ぶことも、もちろん18歳になるかならないかで「私はフェミニスト」と公言することもなかっただろう。
 私がいたから娘はフェミニストになった、とは言わない。彼女自身の感性を、知性を、力を軽んじることになるから。しかし私と生活を共にすることで、彼女が「フェミニスト」を公言する時期は、少し早まったのではないかと思う。
 つまり、私もフェミニストだ。しかし私は30歳になるまでフェミニストではなかったし、「私はフェミニスト」と公言できるようになったのはおそらく40歳を超えてからだ。なぜなら私の周囲の大人たちは、女性たちは、だれひとりとして「女の子だから」という答えを私に示してくれなかったから。

 今から50年近く前に日本に単身やってきて、結婚し出産した私の母は、常に抑圧の中で息をし続けていた。外国籍で女性、さらには原家族にまつわるトラウマという複合的な困難を抱えた母は、私が物心ついたときにはすでに抑圧の中で静かに息をし続ける術を身につけていた。決して抗わず、抑圧を受け入れ、尊厳を削りながら静かに生きる。心の内側に溜め込んだ煮凝りのようなものが飽和状態になると、発作のようなパニックや身体的な不調で放出する。激しい放出が終わると、また抑圧に身を委ねる。私にとって、いつ訪れるか予測できない母の「放出」は何よりも恐ろしく、それを防ぐことを家庭内のミッションとして自分に課していた。インターセクショナリティといった言葉に出会うずっと以前のことであり、幼かった私が母に起きていることを精一杯理解しようと編み出したのは、「お母さんが苦しいのは外国人だからだ」という文脈だった。お母さんは外国人で、慣れない国での暮らしは大変で、文字が読めないからわからないことも多くて、ガイジンガイジンって馬鹿にされて、悩んで、だから「普通じゃない」んだ。その文脈は、まったくの的外れではなかった。実際母は外国籍であること、日本語の読み書きができないこと、複雑な会話についていけないこと、発音に癖があること、暗黙の了解や冗談が通じないことで軽んじられていた。彼女は白人女性であり、あからさまな排斥や差別の対象となることは少なかった(ここにもインターセクショナリティの構造がある)。しかし祖国で専門的な高等教育を受けた母にとって、日本で「無知な外国人女性」という扱いを受けることは耐え難い屈辱だったことだろう。「母が苦しいのは外国人だから」という説明は明解だった。すっきり謎が解けた気がした。しかしその明解さは罠でもあった。「女だから」という視点を見逃す陥穽だった。
 抑圧の中で息をし続けることに精一杯な母。本や映画の話題を娘である私と共有できない母。家庭の中で言葉が軽んじられ、意見表明と選択の機会が奪われてきた母。そんな母に対して私は早い段階から、「相談」することを諦めてしまった。母に伝わるように日本語を簡略化し、組み立て、母の機嫌を伺いながらタイミングを見計らって伝えることに疲れてしまったから。だから「お母さんは外国人だから」を理由にして、諦めようとした。母と理解し合うことではなく、諦めるために努力をした。
 もし母と言葉が通じたら。母の苦しさが「外国人だから」だけでなく「女だから」でもあることを、母は私に教えてくれただろうか。私が言われて嫌だったこと、されて苦しかったこと、選べなかったこと、やんわりと強要されたこと、期待されたこと、それらも「女の子だから」と気づけただろうか。女の子である私が「お母さんのケア役」を引き受けたことも含めて。
「女だから」という答えを得ることができないまま、私は大人になった。うまく生きられない大人になった。大学のシラバスには、もしかしたらフェミニズムやジェンダーという文字があったかもしれないが、私の目にはとまらなかった。留学先の韓国では、梨花女子大学前のスターバックスコーヒーの3階で煙草をくゆらせながら「女性の解放」を議論する化粧っ気のないオンニたちの顔をぼーっと眺めながら「どうやったらあんなに綺麗な肌になれるんだろう」「ダイエットしてるわけじゃないのになんで細いんだろう」などと考えていた。彼女たちの話にはまったくついていけなかった。抑圧があっての解放だ。私にはそもそも、「女性として抑圧を受けている」という文脈が内面化されていなかった。周囲の期待に応えていれば、だいたいのことはうまくいっていたのだから。その期待とは、容姿を磨き美しくあること、体重を減らし男性に好まれる服を着こなすこと、賢くありつつ賢くありすぎないこと、集団の中でケア役を担うこと、下ネタを笑って受け流せること、権威を持つ人を不快にさせない程度の生意気さ、そしてどんなに理不尽な目にあっても「女だから」と言わないこと。
