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第三章 子どもたち──従順をうつす鏡

[ 更新 ] 2020.10.10
 夕方、六時過ぎからセツル。
 金欠状態ゆえ、百万遍から京都駅まで歩いてゆく。秋の日はつるべ落とし。途中で日がとっぷり暮れて目の前が暗くなる。栄養失調による鳥目か。笑い話にもならん。
 まり子、登喜子、大寿、久江、牧村兄弟の6人が校門の前あたりで、団子になって待っている。セツラーは俺と玉木さん。
 彼女は高校時代からの経験豊富な大先輩で、俺は半ば指導される立場にいる。
 ほどなく、あと3人集まってくる。
 さおり、美奈、栄輔。
 この9人がセツラー仲間のあいだでは「玉木組」と呼ばれている子たちだ。
 確かあとふたりいたはずだが、いつのまにか姿を見せなくなっている。
 学年は、小4から小6まで(牧村兄は中1だが学力は小学生並み)。
 みんな、すごく可愛い。瞳が澄んでいて、美しい。口はそれなりに達者だが、総じて従順。汚れていない魂が俺の目の前で動いている姿を見ているようだ。
 玉木さんは「さ、勉強しよか」と声をかけたが、男の子たちは「その前に鴨川公園で遊ぶ」と言って、聞かない。むりやり抑えつけて「美奈の家に行こ」と俺は提案(というか、命令というか)。しかし、前には使えた美奈の家は理由はわからんが「きょうはあかんねん」と言う。みんなで協議した結果、大寿の家へ行くことになる。赤ん坊がいるからうるさい、とわかっているが仕方がない(結局、ばあちゃんが赤ん坊を連れて数時間、外へ行ってくれたのだった)。
 
 玉木組の子ら(ほかもだいたいそうだろう)の最大の課題は勉強する「場所がない」ということだ。
 彼ら・彼女らの家は致命的に狭い。いずれも貧困家庭。9人の家を平均すると、六畳か、四畳半一間しかない。ひと部屋で4人から6人くらいが寝起きしている。部屋のかたすみには布団がどかーんと積み上げてある(押入れには入り切らないのだろう)。ほかにはテレビと箪笥と物入れがあるだけで、本棚も勉強机もない。ないだけじゃなくて、いろんな物が散乱している。つまり、子どもたちは家にもどっても勉強する場所というものがないのである。
 というわけで、セツラーを入れると合計11人が集まって勉強できる場所を確保するのも至難のわざ。毎回だれかの家へ行くわけだが、そのたびに、最初は家の中を片づけてスペースを作るのに四苦八苦する。
 子どもたちの学力もまた致命的に低い。
 学校から家に帰っても「お帰り」と迎えてくれる親もいなければ、おやつを出してくれる人もいない。おまけに勉強するスペースもないわけだから、学力低下は自然な成り行きだろう。
 学校は、先生は、何をしているのか?
 何もしていない。
 学校では彼ら・彼女たちは完全なる「お客さま」である。宿題をしてこなくても、授業にまったく付いていけてなくても、教師はとがめることもなければ、注意をうながすこともない。つまり、ほったらかし。お客さまを相手にしている暇など、先生にはないのだろう(それでも教師か)。お客さま=社会の最底辺にいる貧困家庭の子たち、の学力をうんぬんする(そんなことは時間の無駄というわけだ)よりも、普通の子どもたちの学力を普通以上に引き上げることに、先生は忙殺されているのである。普通って、なんだ?
