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第19回

リレーションシップと大人

[ 更新 ] 2022.12.08
 前回の家事の回でも書いたが、恋人と一緒に暮らした経験がない。というか、恥ずかしい話、恋愛的なリレーションシップが長く続いたことが少ない。続けられなかったと言ったほうがいいかもしれない。あまり自分の恋愛話をこういう場でちゃんと書いたことがないのだが、理由は相手がいることだから無許可にやたらと書きたくないというのに加え(コラムに親の話がよく出てくるのはかれらが許可をくれているから)、「何を書けばいいのかわからん」というのもある。フィクションで描かれる恋愛というのはたいてい劇的に始まり劇的に終わるのだが、私のリアル恋愛はおおむねフワ~ッとなんとなく“そういう感じ”になり、気がつくとフワ~ッと終わってるという、実に締まらない塩梅が最多パターンである。
 そういうケジメのつかない恋愛をぽつぽつやってるうちに(一つの愛が終わると次が始まるまで間が開きまくる)、あっという間に人生が後半戦に入ってしまった。別に何歳になったって刹那的な恋愛なんてしていいと思うが、やっぱここまで来ると多少関係が深まると「先」をどうするかということを考えずにはいられない。そして私はそういうことを考えるのが、たいへんに苦手なのだった。
 恋愛嗜好のある人間にもグラデーションはあって、一旦ギアを入れたらアクセルベタ踏みでそのことだけに一直線な人もいれば、あくまで人生のサイドラインの位置に置く人もいる。自分も、恋愛はわりとしたいしするし、性愛の方面もまあまあスケベ(こっちはもうちょっと複雑でいろいろある)なのだけれど、そのことだけで頭がいっぱいになるようなパッショネイトな恋をするタイプでは、たぶんない。こういうヘニャヘニャした姿勢が(相手によっては)よくないのは分かってるんだけど、どうにもできない。熱心にやれないならはなっから恋とか性愛なんてしなきゃいいのに、ついフラッとしてしまう。フィクションや恋愛エッセイに出てくるのってどちらかというとアクセルベタ踏みパーソンの割合が多いと思うんですが、現実にはこういうフニャモラした芯の入らない姿勢でやってる人もけっこういると思うんですよね。どっちがいいとか悪いとかじゃないけど、フニャモラ派はエンタメ度が低いのであまり俎上に上がらないのかもしれない。
 誰かとお付き合いしたとき、その「先」をあんまり真面目に考えたことがない、というこの性向に、私が同性愛者であることが関係しているのかどうか、正直よく分からない。ないんじゃないかなーと思うけど(セクシュアリティに迷走し異性との交際にもトライしていた若い時も、結婚や同棲をしたいとは考えなかった)、「先」を考えにくい理由にセクシュアリティが無関係でもないとも思う。なんとなれ、日本では同性婚が法的に認められていない。東京都はパートナーシップ制度を(やっと今年)始めたが、婚姻関係で得られるさまざまな優遇措置や法的な保護からはやはり程遠い内容で、あくまで別物の制度だ。そう思うと、「この先どうする?」の、その具体的なプランを考えるのが、なんとなく面倒になってしまうのも正直な気持ちなのだ。
 結婚について考えていることはいろいろある。まず、大きな基本として私は婚姻制度そのものに反対だ。いらんと思っている。しかしこれだけ長年、世界各国に根付いている社会制度をすぐにピャッと消すのはサノス(MARVELの悪役。映画では指パッチンで宇宙の生命の半分を消した)だって難しいだろう。なのでせめて権利の平等を、望む成年同士なら誰でも結婚できる権利を求めている。そのうえで自分がそれをしたいかどうか考えると、言葉と思考が濁ってしまう。単純にいっぺんくらいはしてみたい気はあるが、「できなさそう」というのがその前に来る。私はそんなに悪い性質の人間ではないと自認しているが、共同生活の相手としては誰にもおすすめできないクソ・パーソンな気がするからだ。
 しかし「自分、クソ人間ッスから……(笑)」という自虐がなんとかサマになるのも20代前半までだ。40にもなってんなことほざいてたら「クソの自覚があるのにその歳まで放置してたのかよ」ということになる。自分のうんこ度を正しく把握しておくのはいいことなのだが、うんこに甘えてはいけない。自分のどのへんがどれだけうんこなのか、誰かと一緒に暮らすためにはそのうんこをどのように調整・改善していく必要があるのか。結婚なり同棲なりをするつもりなら、自分の総括がまず必要だろう。
 で、その総括からなんとなく目を逸らしてきた結果として、41歳独身という現状があるのだけれど、それを自分で不幸に思ったりなんとかしたいという気持ちも、今のところぜんぜん湧いてこない。ただ、順当に行けばあと40年くらいはあろう余生をずっと一人で生きていけるのか? という疑問はある。一生一人で大丈夫! と前は思っていたけれど、たぶん私はそんなに強くない。それは分かってきた。現世から早めにスパッと退場できればそれでもいいけど、長寿の家系だ。きっと老後のどこかで孤独というモンスターに頭をカチ割られるだろう。そうなったときに慌てて誰かと生きる道(恋愛でも、友情でも、ビジネスライクなルームシェアでも)を探そうとしても、時すでに遅しとなってしまうだろう。実行するしないは別として、今から考えておかなきゃいけないのだ。
 恋愛だけでなく、あらゆる人間関係において、自分はそれを長く健やかに維持するための努力を怠ってきすぎた、と最近じわじわ分かってきた。中年になってこういうことに気付くのは恐怖である。私のどこが特にうんこ野郎なのかというと、自分のことにしか興味がない部分だ。これは地味だが社会的生物として生きる上でクリティカルな瑕疵で、ここをカバーするためにさまざまな思考のトレーニングを続けてきた。私はチャリティにもちょくちょく参加するし、時事問題にもアンテナを張っている。でも何も気負わなくても自然とそういう行動ができる人間ではない。頑張って意識して、自分以外の人や物事のことを考えようとしている。言うたら偽善者である。しかし、偽善者になるのだって簡単じゃないのだ。
 怖いのは、私が10代、20代、30代と、平均以上に本を読み映画を観て漫画を読みしてきたことだ。そこにはたくさんのリレーションシップが描かれ、また現実のそれの参考になるような話も山のようにあった。たくさんの出会い、別れ、関係性の維持、他人と生きる将来、この世に生きる自分以外の人たちのさまざまな人生が描かれていた。私はそれを観た。読んだ。しかしほとんど己の身にはつかなかったのである。フィクション(ときにノンフィクション)を大量に摂取したからといって人格が上等になるわけではない。自分で「ましになろう」と思わないと、ましな人間にはなれない。というわけで、私はまだ「まし」になる修業をしている身で、だからまだたぶん一人でいるしかない、気がする。(以下次回)
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