「女性差別はダメだけど、実力不足まで女性差別のせいにするのは違うと思うんですよ」
「セクハラはダメだけど、ダメダメ言いすぎて場がギスギスしちゃうってつまらないですよね」
 若さゆえの無知という言い訳は通じないほど愚かで恥ずかしい発言だが、紛れもなく私自身が、ゼミや飲み会や合コンといったあらゆる場で、声高らかにそう放言してきたのだ。本心からそう考えていたわけでも、「ウケ」を狙って言ったわけでもない。ただそれが、その場で、そのとき、私に期待された台詞だったからそう言った。それだけだった。
 周囲からの期待を汲み取り、そのとおりに振る舞うスキルは、母との関係や、不機嫌でコントロールする癖のあった父の存在がトリガーとなる家庭内の緊張や、学校でのいじめといった逆境の中で身につけたものだ。私はそのスキルで子ども時代を生き延びてきた。しかし傷(トラウマ)によって得たものは、いずれまた私を傷つける。期待という枠に私自身のかたちをゆがめて押し込めてきた、その反動はメンタルヘルスの不調だった。
 トラウマは抑圧によって生じる。そして抑圧に適応し生き延びるために、抑圧を抑圧であると認識する力を奪う。20代の半ば、メンタルヘルスに深刻な不調をきたし、流されるようにたどり着いた精神科医療と福祉の業界で、私は自分の不調の要因が子ども時代の逆境によって負ったトラウマであることを理解した。私の「回復」の物語はそこから始まるが、完結の兆しが見えるとまた傷が開き序章に戻る、というループが何度も繰り返された。回復に必要な最後のピース、「女だから」というピースが欠けていたのだ。
 私自身が助けを求めて訪れた精神科医療の現場で、やがて私は「支援する側」に回った。当時の私にはそこしか居場所がなく、居続けるためにはユーザーになるか支援者になるかしかなかった。自分を傷つけながらも死ぬことはなく、これ以上悪くなる見通しも良くなる見通しもなかった私はいつまでもユーザーでいることはできず、資格を取得して「支援者」となった。ちょうどメンタルヘルス業界は入院治療中心から「地域支援」への移行期で、どの法人も「障害のある人もない人も幸せに暮らせる地域」「誰も置き去りにしないやさしいまちづくり」など似たり寄ったりのスローガンを掲げていた。弱くてもいい、病があってもいい、降りていく生き方でいい、そうユーザーに語りかける私たち支援者の労働環境は、しかし実にマッチョだった。時間外労働は常態化し、深夜の会議や急な呼び出しは当たり前、管理職は9割以上が男性で、「いかにプライベートを犠牲にして働いているか」がその人の評価になった。弱くては生き残れない、病んだら終わり、降りたくても降りられない、そんな環境にも私は適応できた。率先して適応した。日付が変わるまで続くカンファレンスや時間外の緊急事態に嬉々として対応し、そんな自分はなんて「デキる女」なんだと高揚した。「麻里香さんは『女だから』を言い訳にしないところが偉いよね」と男性の先輩に褒められて鼻高々だった。そのときの私は、マッチョな組織が期待する「活躍する女性」そのものだった。私はまた、周囲からの期待の枠に私自身を押し込めていた。
 最初のほころびは、なんだったのか。子育てが始まったことか。病気が見つかったことか。東日本大震災による無力感か。とにかく、私は再び苦しくなった。適応することで活躍のチャンスを得ていたのに、その適応が苦しくなる。一体何度これを繰り返せばいいのか。心身の不調はやがて仕事にも支障を及ぼすようになり、当時の上司に諭されることになった。
「子どもがいるんだから、そんなに無理して働くことはないんじゃないか。一度仕事のペースを落として、子育てに専念したらどうだ」
 言われたその場で号泣した。怖かったからだ。仕事を取り上げられることが怖かった。私から仕事を取り上げないでくれと、泣いた。そして腹が立った。同僚には子を持つ男性もいる。彼らがいくらプライベートを犠牲にして働いても、どれだけ不調をきたしても、飲みに誘って慰労するくらいで「子育てに専念したらどうか」とは言われない。なぜ私だけ、仕事を奪われなければならないのか。