 その結果、玉木組9人の中には、国語の教科書をスムーズに読める子もいなければ、割り算と掛け算のできる子もいない。足し算はできても引き算はできない。分数なんて、雲の上の存在。漫画本を与えられてもせりふは読まず、絵だけで理解しようとしている。
 学校だけじゃない。貧困家庭の子どもらは国からも見放されている。
 事情があって無職になった登喜子の親(夫婦)は、日本国憲法第25条、すなわち生活保護法第1条により、月に五千円の支給を受けていたという。登喜子には弟がふたりいる。5000円だぜ! 一日二百円以下で、一家5人がどうやって生きていけるのか? たとえば病気やけがで誰かが入院したら、どうやって生活していけばいいのか。それ以前に、家賃だって払わないといけないわけだし。子どもの給食費や教科書代などは、どこから捻出すればいいのか。登喜子はすべて未納だという。
 朝鮮戦争による特需がもたらした高度成長に舞い上がり、消費ブームに浮かれ、豊かな生活を享受している人々は言う。彼ら・彼女らの親が怠け者で、まともな仕事をしていないから、そういうことになるのではないかと。
 正直なところ、セツルをやるようになるまで、俺もちらっとそのようなことを思っていなくはなかった。子どもたちの学力低下は親と家庭が作り出したものなのだろうと。
 しかし、地域に深く入り込んでみて次第に見えてきたのは、子どもたちの親はそれこそ毎月三十一日以上、一日二十四時間以上、と言いたくなるほど、土日も休まず働き続けている、という現実。怠け者どころか、働き詰めの蟻なのである。だが、得られる金はせいぜい月一万五千円程度か。なぜなら、彼らのありつける仕事は給料の極端に低い肉体労働や人の嫌がる清掃作業などに限られているから。
 ではなぜ、そんな仕事にしかつけないのか?
 学力と学歴がないからだ。
 なぜ、学力と学歴がないのか?
 親が貧しかったからだ。
 貧困→学力低下→就職差別→最底辺の仕事にしかつけない→よって、そういう親たちの子どももまた、親たちと同じ道を歩むしかない。
 このような悪循環のもとにスラム街というものが生まれる。スラム街というのは国の抱えている矛盾、不均衡、不平等、それらを放置しておこうとする社会と地域、国民の無知と差別と偏見から生まれる。そしてスラム街は常に再生され続けていく。親から子へ、親となった子から子へ、また親となった子から子へと。スラムを生んでいるのは個人ではない。個人の力ではどうすることもできない巨大な権力の鎖が作用している。
 この悪循環を断ち切るための、子どもたちが生まれたときから押しつけられている悪しきシステムからの解放を目指す闘い。これこそがセツルメント活動の最終目標である、と、俺は考える。ただ単に、勉強を教え、いっしょに本を読み、子どもたちと「仲良しになろう」というような甘っちょろい発想じゃ、あかんのや。セツルは、かわいそうな子どもたちに対する同情の涙に満ちた慈善事業にとどまってはならない。
 スラムとは俺たちの社会と未来を映す鏡なのだ。子どもたち=汚れなき従順、を映す鏡=腐った今の社会を、濁った社会を、俺たちは曇りのない目で凝視するべきだ。監視するべきだ。あるいは俺たちの方こそが「鎖」に縛られているのかもしれない。自分は中産階級、自分は普通と思っている人たちこそが。
 というようなことを、玉木さんと話しながら帰路につく(帰りはバス)。
「純粋な善意による小さな活動を積み重ねていけば、最終的には、大きな社会変革に結びついていくはずやと、私は信じてるの」
 俺も信じている。
 ああ、玉木さんを好きになってしまいそうや!
 くそっ! もう寝る。午前一時半。


 あと五分ほどで、新幹線は京都に着く。
 渡良瀬千尋の遺稿集『カイエ──名も無い革命家の残した断章』を閉じて、バッグにもどした。頭の中には「くそっ! もう寝る。午前一時半」という一行の残響がある。
 一九六四年の秋に書かれた言葉が四十四年後のきょう、私の内面で命を得てほとばしっている、という現実に胸を打たれながらも、私はうなだれる。
 子どもたちを取り巻く環境は、果たして、良くなっているだろうか。
 従順を映す鏡は少しでも、曇りなきものになっているだろうか。
