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第四章 闘争──波間にただよう小舟(前篇)

[ 更新 ] 2021.08.02

 そもそもなんで日本人のおまえが
 ヴェトナムのジャングルで、遠いヴェトナムの泥沼で
 どんぱちやってる戦争に反対せなあかんのや
 平和ボケした友に問われて、俺は食ってかかった
 日本はほんまに平和なんか
 ヴェトナムの空から爆弾をばらまいている爆撃機は
 どこから飛び立っているのか
 村を村人ごと焼き尽くしているナパーム弾は
 どこの国で製造されているのか
 考えてみたことがあるんか
 アジアに共産圏ができるという恐怖に駆られて
 ヴェトナムへの侵略戦争を続けるアメリカ
 公然とそれを支持する日本政府
 これでも日本は戦争に加担してへんと言えるのか
 言えまい! 言えまい! アホ! 目を覚ませ!
 そもそもなんでマッカーサーは天皇制を残したんや
 それは日本を共産主義国家にさせないためや
 何もかも軍部の責任で、国民は洗脳されていただけ?
 そう決めつけて、国民を骨抜きにしようとした
 平和憲法を有する平和国家? 永久に戦争を放棄?
 それならなんで基地があるんや
 それならなんで戦争でぼろ儲けしとる会社があるんや
 この国がヴェトナム戦争の片棒を担ぎ続ける限り
 俺は闘う なんのために? 決まっとるやないか
 これは世界平和のための闘争なんや!(言葉が軽い)
 
『カイエ──名も無い革命家の残した断章』より
 
 渡良瀬千尋が「平和のための闘争」とうたった、戦後の日本における学生運動とはいったい、なんだったのだろうか。
 おおざっぱにその歴史をふり返ると、学生運動は明治時代、旧制高校などで起こった校長の排斥運動に始まり、大正から昭和にかけては、労働運動や農民運動など、大学外の社会運動とも連帯し、主にマルクス主義や社会主義の影響を受けながら発展していった。一九二〇年代になると、軍事教練に反対する学生たちの運動が活発になったりもしたが、一九三一年(昭和六年)、日本が満州事変を起こして、名実共に軍国主義国家となって以降、学生運動はいったん鳴りを潜める。
 戦争により解体されていた学生運動が復活するのは、敗戦から三年後の一九四八年(昭和二十三年)。この年、大学内での民主化運動の盛り上がりを受けて、全日本学生自治会総連合、いわゆる「全学連」が結成されている。当時は、日本共産党の影響を強く受けていた。
 一九五一年(昭和二十六年)、日本は日米安全保障条約に調印。その後、共産党の路線変更などによって、共産党と学生運動は袂を分かち、共産党から除名された学生たちによって、新左翼共産主義者同盟、いわゆる「ブント」が全学連を掌握する。
 一九六〇年(昭和三十五年)に最高潮に達した、日米安全保障条約の改定──アメリカは日本の防衛義務を負う。期限は十年、などが盛り込まれていた──に反対する運動、いわゆる「安保闘争」において、ブント全学連は、安保全学連と共に、中心的な役割を担った。戦後の学生運動は、安保闘争を抜きにしては語れない。が、安保闘争が翳りを見せ始めると、両者は分裂、学生運動は消滅の一途をたどっていった。
 下火になっていた学生運動にふたたび火を点けたのは、ほかならぬ、ヴェトナム戦争であった。
 一九六四年(昭和三十九年)八月、学生のみならず、社会党、共産党、労働組合総評議会など百三十七団体がヴェトナム反戦集会を開くなか、日本政府は、南ヴェトナム(アメリカの傀儡政権)への緊急援助と、アメリカのヴェトナムへの軍事介入の支持・支援を決定。その二ヶ月後に開催された東京オリンピックは、こうしたアメリカ追従の政策から国民の目を逸らすには格好の「平和の祭典」だったと言えようか。
 千尋が京都大学へ入学したのは、この年であった。
 六五年以降、学生運動は、それまでにない高揚期を迎える。
 ヴェトナム戦争反対以外にも、日韓条約反対、国鉄の運賃値上げや学費値上げ反対、学生寮や学生会館の管理を巡る大学側との闘争、医学部ではインターン制度廃止を求める闘争なども活発になっていく。
 こうした一連の学生運動は「学園紛争」とも呼ばれるようになった。
 キャンパス内には主義主張を書き記した立て看板があふれ、壁にはポスターがべたべた貼られ、土埃とアジびらが舞い飛び、ストライキと称する授業のボイコット、アジ演説、学生集会、デモなどが日常茶飯事となり、頭にはヘルメットをかぶり、手にはゲバ棒を握った学生たちが入り乱れた。ゲバ棒とは「ゲバルト棒」の略称で、ゲバルトとはドイツ語で「実力闘争」を意味する言葉である。闘争の一環として、バリケードを築いて学舎の占拠をする学生たちも出現するようになった。
 もちろん千尋も京大の内外で、さまざまなデモに参加した。
 警察官や機動隊と衝突して逃げる際、靴が脱げないように、靴の上から紐でぐるぐる巻きにしていったり、催涙弾にはレモンが効くと聞いてからは、ポケットにレモンの輪切りを忍ばせていったりした。当時、レモンは高価だったため、千尋は喫茶店で紅茶やコーラに添えられているものを集めていたようである。