 あれ。もしかしてこれって、私が女だから?

 今思い出すと笑ってしまうが、それまでいくら「女性らしい」役割を求められても、機会を誰かに譲り渡すことになっても、容姿や体型を無遠慮にジャッジされても、時にセクハラ(と認識はできなかったけれど)を受けても、こんな目に遭うのは「女だから」だと発想すらしたことはなかったのに、男性優位主義に染まった組織から「適応しなくていい」と引導を渡された瞬間に閃いたのだ。それはフェミニズムへの目覚めなどではなく、空虚な見捨てられ不安だったのだが、それでも私の生活に「女だから」という新しい視点が加わった。それは、生まれてはじめて眼鏡をかけたときの感覚に似ていた。「こんなによく見える!」という驚きに勝る「今までほとんど見えていなかった」ことに気づいた衝撃。こんなものだと慣れきっていた光景に輪郭が生じる、細部の構造が見える、濃淡がわかる、光があたらない場所にも何かがあることを知る。経験からくる憶測で補っていた部分の色や形が実はまったく違っていたことに気づく。眼鏡をかけたからって私自身がいきなり賢くなったわけじゃない、だけどもう眼鏡なしの生活には戻れない、そんな体験。
「女だから説」との出会いは、まず仕事に影響した。それまで個でしかなかった「ケース」と「ケース」がつながり、「ソーシャル」という「面」の問題として、私の中で描き直されていった。

 精神を病む女性の多くが経験する性被害
 DV被害者の圧倒的多数が女性であること
 ひとり親の大半が女性であり、多くが働いていながら、貧困率が非常に高いこと
 無職在宅の成人男性は「ひきこもり」として「問題」にされるのに、同じ状況で暮らす成人女性は「家事手伝い」という名が与えられアンタッチャブルなまま放置されること
 外国から、特にアジアから嫁いでくる女性がおしなべて若く、そして配偶者である日本人男性のほとんどが高齢であること
 望まない妊娠における男性の不在
「毒親」とラベリングされた母親の影に隠れた、話をきかない父親の存在
「障害者の性」にまつわる議論から排除される女性障害者

 これってその人の問題じゃない、世の中の問題じゃないか。
 男性優位主義の環境は、構成員から社会的な思考を奪う。環境への懐疑的な眼差しは、男性の優位性を何よりも脅かすものであるから。そして医療や福祉といった対人援助の組織は、マッチョ化しやすい。誰かが誰かを支援するという不均衡な関係性は、支配に限りなく近いものであり、支援する側は無意識的に支配力を希求する。組織がボスザルの集団と化すのは容易く、ボスザル軍団に求められる女性は「かよわく従順な支配(支援)の対象」か、マチズモを受け入れそこに適応しながら組織内のケア役を担える「わきまえた」女性のいずれかになる。どちらでもなくなった私は、やがてそこにはいられなくなった。
 組織から離れ、私は少しずつ「世の中の問題にすること」という視点を、力を取り戻していった。私の苦しみを世の中の構造的問題へと、われわれの苦しみへと広げる。その拡張と連帯を土台としたアクションに「フェミニズム」という名がついていること知った。フェミニズムとの出会いが、私を「ソーシャル」ワーカーにしたといえる。そしてそれまで支援の対象だった女性たちは、困難な世の中をサバイブする同志となった。今は在野のソーシャルワーカーとして、同志である女性たちと共に、シェルターやこども食堂といった「われわれ」に必要な場を作る活動を続けている。