 給食費を払えない子どもは、さすがに少なくなったのかもしれない。けれども七〇年代以降、子どもたちは、校内暴力、家庭内暴力に晒されつづけ、二十一世紀になっても、いじめという名の暴力行為──生徒からだけではなくて、教師からも──は一向に収まらず、いじめを苦にした自殺は後を絶たない。それだけではない。テレビやラジオから、幼児虐待、育児放棄のニュースが流れてきても、人々は「ああ、またか」としか思えなくなっている。
 今のこの日本社会を知ったら、千尋はどう思うだろう。
 スピードをゆるめ始めた列車の中で、私はふと、ボーヴォワールとヴェーユの論争を思い出す。論争、と呼べるものなのかどうか、私にはわからないけれど。
 フランスの作家、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、一九五八年に発表した自伝的作品『娘時代』の中で、同じフランスの哲学者であったシモーヌ・ヴェーユに触れ、彼女の哲学的な才能のみならず、その「心をうらやみました」と書いた。
 当時、中国で発生していた大飢饉を知ってヴェーユが泣き出した、という噂を耳にしたからだという。つまりボーヴォワールは、遠い異国である中国で起こっている出来事に対して胸を痛めることのできる、ヴェーユの共振性に感銘を受けたということだろう。
 その後、ふたりは、ソルボンヌ大学の中庭で顔を合わせる機会に恵まれた。
「今日、我々にとって必要なものは、世界中のすべての人々に食べ物を与えることができるようになるための革命です」
 と述べたヴェーユに対して、ボーヴォワールは、
「人々に、自分の存在の意味を与えることの方がずっと重要です」
 と反論した。
 これに対してヴェーユは言った。
「あなたは、一度も飢えたことのない人なのだということがよくわかります」
 ヴェーユから「ブルジョワの精神主義者」呼ばわりされたことに、ボーヴォワールは憤慨したという。憤慨したのは、事実、その通りだったからだろう。
 千尋は、このエピソードを知っていただろうか。
 知らなかったかもしれない。
 私は記憶の糸をほどいて、千尋の知っているヴェーユの晩年に思いを馳せる。
 時は一九四三年四月。
 ユダヤ系であったヴェーユは、前年の十一月から、ナチスドイツの迫害を逃れるためにロンドンに滞在していた。肺結核に冒され、ロンドン郊外にあるサナトリウムで療養中「フランスの子どもたちに配給されている以上の食べ物はいっさい摂取しません」と主張し、その四ヶ月後の八月に死亡した。
 医師や看護師が「イギリスには牛乳が豊富にあります。あなたが飲んでもなんの問題もありません」と説明しても、ヴェーユは断った。ミルクというのは彼女にとって「子どもたちの必要としているもの」だった。みずからが栄養不足で衰弱していてもなお、フランスの子どもたちの飢餓を思いやっていたのである。
 思想と生活は、完全に一致していなくてはならない。
 たとえ病床にあって、死する運命が待ち受けていても。
 ヴェーユの貫いた信念を、若き千尋もまた、貫こうとしていたのではないか。
 ヴェーユの没後二十年あまりが経過した日本で、東海道新幹線の開通、東京オリンピックの開催に沸き立つ、高度成長期のまっただ中で、勉強机さえ持てない子どもたちと共に在ろうとしたのではないか。
 そんな千尋を、私は追いかけている。
 食べ物のあふれている、食べ物が平気で捨てられている「豊かな社会」で、幼い我が子に食べ物を与えないで死に至らしめる親がいる、この日本社会のかたすみで。
 
「優しい人でした。まるで優しさの塊みたいな人やったんです。うちらがどんなわがままなことを言うても、にこにこ笑って、頭を撫でてくれてました。それまでできへんかった簡単な算数の問題がちょこっとできるようになっただけでも、ほんまにうれしそうにしてはったなぁ。『ようやった、美奈ちゃんは天才や』言うて、ほめてくれるんです。ほめられるとうれしくて、がんばろうかなっていう気になってくるでしょ。兄ちゃん先生はほんま、人をその気にさせるのがうまかった。学校でも家でも、誰もほめたりしてくれんやろ。兄ちゃん先生だけが私を人間やと認めてくれてた、とでも言えばええのかな。私が今こうして、ここで、こんな幸せな暮らしをさしていただいているのは、兄ちゃん先生のおかげなんです」
 渡良瀬千尋を「兄ちゃん先生」と呼ぶ人が私の目の前に座っている。
 鈴木美奈さん。
 当時は小四だったというから、今は五十代の半ばくらいか。
 京都駅から歩いていけるところにある三十三間堂。そのほど近くにある喫茶店「ラ・メール」──ここも「海」だ──のオーナーである。
