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第四章 闘争──波間にただよう小舟(後篇)

[ 更新 ] 2021.09.01
 州間高速道路87号線、通称「スルーウェイ」を一時間半ほど北上して、ニューヨーク州のかつての州都であったキングストン出口で高速から降り、一九六九年(昭和四十四年)に約四十万人の若者たちが農場に集結した野外コンサート「ウッドストック ミュージック・アンド・アート・フェスティバル」にゆかりの町ウッドストックを通り過ぎると、あたりの景色は一変した。
 道路の両脇に広がっているのは、思い思いに染まった紅葉の森。
 背高泡立草に覆われた野原は、まるで黄色い海のように波打っている。フロントガラスの彼方からは、燃え上がっているような山々が迫ってくる。
 赤、オレンジ、黄色の弾ける、花火のような林。
 樹木に埋もれるようにして、白い家や教会や牧場のサイロなどが見え隠れしている。 
 人よりも、牛や馬や鶏の数の方が多いのではないかと思えるような里や、郵便局と消防署と学校があるだけの村を行き過ぎると、人気ひとけのまったくない世界に、まっすぐな一本道が意志を持った者のように伸びている。対向車も後続車もほとんど来ない。
 こんなにも美しい景色を、独り占めにしていることが贅沢なようにも、孤独なようにも感じられる。
 カーラジオのチャンネルに指を伸ばして、私は、それまで聴いていたクラシックから、カントリーソングを流している局に合わせる。
 とたんに、車内の空気が軽く、底抜けに明るくなる。
 「ニューヨークシティにはジャズが似合うけど、カントリーサイドをドライブするなら、カントリーに限るよ」
 と、友人が言っていたことを思い出した。
 待ちに待った週末、ジーンズの似合う彼女、ビールで乾杯、しかしまさかの失恋、ウイスキーで傷を癒す、バーで新たな出会い、ピックアップ・トラックの荷台で愛を囁く、俺の馬、俺のおじいちゃん、俺のギター、俺のメモリー……そんな言葉を適当に組み合わせたら、アメリカのモダン・カントリーソングができあがりそうである。いっそ軽薄と言ってもいいようなラブソングと、田舎町の景色が妙にマッチしているから不思議だ。
 アンデスという名前の小ぶりな町──今夜はこの町に泊まる予定だ──を過ぎて、三十分ほど走っただろうか。
 大きなカーブを曲がりながらひとつの峠を越えると、眼下に学園町が広がっていた。
 正午過ぎ。空は晴れから薄曇りに変わり、そのせいで、紅葉の色がいっそう濃く、深く、まぶたに染み込んでくる。
 綴りはインドの「デリー」と同じなのに「デルハイ」と読ませる町。
 人口は約三千人。周辺の田畑で農業や牧畜業を営む人たち以外は、ほとんどがニューヨーク州立大学デルハイ校の学生、および大学関係者たちではないかと推察できる。若者たちにとってはさぞ、学問に身が入ることだろう。何しろ、喫茶店はおろか、遊び場など何もないところなのだから。
 これから会うことになっている梅宮彰朗氏は、アメリカの大学で学士号、修士号、博士号を取得したのち、一九八五年(昭和六十年)にこの大学に雇用されて以来「アジア研究学科」の教授として、かれこれ二十三年あまり、学生たちを指導しつづけている。
 一九四六年(昭和二十一年)広島生まれ。
 渡良瀬千尋よりも、ひとつだけ年下である。
 千尋が京大生だったとき、時期を同じくして同志社大学に在学していた。しかも梅宮氏は当時、同志社大学学友会および京都府学連委員長として、ヴェトナム反戦運動を指揮・指導していたという。
 梅宮氏の存在を発見したのは、編集者の本多さんだった。彼女の知り合いが偶然、梅宮氏の上梓した著書を読んでいたことから、点と点がつながった。
 この人は、千尋に会ったことがあるのかもしれない?
 あるいは、行動を共にしたことが? 
 あるいはまた、熱く議論を戦わせたりしたことが?
