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第1回

※試し読み
ひとりで食べたい

[ 更新 ] 2022.04.07
*『ひとりで食べたい』は2023年6月に単行本されました。ご注文はこちらから。


 最近、自分はけっこう幸せだよなあ、と思う。
 それはまあ、56歳にもなって、仕事もなんとか続いていて(一瞬先は闇ではあるが)、身体も、悪いところはちょこちょこあるが深刻な持病はなく(今、痛いところはほとんどない)とりあえず健康だからだ。
 しかし今まで、自分が幸せかどうかなんて考えたこともなかった。というより自分の人生において幸せという価値基準はあまり重要ではなかった。
 私は若い頃、楽しい、という言葉が好きではなかった。もっと積極的に言うと嫌いだった。楽しいことには何の意味もないように思えた。楽しいことよりも、意味のあることが好きだった。面白いことやゾクゾクするような刺激のある経験が好きだった。楽しいというのは、何かふわふわしていて実体のない、舐めたらすぐに溶けてなくなってしまう、ベタベタしていてちっぽけな桃色の綿あめみたいなものだと思っていた。
 愛という言葉も同様で、夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳したという逸話(真実かどうかは定かでないようだ)のように、幸せも楽しいも愛も、実感の湧かない外国の言葉のように感じられた。
 それが今では、ああ、なんか幸せだ、幸せで良かった、この一瞬をかみしめないともったいない……くらいの心持ちになっているのだから、人間というのは変わる生きものである。
 そして、私が幸せという感覚を肯定的に捉えるようになったのは、1年前に友人が12年の闘病生活を経て亡くなったことが大きい。
 友人は中高時代の同級生の中で当時、つきあいがあったのは彼女だけ。時々、一緒に展覧会へ行ったり食事したりしていた。彼女が40代半ばで乳癌になった時のことはよく覚えている。あの年、5月のゴールデンウィークの後に会った時、別れ際に彼女が「風邪をひいたのか最近、首から脇にかけてのリンパが痛いんだよね」と言ったのだ。私は特に何も考えず「風邪かねえ。長く続くなら病院へ行った方がいいんじゃない」と軽く返した。
 その後、初冬に連絡があり、リンパの痛みは乳癌によるものでステージ2。まず放射線治療をしてから春に手術すると告げられた。
 翌年の春、彼女が手術入院した時、お見舞いに行くよと言ったものの、仕事が忙しくてなかなか時間が取れなかった。手術から1週間ほど過ぎて柏市の国立がん研究センターへ行くと、元気そうではあったが、出血のせいか顔面蒼白で、まだまだ休養が必要に見えた。が、翌日に退院だと言う。癌の全摘手術を受けたというのに、もう退院しなければならないのか、とちょっと驚いた。そんなに早く退院なんだ? と聞くと、病人が多いからね、と彼女は答えた。
 手術後も放射線治療や投薬をしながら治療は続けられ、順調そうにみえたのだが2年後に再発し骨に転移。そして2年前、脳膜に転移が見つかり、しばらく経ってから亡くなった。
 友人が病気になってからも、私たちは以前と変わらず時々会ったが、この12年間、私はいつも怯えながら彼女の話を聞いていた。しかしそんな素振りは見せなかった。自分の恐れは相手を不快にさせると思ったからだ。
 手術の話、副作用のこと、身体の変化、薬の値段、放射線治療の仕組み、そして主治医とのやりとり……。自分の身に起こったらとても耐えられない、と思うような痛みや苦しみを伴う話(私は痛みに大変弱い)が多いのに、友人は特に悲痛な様子も見せずに話してくれるのだった。そして、その淡々とした、時には笑い話のように語る口調は、私が恐れを彼女に見せまいとするのと同じように、彼女もまた、自身の恐れを私に見せまいという気づかいからかも知れないと最近、思うようになった。
 彼女の話の中でも特に、主治医とのやりとりは面白くもあり、また考えさせられるものがあった。友人は主治医に勧められた薬や治療法を、素直に受け入れないことが度々あった。理由は金銭的なことが多かったようだが、彼女は彼女なりの意見があり、長い間、対話を続けてきた患者と医者は互いに減らず口をききながら、次の治療法を決めていくのだった。
 もし私が癌、あるいは深刻な病気になった時、友人のように、その薬は嫌です、とか、その治療法は受けたくありません、といったことをはっきり言えるだろうか? 私は気が弱いから、先生の意見はハイハイと何でも素直に聞いてしまうかも知れない。それに、医師に対抗できるような知識を私はどうやったら得ることができるのだろう?
 今も、病気になった時の自分の態度にはまったく自信がないが、私が彼女から学んだのは「後で絶対に後悔しないように、自分が納得できる選択をする」ということだった。友人が医師の言いなりにならなかったのは、きっと後から後悔したくなかったからだ。
 そして友人の治療法や薬に関する知識はだいたいネットの海から得ていて、彼女はよく言っていた。
「闘病記のサイトはだいたい、いきなり更新が止まるんだよね。だからあまり参考にならないねえ」。