 夫は会社員。子どもは三人。
 三人とも大学を卒業して社会人となり、上のふたりはどちらも結婚して、それぞれ東京と大阪で暮らしている。末っ子は京都に残って、母の仕事を手伝っている。
「兄ちゃん先生に出会えてへんかったら、どっかで身を持ち崩してしもて、悪い道へ進んでいってたかもしれません。悪い道というか、なんやろ、簡単に稼げる道へついふらふらとね。女やしね、ませたところもあったしね。男と女のことなんて、五つくらいのときからわきまえてましたもん」
 笑いながら私の目を見て、そんなことを言う。まぶしいほどの美人である。
「勉強が大事や、人から馬鹿にされんようになるためには、勉強せなあかん。悪い誘惑に打ち勝つためには、学問が必要なんや。優しい顔して兄ちゃん先生は、口がすっぱくなるほど言うて聞かせてくれたのね。美奈ちゃんは、やればできる子や、いっしょにがんばろうって」
 ミルクのたっぷり入ったアイスカフェオーレをいただきながら、私は、取材ノートにメモを取っている。メモと言っても、単語の羅列に過ぎないけれど。録音しながら、メモを取る。これは私のやり方だ。録音はただ念のため。あとで録音されたものを聞こう、なんて思わないで、今、この瞬間がすべてだと思って、相手の話に耳を傾ける。
「小四の女の子に対する『悪い誘惑』なんて、あるものなんですか?」
 悪い誘惑、という言葉の下に二重線を引きながら、尋ねてみる。
「そりゃあ、ありますよ。いえ、当時はありましたって言うべきかな。何しろ親にほったらかされてる子でしょ。どこから魔の手が伸びてくるか。『おいしいモン食べさしてあげる』『きれいなおべべ、こうたる』『お小遣いあげる』言うて、男の手がしょっちゅう伸びてくるんですよ。『おいちゃんといっしょにエエとこへ行こ』言うてね。うっかりしてたら、雄琴へ売られてしまう。兄ちゃん先生はなんとかして、女の子らをそういう手から守らなあかん、思うてたん違うかな。まあ、こんなことは、今やからわかることやし、語れることでもあるんですけど」
 その頃、鈴木さんの暮らしていた家は、ほかの子よりもやや広めだったので、彼女の家にみんなで集まって勉強する日もよくあったという。
「でも、それができへん日、いうのがあるんですよ。母がお金のために男の人とせんならんとき。兄ちゃん先生はきっと、そのことを知ってたんやと思います」
 遺稿集のどこにも「そのこと」については、出てこなかった。ただ、こんな文章があった。強い調子で書かれていたので、引っ掻き傷のように記憶に残っている。

 幼い女の子を守るためには俺らはどうすればいいのか。幼い女の子が男の性欲処理の道具にされないようにするために、できることはあるのか。女性の幸福は健全な社会の最低必須条件や。しかしそれをうんぬんする資格は俺にはあるのか。革命は男だけのものじゃない。それは女のためのものでもあるべきだ。人類=ヒューマン=男の歴史、という思想をひっくり返さない限り、この世界の平和もクソもないだろう。女性を守るためにはまず少女を守らねば。

 京大の一年生から三年生まで、約三年間のセツルメント活動を通して、千尋と交流のあった子どもたちは、遺稿集に出てくるだけで四十人ほどいた。
 ファーストネームだけしか記されていない人がほとんどだったから、現在の連絡先を探し出すのは至難のわざだった。セツラーだった玉木こずえさんと連絡がつき、彼女の協力を得て、十人くらいの人たちにコンタクトすることができた。あらかじめ予想していたことではあったけれど、取材に応じてもいいと言ってくれた人は三人だけだった。鈴木美奈さんはそのひとりだ。
 残りのふたりは大津市と高槻市に住んでいて、どちらも京都から近いので、あした、話を聞かせてもらうことになっている。ふたりのうちひとり──職業は美容師──と鈴木さんは、今でもときどき連絡を取り合っているという。
 そんな話の途中で、鈴木さんはこんなことを言った。
「そういえば、登喜ちゃんとは、連絡がつかへんかったんですか? 東京に住んではるはずですけど。結婚もされて、仕事でも成功してはるみたいやし」
 かつて給食費も支払えていなかった向田登喜子さんは、通信教育の教材開発を手がけている会社で管理職に就いていた。パートナーは国立市で学習塾を営んでいる。「結婚もされて」というのは、鈴木さんの勘違いだろう。彼女のパートナーは女性だった。
「いえ、連絡はついたのですが……」