 3時まで読書。11時起床。午後デモに参加。警官侵入事件と学生逮捕に対する抗議デモ。長い隊列だ。数え切れないほど長い。最初はぞろぞろ。昆虫かこいつらは。俺もその一匹だが。事の発端は先月、西部構内に無断侵入した警官を学友らが追及中、学外待機中の警官の要求を呑んで解放したこと。今月、この解放措置に抗議するためのデモ中、逮捕者が出た。本日のデモは立命館まで。立命で集会。しかし集会は混乱。混乱したまま川端署前から丸山(中嶋注・円山公園か?)へと雪崩れ込む。血が騒ぎ肉は躍るが、頭は豆腐と味噌状態で働かず。声を涸らして叫ぶも、自分の声に哀れさを感じて笑う。のみすぎ、たべすぎたものを吐く。むなしい、さびしい、からっぽだ。ただ、スカスカなむなしさに胸を掻き毟りたくなる。俺が求めているのはこんなもんじゃねぇ、何かもっと大きなものじゃなかったのか。

 デモに虚しさを覚え、セツルメント運動を通して、平和で豊かになったはずの日本社会の現状に絶望感を抱いた千尋は、いつしか「何かもっと大きなもの」を求めるようになっていく。
 大きなものとは、なんだったのだろう。
 デモからも、かたからも、セツルからも得られない、もっと大きな何か。思想か、哲学か、宗教か、神か。おそらく、そのようなものだろう。
 それを信じて、そこへ向かってひた走っていれば、自分は生きているという証が得られる。自分の存在意義を実感できる。おそらく、青春時代を生きる若者であれば誰もがぶつかる壁に、千尋もぶつかっていたということだろう。
 彼は決して特別な若者ではなかった。
 少なくともこの時点ではまだ。
「いかにして生きていくべきか、いかにこの社会に関わっていくべきか、真剣に思い悩めば悩むほど、まるで自分で自分の尻尾を追いかけているような虚しさと滑稽さを感じる。醜悪な権力や腐った政治と闘うための自己がゆるい。おまえの闘う相手はこの俺か、この混迷か」と、千尋はある日の日記に書いている。
 混迷から脱け出すために、だろうか。
 四回生になる前のまだ浅い春、千尋はある決断を下した。
 セツルメント運動との決別と、日本民主青年同盟、いわゆる「民青」への加入である。
 友人のひとりに誘われ「ふわふわと、吹けば飛ぶような軽い気持ちのまま、頭痛で重い頭と、土方で痛い足を引きずり」集会に参加し、数日後、正式に加入の手続きを済ませている。
 民青の前身は、大正時代にロシア革命の影響を受けて設立された、日本共産青年同盟で、その名の通り、日本共産党とは切っても切れない関係にあった。戦争中、天皇を中心とした軍国主義体制に反対を唱えていたのは共産党だけだったため、きわめて激しい弾圧を受け、獄死した同盟員もいたという。この同盟が戦後、幾度かの分裂と再編成を経て「民青」となったのだった。
 しかしながら、民青への加入は、千尋をさらに深い混迷の渦に巻き込んでいく。
 共産党と連携した民青の思想と活動に惹かれながらも、同時に、それらに対する反発心を抑えることができなくなり、千尋は分裂した自己と闘いつづけた。

 おまえは汚い。おまえは汚れている。おまえは醜い。おまえは軽い。主義を持て主義を! おまえは共産を主義とせよ! なぜできん? なぜなんだ。それは共産が俺の全存在を賭けてもいいと思えるような主義ではないからだ!(たぶん) 偉そうなことを言うな。おまえは何をやったんだ。まだ何もやっておらんだろう。しかし、民青の奴らのうすいうすいうすい議論ときたら。なんなんだ、あのうすさは。あの薄ら寒さは。俺に重さをくれ。思想と言葉の重みをくれ。重みをくれたら、俺は命を張ってやる。何か大きなものをくれ。何か大きな仕事をさせてくれ。今は波間に漂う、ちっぽけな小舟のような俺に、海をひっくり返すような仕事をさせてくれ!