 本多さんから、梅宮氏の経歴を教えてもらったときには一瞬、脳内を沸騰させてしまった。
 「ああ、渡良瀬くんのことは、そりゃあもう、よう存じ上げとります。彼は有名人じゃったしね。高潔な人柄で知られていました。献身的な人で、奉仕活動にものめり込んでいたし、文学青年でもあったらしいね。しかし、インテリだけじゃあ、物足りんタイプじゃったんでしょう。肉体労働をやって体を鍛えていた。それは、僕らのあいだでは有名な話でした。いずれリーダー格になる人じゃいうことで。ただ、彼は七一年には日本を出ていってしもうたし、それまでに何度か、すれ違いみたいなことはあったけど、残念ながら直接は……」
 アポイントメントを取るために私からかけた電話に出た梅宮氏は、笑みを湛えた声でそう言った。広島弁の交じった言葉が耳に心地好かった。
 梅宮氏は、在学中に持病の心臓病が悪化したため、卒業を待たずに大学を中退。郷里での療養生活に入ると同時に、学生運動の最前線からは遠ざかってしまったという。
 「いったん活動に見切りをつけた、いうことです。なんのための、誰のための闘争なのか、自分でもわからなくなっておったんですね。それまでは学生の応援をしておった国民も、浅間山荘事件と仲間内の総括、リンチ事件によって、急速に離れていきました」
 事件から数年後の一九七七年(昭和五十二年)に渡米。
 この年の九月、パリ発東京行きの日航機が日本赤軍にハイジャックされて、バングラデシュのダッカ空港に着陸。日本政府は犯人グループの要求に応じて、活動家六人を釈放し、身代金を支払っている。
 渡米の動機を、梅宮氏はこんな風に語った。
 「故郷で燻っとるあいだに、思いついたんです。三十年、日本で日本人をやったわけじゃし、次の三十年は日本を出て、どっか外国で日本人をやってみようかと。どうせなら、アメリカいう国をこの目で見てやりたかったし、資本主義を歪(いびつ)に発展させたアメリカ帝国主義に逆らいながら、蟻のように日本人をやるのもええかな思うてね」
 日本人をやる、という言い方が梅宮氏の生き様を物語っているように感じられた。
 「あなたの求めているような話ができるかどうかはわからんけど、それでもよかったら、僕でもよかったら、話はしますよ。あの頃の話。あの頃も、ここも、そっちからは遠いとこじゃけど、会いに来てくれたら」
 「お伺いします」
 と、私は即答した。
 ニュージャージー州に住んでいながら、千尋と同じ時代を生き、同じ京都の空気を吸っていた、日本人もと活動家から「あの頃の話」を聞けるなんて、千載一遇のチャンスではないかと思った。
 
 住宅街を縫うようにしてつづく坂道を登り切った高台に、梅宮氏の家は立っていた。山小屋風の簡素な造りの家だ。背後には、山がそびえている。前庭には広大な野菜畑があって、麦わら帽子をかぶった梅宮氏は畑のまんなかに立ったまま、運転席の私に向かって大きく手を振っていた。
 妻のヘレンさんは隣町の病院で看護師として働いており、再婚だった彼女の連れ子たちはそれぞれ、中学校と高校に行っていて留守。水曜日の午後には担当している授業がなく、体の自由が利くので自宅に招待したいと、申し出てくれたのだった。
 お昼はまだ食べていないと言った私を、梅宮氏は手ずからの料理で持て成してくれた。畑で収穫した赤ピーマン、ズッキーニ、茄子、人参、玉ねぎなどを使ったラタトゥイユ。添えられていたパンは、ヘレンさんの手作りだという。
 世間話もそこそこにして、私は息急き切って質問を重ねた。午後三時半からは別件があると言われている。取材時間は、二時間弱。訊きたいことが多過ぎる。
 対照的に梅宮氏は、終始おっとりした口調で、穏やかに語った。
 「三回生のときでした。同志社の学友会中央委員長になったのは。田舎の両親は、ひどく失望しとりました。なんのためにおまえを大学へやったのかわからんと。本来なら、英文科を卒業して郷里へ帰って、中学か高校の英語の教師になるはずじゃった息子がマルクスの理論にすっかりかぶれて、いわゆる『階級社会の中での自分の位置付けと闘争』に、必死になっておったわけですからね。ええ、学生や知識人の先駆性、それを自分が担っていると、生意気にもな。今出川キャンパスや円山公園から、闘争の場を広げて、ついには首都へ。ヴェトナム人民をアメリカ帝国主義から救い出し、青年労働者たちとの連帯により反戦の輪を広げていく……自由と希望にあふれる未来、貧富の差のない平等な社会を夢見る、平和的かつ思想的な闘争です。六〇年代は、それに明け暮れていました」