 話すことは何もない、あったとしても、あなたに話すつもりはない、と、けんもほろろに取材を拒否された。以後の連絡もいっさいお断りしたい、と。
「へえ? 断られたん?」
「はい」
「おかしいなぁ。なんでやろ。兄ちゃん先生のこと、あんなに慕ってた登喜ちゃんやのに。兄ちゃん先生も親身になってたし、可愛がってたし。話したい言うて、まっさきに手を挙げそうな人やのに。あんなことがあったときにも、ほかの人がいろいろ言うてるときでも、登喜ちゃんだけは、兄ちゃん先生の味方やったのになぁ。なんか心境の変化でもあったんかな」
 登喜子さんの話は、それで終わった。
 私はそれ以上、何も訊かなかった。私の取材は、押しが弱い。それは私も認めているところだけれど、このスタイルを改めるつもりもない。強引に聞き出したことを書いても、それは「ごり押し」にしかならないと思うから。
 別れ際、鈴木さんはドアの前まで私を送ってきてくれ、私の手を握りしめた。
「中嶋さん、お願いです。ええことをいっぱい、書いてあげてね。ほんまにええ人やったんですから。女やったらマリア様みたいな優しい人。土方の仕事でぼろぼろになって、瘦せて、骨と皮だけになってても、自分はほとんど食べんと、うちらにばかり食べさせようとするような人やったんですから。病気になったときには、お医者さんに連れていってもろたこともあります。献身いう言葉は、あの人のためにあるんやと思います」
 
 鈴木さんと別れて駅前のホテルにチェックインし、夕方の五時に、ホテルのティールームで玉木こずえさんと向かい合った。
 話は弾まなかった。
 鈴木さんの明るい口調とは打って変わって、セツラー仲間だった玉木さんの語り口は重く、表情も終始、沈み切っていた。それまでに何度か送り合っていたメールの文章からは想像もできなかった冷淡さ、投げやりな感じ。
 とはいえ、私は驚きはしなかった。
 逆に、よくあることだと思った。電話では愛想がいいのに、会うと慇懃無礼だったり、つっけんどんだったりする人。書き言葉は冷たくて、素っ気ないのに、会うとあたたかい人。ふだんは朗らかな人であっても、たまたまその日、いやなことがあった、という場合もある。だから、取材の前にもあとにも、相手の性格を決めつけないようにしている。取材なんて所詮「たまたま」の賜物に過ぎない。わかったつもりになったり、わかったようなふりをしてはいけないのだ。
「もう昔のことですから……」
「あんまりよく覚えていなくて……」
「そんなことも、あったかもしれません」
「さあ、私にはなんとも……」
「申し訳ございません。お役に立てなくて」
 そのような言葉がくり返された。まさに、暖簾に腕押しの状態。
 玉木さんは千尋よりもふたつ上のはずだから、現在、六十五歳か。
 京大を卒業したあと、名古屋で就職。結婚、離婚を経て、今は京都にもどってきて、パートタイムで会社の事務職に就いているという。年老いて病弱な父親とのふたり暮らし。
 仕事と介護で疲れているのかもしれない。体調が優れないのかもしれない。
 小一時間が過ぎて、私は取材を切り上げることにした。実りのない取材でも、それが「実りになる」ということは、ままある。玉木さんの口数の少ないことが何かを雄弁に物語っている。きょうのところは、そう思うことにしよう。
「ありがとうございました。お時間をいただけたことに感謝いたします」
 取材を終わらせようとした私の言葉に、玉木さんは幾分か、ほっとした表情になった。
「あの、私のことはいっさい、書かないでくださいますか? 私の名前、出てきますでしょう? あの本に。そのことでいろいろと、不愉快きわまりない目に遭ったことがありまして。離婚はしましたが子どももおりますし、玉木姓の親戚もいますし……」
 そういうことだったのか。「好きになってしまいそう」と千尋に書かれたことで、いやな目に遭ったということなのか。私は納得した。きょう、直接、私に会って言っておきたかったことは、これ──書かないでくれ──だったのだと。
「書きません。お約束します。ご安心ください。人が迷惑をこうむったり、傷ついたりするようなことを書くのは物書きとして失格ですし、最低、最悪です。そのことを書けば、読者の野次馬根性をくすぐって、本が売れるとわかっていても、読者がいちばん知りたいことがそのことであっても、書きません。それが私の定めているルールだからです」
「正義感が強いんですね」
「いえ、ただの小心者です」