 この頃の日記のページには、壁に頭を叩きつけるような言葉があふれている。
 結局、半年ほどで民青を脱退した千尋は、一九六九年(昭和四十四年)一月二十一日、京都大学全共闘運動に参加する。
 これを機に、千尋の人生は急速に、ある地点──物質がある状態から別の状態へと変化する際(きわ)──へ、すなわち臨界へ向かって進み始める。
 そういう意味では民青は、千尋にとっての


 反面教師? 起爆剤? マイルストーン?
「民青は、千尋にとっての」の次に書くべき言葉を探しているとき、パソコンにメールが一通、舞い込んできた。
 あけてみると、編集者の本多さんからだった。

中嶋果林さま
少しご無沙汰してしまいました。
その後、お元気でお過ごしでしょうか?
東京は、陽射しも空も空気も秋めいてきました。
そちらではもう、美しい紅葉の季節が始まっているのでしょうか?
執筆は、順調に進んでいらっしゃいますでしょうか?
先日いただいた「セツルメント運動」の章の御原稿、たいへん面白く読ませていただきました。当時の子どもたちの様子や、大人になった子どもたち(?)の生き様などがとても生き生きと書けていたかと思います。続きが待たれます。
梅宮教授への取材アポイントメント、うまく取れますようにお祈り致します。
お時間がございましたら、どうか、御近況など、お知らせくださいませ。

 二ヶ月ほど前の日本帰国中、彼女が見本原稿に対して発した言葉──「強張っている、という意味での『硬さ』を感じます」──を思い出して、私は苦笑いをしてしまう。
 硬さのまったく取れていない原稿を、今、書いているまっさいちゅうなのだから。
 硬くならないようにと思い、ところどころに、日本で取材に応じてくれた、もと学生運動家の人たちの体験談を入れ込もうとしてみたものの、うまく行かなかった。いずれも、千尋と直接的なつながりや接触のあった人ではなかった。そのせいなのか、どうなのかはわからないけれど、たとえば「**さん(七十歳)は、当時の様子をふり返ってこう語った」などと書くと、かえって記述が白々しくなるような、嘘っぽくなるような気がしてならない。つまり、私の言いたいことを補強するために、発言を「利用している」という感が否めない。これでは、新聞記事や雑誌の記事でよく見かける、安易な構成で、安易に結論を導こうとする、安っぽい文章に成り下がってしまう。
 ならば、千尋の詩と日記の言葉以外の発言は、何も入れないで書こう。
 そう決めた。
 けれども、このやり方が成功しているとは、現時点では言い難い。自分で書いた文章を読み返さなくても、すでにわかっている。
 わかっているけれど──
 千尋と同じように、私も混迷の渦に巻き込まれている。
 そもそもこのような作品を、今の時代に、今のこの世に、送り出す意義はあるのか。私は、とんでもなく無駄なことに、不毛なことに、取り憑かれているのではないか。などと、要らぬ疑心暗鬼が膨らんでくる。千尋の言う通りだ。私はまず、臆病な私自身と闘って、弱い私を超克しなくてはならない。
 書くことで強くなれる。そう思って、この仕事を選んだはずなのに、書けば書くほど、波に揉まれる小舟のような弱い自分が露わになってくる。どうしたものか。
 うんざりする気持ちを切り替えるためにも、原稿執筆を中断し、本多さんのメールに返事を書くことにした。
 執筆は順調とは言えないけれど、ニューヨーク州立大学のデルハイ校で教鞭を執っている、もと学生運動家の梅宮彰朗うめみやあきろう先生とのアポイントメントは今朝方、取れたばかりだ。
 ここ、ニュージャージー州ジャージーシティから、梅宮先生の暮らしている村、デルハイまでは車で五、六時間ほどか。来週の半ばあたりに、レンタカーを借りて、会いに行こうと思っている。梅宮氏は一九六〇年代後半、同志社大学に在学中、同志社大学学友会および京都府学連委員長として、ヴェトナム反戦運動を指揮・指導していた人物である。
 
 メールを書き終えて送信したあと、休憩するためにデスクを離れて、キッチンで紅茶を淹れた。それから、シモーヌ・ヴェーユの本を一冊、携えて、リビングルームのソファーに移動した。
 窓の外には、窓枠に切り取られた、十月の初めの青空が見えている。
 並木のレッドメイプルの葉の一部がそこだけ発熱したかのように赤く、染まり始めている。これから、ひと雨ごとに、この赤が広がり、深まってゆくのだろう。
 執筆が行き詰まったり、学生運動関係の資料を読むのに疲れたりしたときには、私はヴェーユの著書をひもとく。千尋がしたように私も、彼女の言葉に救いを求める。癒されたいのではなくて、酔い痴れたいのだ。不幸について、苦悩について語られている命がけの言葉に。

 ある生命をとらえて根こぎにしたできごとが、直接的にせよ間接的にせよ、その生命の社会的・心理的・肉体的なすべての部分におよぶのでなければ、真の不幸はない。社会的要因は不可欠だ。なんらかのかたちで社会的失墜または失墜の懸念がないところに、真の不幸はない。
 煩悶はいかに激烈で深刻で継続的であっても、本来の意味での不幸とは似て非なるものであり、不幸と煩悶のあいだには、水の沸騰点のように、連続と同時に臨界による分離がある。限界があって、そのむこう側には不幸があるが、こちら側に不幸はない。この限界は純粋に客観的ではなく、さまざまな個人的な要因が入りこむ。同じできごとに見舞われても、不幸につき落とされる人もいれば、そうでない人もいる。

 千尋は、どちらだったのだろう。
 千尋はその瞬間、不幸に突き落とされたのか、そうではなかったのか。
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