 ここにも「渡良瀬千尋」がいる──。
 一瞬、自分が今、アメリカ東海岸の田舎町にいることも忘れて、私は目の前の、いかにも人の好さそうな農夫にしか見えない、六十二歳の大学教授の、こんがりと日に焼けた額の皺に視線を向ける。
 もしも千尋が生きていたならば、彼には、どんな六十代の人生が用意されていたのだろう。
 「運動に参加するきっかけは、やはりオルグだったのですか?」
 オルグとは「オルガナイザー」の略語で、組織や団体の拡大を目的にして、人を勧誘する活動、もしくは、活動する人物を指している。
 「その通りです。僕をオルグしたのは、当時、立命館で活動していた人でした。彼はのちに上京して、中央権力闘争に身を置くことになり、防衛庁への突入なんかも決行した人物で、刑務所暮らしも長かったなぁ。オルグされたときには、マルクスの話もレーニンの話もいっさいなくてね、新島襄とブレヒトと石川啄木と島崎藤村でしたわ。おかげで僕も、活動家の中では異端児になってしまった。ヘルメットの色は、はい、赤でした。共産主義者同盟、いわゆるブント系です。しかし、赤ヘルも党内闘争によって、だめになっていったね。ハイジャックで北朝鮮へ高飛びし、浅間山荘銃撃戦で一般人を巻き込んで、それからあの連合赤軍リンチでしょう。どこでどう間違って、あそこまでの地獄に堕ちたんか。出発点ではみんな、純粋な思想と潔癖な意志を持っておったのに」
  赤ヘルとは「日本赤軍」──一九七二年から二〇〇一年まで実在した、新左翼系の国際武装ゲリラ集団──の前身である。
 梅宮氏が活動から離脱することなく、赤いヘルメットをかぶりつづけていたなら、どこかで千尋と出会っていたのだろうか。日本赤軍の創設時の主要メンバーのひとりであり、最高幹部でもあり、軍事委員でもあった渡良瀬千尋と──。
 
 ゆうべ、まったくフザケタ記事を読んで、俺はまだ頭に来ている。おまえ、それでも歴史家か。此度の戦争を「あれは不幸な時代であった。みんな悩んでいたのだ」と切って捨てて見せた。さらに戦後の今は「戦前までの歴史の特徴であった戦争と革命の2つが共に不可能かつ不要になった」と言いやがる。ったくふざけるのもいい加減にしろ。おまえはそれでも歴史家か。「支配者は、己の権勢や利益のために戦争を実施するのではなく、足もとに存在する民衆に押されて、民衆たちの生存のために戦争をおこなうのである。そういう意味では革命も戦争も、主体となっていたのは民衆に他ならなかった」とさ。それならあれか。広島原爆で死んだ人たちは、戦争の主体となっていた人たちだったから、死んで当然とでも言いたいのか。チクショウ。こういう輩が「歴史家」「インテリ」を気取っているこの国って、なんなんだよ、チキショウめ。

 「あ、ちょっと失礼」
 梅宮氏がかかってきた電話に出ているあいだ、ひとりになった私は『カイエ──名も無い革命家の残した断章』に書かれていた文章の断片と、聞こえてくる「千尋の声」を思い出しながら、そこに、梅宮氏の口にした「地獄」を重ね合わせてみる。
 純粋や潔癖がなぜ、地獄へと向かったのか。
 向かうことを止められなかったのか。
 そこには、主義主張ではなくて、何かもっと別の力が働いていたのではないか。
 連合赤軍──赤軍派と革命左派が共産主義革命を目指して結成したグループ──の起こした凄惨なリンチ事件に、千尋は直接、関わってはいないけれど、外国にあって、この事件を知ったとき、どれほどの衝撃を受けたことだろう。
 電話を終えて、リビングルームに戻ってきた梅宮氏に、私は無我夢中で質問をした。砂時計から落ちる砂が見えるかのように、時間はあっというまに過ぎていった。
 時計はすでに午後三時半を回っている。
 そろそろ辞さなくてはならない。
 「……こんな四方山話、何かの役に立ちましたでしょうか?」
 この言葉をきっかけにして、私は立ち上がった。
 「もちろんです。ありがとうございました。また機会がありましたら、ぜひ、お目文字したいです」
 玄関前まで見送りに来てくれた梅宮氏と、固く握手をして別れた。別れ際に、サイン入りの著書をいただいた。