 玉木さんはやっと、笑顔になった。
「そうですか、ありがとうございます。それなら……」
 そのあとに、玉木さんは言った。
「渡良瀬さんは本当に素晴らしい人でした。私にとっての彼は、今も昔も『素晴らしい人』でしかありません。あんないい人、世界中どこを探してもいないと思います。この思いは終生、変わりません。渡良瀬さんのことが好きでした。彼が私を好きでいてくれるよりも、私の方がもっと、彼を好きだったと思います。まだ二十代でした。渡良瀬さんのことが好きだったから、セツルメント活動にも力が入りました。彼が京大全共闘部隊の一員として、東京へ出ていくことになったとき、いっしょに行かないかと誘われたのに、行かなかったことを後悔しています。私がいっしょに行っていれば、あんなことには」
 一気にそう言うと、目を伏せた。
 これまで、数え切れないほど何度も、自分の内面で自分の人生を、そのような言葉に凝縮して表現してきたのだろう。だからすんなり口にできたのではないか。「京大全共闘部隊の一員として東京へ」は、一九六九年十一月の佐藤首相訪米阻止闘争を意味していると思われる。
 玉木さんは、つと顔を上げて、黙っている私の顔を見た。私を見ているのではなくて、鏡に映っている「誰か」あるいは「何か」を見ているように見えた。
「あんなにいい人があんなに早く連れていかれて、私みたいなつまらない人間がのうのうと長生きしている。世の中は、不平等にできていますね。社会がどんなに良くなっても、不条理というものは、在りつづけるんだと思います。おかしな言い方に聞こえるかもしれませんが、それが『神』なんじゃないかと思います」
「不条理が神、ということですか?」
 玉木さんはうなずいた。一時期、キリスト教徒だったことのある人である。
 
 夜、ホテルのバーでひとり、カクテルを飲みながら、タイトルについて考えた。
 私は作品を書く前に、タイトルを先に決めてしまう。タイトルが決まっていないと、一文字も書けない。書き上げてからタイトルを考えて決める人もいるようだけれど、私にはできない。タイトルは私にとって、作品の一行目みたいなもの。一行目が書けなければ当然、二行目は書けない。
 パリジャンという名の赤いお酒を飲みながら「いや、そうじゃない」と、私は唐突に思い至る。
 タイトルは私にとって、我が子の名前なのだ。子どもが生まれたら──生まれる前からでもいい──名前を付けなくてはならない。名前のないまま成長する子どもはいない。作品の成長のためには、まず名前が必要。だから渡良瀬千尋が私の中で生まれたその日に、私は名前を付けなくてはならなかった。
 『千尋の海』──。
 これが編集者の本多さんに提出した企画書にも書き記したタイトルだった。あの日は、このタイトルしかないと思って、付けた。
 目の前のグラスの中に、小さく閉じ込められている赤い液体を見ながら、私は思う。
 海、という言葉は必要不可欠だ。千尋の人生を描くのに「海」というキーワードは外せない。けれども「千尋の海」でいいのかどうか、自信がなくなってきている。タイトルとして弱い、とも感じている。当たり前すぎる、とも思う。
 では、どんな海ならいいのか。いい人の海? 優しい海? 兄ちゃん先生の海?
 これではまるで絵本のタイトルじゃないか。
 最後に見た海?
 最後に見た青い海?
 ヴェーユの残した詩篇「海」の最後の一節を、私は思い出そうとする。酒の力を借りて、再生しようとする。
 
  広大なる海よ、不幸な死すべき者どもに寛恕なれ。
  汝の岸辺にはせ集い、汝の砂漠にふみまよう者どもに。
  沈みゆく者どもが滅びる前に語れ。
  われらが姉妹なる海よ、魂のなかへと入りこみ、
  汝の正義の水で洗ってやるがよい。
 
 反芻しながら、ゆっくりと、タイトルが浮かび上がってくるのを私は待つ。
 やがて、胸の中に浮かび上がってきた海は、真紅に染まっていた。


 血の海。
 記者の脳裏に浮かんできた言葉は、それだった。
 空港ビルの通関ホールのガラスのドアの向こうに広がっていたのは、海とは似ても似つかない、おどろおどろしい「もの」だった。それは、景色とも風景とも光景とも呼べない「もの」に過ぎない。そこには潮風もなければ、陽射しもなく、ココヤシもなければ、波もない。それでも記者はそれを「海」と表すしか術がなかった。
 言葉が先に出てきて、分析や観察を覆い尽くしてしまった。