 何が私をフェミニストにしたのか。あるいは、何が私をフェミニストでなくしていたのか。
 私たち女性は、そして男性も、本来は生まれながらにしてフェミニストなのだと思う。それぞれのありのままを、尊厳を守られていれば。しかし私たち女性を、男性をフェミニストでなくしてしまう仕掛けが世の中にあふれている。男性優位主義と性別二原論を基盤とする社会構造そのものがそうだといっていい。男性優位主義は必ずしも男性に幸せをもたらさない。女性も男性も、苦しみ傷つきながらフェミニストではなくなっていく。
 私をフェミニストでなくした大きな要因は、「女だから」という言葉を奪われ、抑圧に適応するロールモデルとなった母の存在だ。そして母から言葉を奪った父であり、適応を強いた親族であり、日本のコミュニティであり、母の原家族であり、その原家族を傷つけた民族的な被迫害の歴史と貧困であり、つまり世の中全てだ。しかし母と言葉を通じ合わせることができても、空気のようにそこにあり、身体に取り入れなければ生きていけない様々な抑圧に抗うことは難しかったと思う。それでも、私はフェミニストになっていたはずだ。母と共に。
 30代でフェミニストになった。30年間目を曇らせ続けてきた。しかし、娘がまだ幼いうちに「なぜこんなに苦しいのか、おかしいのか」を俎上にのせ、娘と並んで「女だから」という眼差しを向けることはできるようになった。私は娘をフェミニストにしなかったが、娘が「フェミニストでなくなる」ことを防ぐことは叶ったのだと思う。

 40代の新米フェミニストは、相変わらず生きづらい。フェミニストではなかった30年間のうちに多くの言葉が奪われてしまったから。性別や容姿、年齢についての様々な、時に無自覚のハラスメントに咄嗟に言い返すことができず、後になって「ああ言えばよかった」と地団駄を踏み、「次こそはこう言い返そう」という言葉のコレクションだけが増えていく。キャリアの面で不当な扱いを受けなくなったのは単に特定の組織に所属する働き方から逃げ続けているからで、社会的には「40代シングルマザー・非正規雇用」という構造的不均衡を体現しているようなポジションにいる。抵抗の術がわからず、ただ私を苦しめるものから逃げ続けて、ようやく「笑えない場面で笑わない」や「女性にだけ敬語を使わない男性に対して敬語を使わない」ができるようになった、その程度だ。
 それでも、貧困や虐待、性被害、進路選択での理不尽な制限、家庭内で担わされるケア役に苦しむ少女たちに、女性差別という構造があることを伝えることができる。自分を苦しくさせている型に適応する必要はないのだと、適応せずとも生きられる道があるということを示すことができる。あなたが苦しいのではない、あなたを苦しめるものがあるのだと、眼差しを重ねることができる。彼女たちが「フェミニストでなくなる」ことを食い止めることはできる。

「別に応援はしてくれなくていい。ただ邪魔はしないでほしい。それが上の世代に望むことかな」

 娘は度々そう話す。少女たちがのびのびと幸福を追求することを妨げない大人であるために、本来フェミニストであったはずの自分を取り戻す。そのチャンスは何歳になっても訪れるはずだ。チャンスは痛みであり、傷つきであり、私たちを傷つけるものはこの世の中にありふれているのだから。


鴻巣麻里香(こうのす・まりか)
KAKECOMI代表。精神保健福祉士、スクールソーシャルワーカー。1979年生まれ。外国にルーツがあることを理由に差別やいじめを経験する。ソーシャルワーカーとして精神科医療機関勤務、東日本大震災の被災者・避難者支援を経て、2015年非営利団体KAKECOMIを立ち上げ、こども食堂とシェアハウスを運営している。著書に『思春期のしんどさってなんだろう?』(2023年、平凡社)がある。
X:@marikakonosu

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