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第14回

おもしろと大人

[ 更新 ] 2022.09.07
 もう15年くらいテレビを持たない生活をしているのだが、そうするとどうなるかというと、CMとアイドルとお笑いと邦楽の情報にめちゃくちゃ疎くなる。特にお笑い芸人とネットに画像や映像を出さない系事務所のアイドルに関しては、完全に90年代後半くらいで知識が止まっている。正直なところ、これは職種的にあまりよくない状態である。エンタメ作家たるもの、常に浅くとも広く現代風俗を識っておくに越したことはない。でも、しんどいんだよな~、テレビ。行きつけのラーメン屋や居酒屋でテレビがついてるとなんとなく眺めたりするけど、30分も見てるとだいたいヤな気持ちになる映像か音か発言が飛び込んできて、これを家に置いておく勇気が出ないなと思ってしまう。
 あと自分は「耳」が若干気難しいたちで、漫画や小説や映画は多少好みと外れていてもとりあえず最後まで鑑賞するのだけど、音楽は10秒聞いて気に入らなければ消すか別の曲に飛ばすかしないと、ストレスメーターが速攻でアガってイーッとなってしまう。ゲームなんかも音声関係のスタッフさんには本当に申し訳ないが、ほぼ全て音を消すか、configで最小限の効果音だけ鳴らすように調整して遊んでいる。テレビをつけていると問答無用で好みじゃない音楽や音がドカドカ流れてくるので、それがしんどいのだ。同じ理由でラジオもあまり聞かない。家に居る時間は80%くらい仕事をしているか仕事をしなきゃとグネグネしている状態なので、なるべくストレスなく過ごしたい。というような理由で生活からテレビを遠ざけている。
 インターネットだけで情報を得ていると取捨選択ができる(できてしまう)ので、興味の薄いものにはとことん触れないで済ませてしまえる。例えば私は現代日本で非常にポピュラーなアーティストである米津玄師氏の音楽をまともに一曲も聴いたことがないのだが、家に引きこもってテレビやラジオを聞かずに過ごすとそんなインポッシブルそうなミッションもクリアできてしまう。自分でそういう生活をしておいてなんだけど、この「避けようと思えばとことん避けられる」状態って、ちょっと怖いなとも感じている。
 大人になる、年をとるというのはつまり、最先端から離れていくことだ。いや、いくつになってもなんらかのシーンの先頭に立ってたり、なんなら牽引している人もいるけども、たいていは、ヤングなカルチャーや常識からはズレていき、古きものとして終わりを迎え骨壺に入る。私は今、自分が現代風俗と並走しきれなくなってきているのを感じている。物理的にも。ゲームだって、もうFPSゲームとか目が痛くなっちゃってぜんぜんやりこみできないもん。まだそこまではいってないけど老眼とかになったら確実にプレイできなくなる。アイテム名の字とか状態異常のアイコンとかちっちゃくてさ……ほんとゲームって若者のためのメディアだよなと痛感。
 べつにいついつまでも流行に詳しくなきゃいけないことはないんだけど、先にも書いた通り職業的な不安がある。小説には若者を登場させねばならないときがあり、そのとき20年前の若者を出してしまって読者にズッコケられるチョベリバな事態は避けたいのだ。
 だからごくたまに人んちとか、病院の長~~~い待ち時間に腰を据えてテレビを見るのだが、中でも一番齟齬を感じるのが「笑い」の感覚なのだ。そりゃショーワの時代からはだいぶマシになっただろうけど、未だに人の年齢やルックス、恋人のあるなし、婚姻関係、人種やセクシュアリティなどを「いじる」笑いがフツーに出てくるのだ。
 普段、自分が自分にとって心地良いインターネット環境をうまく構築しすぎていて、基本的に批判的文脈以外で差別的/蔑視的/嘲笑的な「笑い」のネタがほとんど目に入ってこないので、たまにナマのやつに触れるとぎょっとしてしまう。世の中、これで笑っていいことになってるの? マジで? というかんじ。
 「笑い」とは何かについては、以前『早稲田文学』に原稿を依頼されてコラムを一本書いたことがある。そこでは「笑いというのは極めて社会的な行為であり感情だ。怒りや悲しみにはあまり説明が求められないが、笑いにはコンテクストがあり、時として解説が必要」みたいな内容を書いた。私は笑いというのは恐怖や怒りといった「本能」のコアな部分にある感情とはちょっと離れた、学習と社会性によって導き出される感覚だと思っている(そういう意味で世界で初めて「ギャグ」をかましたのがどの時代の誰なのかに興味がある。ネアンデルタール人の集団とかでも“おもろ”な奴が居たんだろうか)。人はオギャアとこの世に発生したのち、社会から文化や言語を学習し、そこで初めてギャグの意味での「笑い」を習得する。んじゃないかと考えている。
 つまりテレビというこの世で最も大きいメディア(テレビ離れと言われているけど、まだまだ影響力が最大なのは間違いない)で「いじり」の笑いがハバをきかせているうちには、諸処の差別問題とか、解決が遠くなるんじゃないかなと大げさでなく思っている。なぜかというと、「いじり」というのは「一般」から少しでもはみ出した人/その部分を嘲笑する手段だからだ。平均値とされているもの、「ふつう」とされているもの、みんなが知っているとされているものからはみ出した要素を笑いものにする。それが「いじり」。
 なぜ「いじり」が差別につながると思うかというと、平均とされるもの、規範とされるものからはみ出したものを嘲笑することによって、いじられたくなければ・恥をかかされたくなければ規範に従うしかないという空気が作られていく。それは人間に物心両面で均質化を求め、その規範を強化する行為、強く言うとファシズム的な笑いなんじゃないかと思うからだ。
 「みんなと同じじゃなきゃダメなんだよ、せんせーに言ってやろ!」というフレーズを子供時代に何度も浴びてきた身として、この「いじり」の空気はたいへんに居心地が悪い。でも、テレビの現場でもそこから脱却した笑いをやろうとしている人たちも今はたくさんいると聞くので、どうかマジで早く、そっちの方面がポピュラーな笑いの文化として花開いてほしい。切実に。
 主語がデッカイ話をするのを許してほしいが、前から日本の社会って小学校の教室がそのまんま続いてるなと感じてる。いい年こいた大人が「みんなと同じじゃなきゃダメなんだよ、せんせーに言ってやろ!(大意)」を堂々と発言することも少なくない。私はもうそれを聞きたくない。大人として。(以下次回)
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