 これまでにも記者は、自身の書いた記事の中で何度か「血の海」という言葉を使ってきた。たとえば交通事故の現場で、たとえば工場で起こったガス爆発の現場で。
 大量に流された人の血液を目にしたときに、反射的に浮かんでくる言葉。
 常套句とわかっていて、それを当てはめた。ほかに使うべき言葉があるのではないかと疑問を抱くこともなく、一刻も早く書き上げて、編集デスクに送らねばならないと自分で自分を急き立てるようにして。書き上げて退社し、ロマンティックなディナーのテーブルで、恋人とワイングラスを傾けたいと思っていた夜もある。今にして思えばそれは新聞記者として、ある種の怠慢であり、事実からの逃避でもあった。
 言葉は知っていても、その実態を知らなかった。つまり、知っていたのは言葉だけで、記者は今まで、そのものを見たことがなかった。
 その「血の海」が今、記者の眼前に広がっていた。
 海は点々と、その爪痕を四角いタイルの上に残して、どこまでもうねうねと、不規則に波打っている。
 なんなんだこれは、どういうことなんだこれは……
 床の上に散らばっているのは、大小さまざまな旅行鞄である。いずれも血に汚されている。ほかには、おもちゃ、めがね、カメラ。そして、靴、靴、靴、靴、靴、靴。十足、いや、二十足か、それ以上。
 靴はある地点を中心にして、まるで同心円を描くかのように散乱している。
 遺体はすでになかった。
 遺体を運び出すときに、靴を脱がせていったということか。あるいは、撃たれて倒れた際に、逃げようとしているさいちゅうに、靴が脱げたということなのか。
 記者の頭の中を目まぐるしく思考が駆け巡る。その思考と思考の網の目をくぐり抜けるようにして、ひとつの理解がやってくる。そうか、あれらの無数の靴の中心にある「ある地点」に、犯人が立っていた、ということなのか。
 旅行鞄は縦になったり、横になったり、斜めになったりしている。ついさっきまで、誰かの手によって運ばれ、家路に就こうとしていた鞄たちは行き場を失い、戸惑っているかのように見える。そこには何か、意志みたいなものさえ見て取れる。
 鞄の近くに、まるで鞄から流れ出したかのように見える血液の溜まり。それらは飛び散り、流れ出しながらも、できるだけ鞄の持ち主の近くにとどまろうとしているようにも見える。
 血液と鞄類のあいだに漂っているのは、無言の悲鳴だった。血の海の波打ち際で、悲鳴は音もなく、波のように、寄せては返している。恐ろしいほどの静けさ。
 ガラス窓のこちら側には、本物の悲鳴と泣き声がわんわん響いている。親きょうだい、親戚や大切な人々を失くした人たちの肉声だ。生きている肉の声。
 自分は今、何を見、何を聞いているのだろう。
 ガラス窓に押しつけていた顔を離そうとした瞬間、記者の息は止まりそうになった。
 あれは──
 白い小さな二本の手と、二本の足。スカートをはいて、仰向けに横たわって、にこやかに笑っている青い目。
 いかにも幼い女の子が好みそうな、一体の人形だった。
 人形のすぐそばには、膨らんだ籠型のバッグと、少し離れたところに、白っぽいショルダーバッグ。このふたつは、少女の母親の荷物に違いない。
 ふたつのバッグのあいだには、太い帯状の血痕。ずるずると引きずられていく母親の姿が見えるような気がして、記者の背筋は凍りつく。
 少女は? 女の子も、母親といっしょに? 
 想像力というものを呪いたくなる。
 と、そのときだった。
「どけろ! どけろ! 道をあけるんだ!」
 記者の背後で怒号が響いた。
 まわりには大勢の人だかりがある。自分もその一員であると改めて気づきつつ、記者はふり返って、見た。人々を掻き分けるようにして進んでいく一団の中心にいる人物に、視線を突き刺した。直感で、犯人がそこにいるのだとわかった。
 明らかに若い、東洋人の青年だった。
 ワイシャツを着ている。その胸は返り血で濡れそぼっている。触れればまだ温かいのではないかと思われるほど鮮やかな、残酷な紅。あごのあたりに怪我をしている。
 左腕を兵士に、右腕を国防軍の少将に、がっちりとつかまれている。
「どけ!」
 行く手を阻まれて、少将は再び大声で怒鳴った。
 その声に呼応するかのようにして、人だかりの中からひときわ甲高い声が上がった。
「殺してしまえ! そいつを! その日本人を殺せ!」
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