 「六十を過ぎてから、これまでの来し方をふり返って書いた、実におセンチな随想集です。中嶋さんのお知りになりたいことも、ちょっとは出てくるかな。しかし、ほとんどのことはきょう、お話しした通りです」
  はにかみがちに差し出しされた著書のタイトルは『アメリカで日本人を生きる』。取材前に読んでおくべき本だったのに、取り寄せるための時間が足りなくて、それができなかったことを私は詫びた。 
 
 アンデスまで引き返して、幽霊屋敷みたいなホテルにチェックインし、一階にあるレストランで夕食を済ませたあと、テーブル席が混んできたのでバーのカウンターに移って、デザートワインを飲んでいると、常連客と思しき男から声をかけられた。
 ジーンズにワークシャツに野球帽。職業は大工か農夫か土建業か。
 「きみ、旅行で来たの?」
 「まあ、そんなものです」
 仕事です、とは言えないような辺鄙な村であり、界隈である。アジア人女性がひとりで、ここでどんな仕事をするというのか、説明するのも面倒なので、そう答えておいた。
 「見るものなど何もないけど、まあ、田舎と森を見るってことなのかな?」
 「何もないところがとても贅沢に思えます。都会から来ましたので」
 「よかったら、一杯おごるよ。うまい地ビールがあるんだ」
 まるで、カントリーソングに出てくる一場面を体験しているようだと思った。
 「ありがとうございます。もう眠くなってきたので、お気持ちだけいただきます」
 笑顔で答えて、スツールから滑り降りた。
 客室へ戻って、梅宮氏から聞いた話の骨子をラップトップパソコンに整理しておきたいと思っている。
 足を踏み出すたびにぎしぎし音のする階段を昇って、二階にある客室へ戻った。もともとは、大金持ちのお屋敷だった建物をホテルに改装したのだろう。あちこちにガタが来ている。しかし、この界隈には、このホテルしかない。
 ベッドに寝転んで、しばらくぼーっとしているうちに、まどろんでしまったようだ。
 はっと目を覚ましたとき、それまで見ていたのが「夢だった」ことに安堵した。
 小舟に乗って漂流している夢を見ていた。食べ物も飲み水もない状態で、波に揉まれていた。それは、このベッドのせいだ。体を動かすたびに大きく左右に揺れる。スプリングが壊れているか、緩くなっているか、どちらかだろう。すぐ上の三階にいる人が歩き回るたびに、天井が揺れているような錯覚に陥る。
 怖かった、と、思いながらベッドから出て、熱めのシャワーを浴びているさいちゅうに、ある短編小説を思い出した。
 井上靖の著した『補陀落ふだらく渡海記』という作品。
 熊野にある補陀落寺では、住職が六十一歳の十一月を迎えたとき、小舟に乗って観音浄土を目指す旅に出る、という習わしがあった。小舟に乗った僧侶の頭上からは、板で作られた覆いがすっぽりとかぶせられる。つまり、僧侶は生きながら、死出の旅に出なくてはならなかった。悟りを開いて潔く死に挑む僧侶もいたが、苦悩と葛藤に追い詰められる僧侶もいた。主人公は確か、海に投げ出され、摑まっていた板ごと、島に打ち上げられたあと、ふたたび海へ流されるのではなかったか。
 ずいぶん昔に、おそらく十代くらいのときに読んだ作品であるはずなのに、僧侶の恐怖感だけがふつふつとよみがえってくる。
 生きたまま、視界を遮られた状態で、海に流される恐怖とは、いかほどのものだろうか。待っているのは餓死か、溺死か、はたまた、苦しみに耐えられなくなって舌を噛み切って死ぬ?
 そこまで思ったとき、私はまっすぐに備え付けのライティングデスクに向かい、デスクの上のパソコンをあけて、書きかけの原稿を呼び出していた。
 
 結局、半年ほどで、民青を脱退した千尋は一九六九年(昭和四十四年)一月二十一日、京都大学全共闘運動に参加する。
 これを機に、千尋の人生は急速に、ある地点──物質がある状態から別の状態へと変化する際(きわ)──へ、すなわち臨界へ向かって進み始める。
 そういう意味では民青は、千尋にとっての小舟であった。千尋は、不完全な小舟に乗って波間を漂ったあと、ふたたびもとの浜辺に戻ってくる。
 彼の死出の旅は、その浜辺から、始まったのだった。
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