 つきあいの長かった同い年の友人が癌で亡くなったことは、母を癌で亡くした時よりずっと強く、私と死とを結びつける出来事だった。今、健康なのは「たまたま」に過ぎない。けれど明日、明後日、来週、来月、来年……はどうなるか分からない。本当にまったく、分からないものなのだ……。そして「今、生きている」、そのことに喜びを感じること、それが幸せだ、ということを私はやっと少し、理解できたのだ。
 そして、ああ幸せ、とよく感じるのがひとりで食事をする時なのだ。
 先日も私は「豚の皮が食べたいなあ……」と思い、冷凍してあった皮を取り出し、これまた家にあったキャベツと一緒に、オーブンでカリカリに焼いて食べたのだが、豚の皮もキャベツもとっても甘くておいしかった。けれどメインディッシュが豚の皮、という夕食を、人と一緒に出来るとはとても思えない。あー、ひとりで良かった~、幸せ~、と思ったわけだ。
 これはいわゆる負け惜しみとか、そういうものではない。マジ、マジなんです。
 人にあわせず、ひとりで好きなものを作って食べる愉しみ、というものを意識するようになったのも、やはり亡き友が関係していると思う。
 彼女は実家暮らしで、一度も就職というものをしたことがなかった。絵を描くのが好きで以前はイラストの仕事もしていたが、近年はバイトで日銭を稼いで暮らしている、いわゆるパラサイト的な、ニート的な人だった。それが癌になってからひとり暮らしを始めた。家族が嫌だ、一緒に暮らしたくない、というのがその理由だ。しかし父親が高齢なこともあって、実家の近所にアパートを借り、以前よりもたくさん働くようになった。
 そんな友人の行動が私は奇妙で仕方がなかった。家賃に払うお金があれば、治療費に回した方が良いのでは? とずっと思っていた。実家から5分の距離で、数日に一度は実家に戻るひとり暮らしに一体、何の意味があるのだろう? と。
 しかし、彼女のひとり暮らしへの渇望に、私も少し関与していたかも知れなかった。以前、海外へ旅行する時に数週間、猫の面倒を見てもらうために、私の家に住んでもらったことがあったのだ。思えばその後、ひとり暮らしをしたいと言うようになった気がする。きっとあれが、彼女の初めてのひとり暮らしの体験だったのだろう。
 友人も私と同じく料理が好きな人で、ひとり暮らしを始めてからも毎年、梅干を漬けていたし(梅干だけでなく、梅の季節になると小梅漬、醤油漬けなど何種類も作っていた)、ジャムを煮たりするのが得意だった。友人がくれた金柑の白ワイン煮がおいしかったので、レシピを教えてもらったこともある。彼女も最初はレシピ通りに作るが、どんどん自己流になってしまう、というタイプだった。
 果物が好きで、よく「来年はもう○○を食べられないかも知れないから、ちょっと高いけど買って食べた」とか「来年も○○を食べたいなあ」、「また○○を食べたいから生きていたい」と言っていた。
 そんな言葉はなにか、願掛けのようにも聞こえた。また〇〇が食べたいから、私はきっと来年も生きると思うよ、という風に聞こえた。
 
 食べることは生きること、などと、人は広告のコピーのように気軽に言ったりするけれど、好きなものを食べることは幸せそのものであり、生きる目的にもなりうるのだと、友人の話を聞きながら私は思うようになった。彼女は亡くなる直前まで、好物だった岩下の新生姜のことをツイートしていた。
 私は東京の西側、友人は千葉県に住んでいたので、近年は互いの家の中間くらいということで東西線の西葛西駅で会い、インド料理を食べてから食材店に寄る、というのが恒例だった。インド・コミュニティのある西葛西には本格的なインド料理店がたくさんある。レストランはその時々でいろんな店へ行ったが、食材店は決まっていた。そこはビルの2階で初めて入った時、唐突に店の主人から「チャイ飲みますか?」と言われた。
 二人して「飲みます」と答えると主人は店の奥へ引っ込み、なかなか出てこない。もしかしたら忘れられている? ちゃんと通じてない? 不安になった頃にようやく主人が出てきて、甘くて濃いチャイをふるまわれた。
 それから毎回、行けば「チャイ飲みますか?」と聞かれる。年に1、2度しか行かないから特に顔を覚えられていたわけではないだろう。なかなか出て来ないことが分かっていても、いつも「飲みます」と答える。チャイをご馳走になってからスパイスやらインドのスナックやらをいろいろと買いこんだ。
 最後の入院直前、いつものようにカレーを食べながら友人は「自分は癌になって良かったと思っている。もしなっていなかったら、もっと嫌な奴だったと思う。あと、癌になって良かったことはひとり暮らしが出来たこと」と言った。
 食事が終わり、いつもの食材店へ行くと、店はすぐ近くの路面に移転していた。店番は若い男性で当然ながら「チャイ飲みますか?」もなかった。あの時は数か月して彼女が亡くなるとは思っていなかったが、今になって思い返すと、あの頃、友人の人生は大きな変わり目を迎えていたのかも知れない、と、何とも言えない気持ちになる。
 しかしなぜ、彼女はあんなにもひとり暮らしをしたかったのだろう。
 家族への不満だけでなく、家の構造上、自室にクーラーがつけられないので夏は地獄である、といった物理的な理由もしきりに言っていたけれど、ただ人に気兼ねなく、好きなものを好きに食べて暮らしたかったのかも知れない。
 彼女は一見、気ままに生きているように見えたけれど、一方で礼儀とか常識といったものに敏感で、家族や周囲に随分、気兼ねしているようにも見えた。いやまあ、人は社会に生きている以上、誰もが好き勝手には生きていない。
 けれど食べるという行為においては、ひとりで食べる分には何をどう食べたっていいだろう。
 ひとりでの食事は孤食などといわれ、一般的にイメージが良くない。ひとりで食事をするのが嫌いな人もきっとたくさんいると思う。
 でも、好きなものを好きなように食べるというのは、実はかなり幸福度が高いのではないだろうか。そんな風に感じるように最近なってきた。
 もちろんひとりの食事の弊害というものもある。それは、いつもひとりで食事していると食べる速度がすごく速くなってしまう、ということだ。私は胃が丈夫なせいもあり、いつもあっという間に食べ終わってしまう。たまに人と食事をすると、それがちょっと、恥ずかしい。
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