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第二章 身を削る──黙々と服する海

[ 更新 ] 2020.08.10
 一九四五年(昭和二十年)一月、戦局が悪化の一途をたどるなか、最高戦争指導会議は「今後採るべき戦争指導大綱」を決定し、来るべき本土決戦に向けて、国民総動員の即応態勢を強化していった。
 二月、アメリカの機動部隊は硫黄島上陸作戦を開始し、三月には三百三十四機の戦闘機B29による東京空襲、四月には沖縄本島への上陸作戦が始まった。
 五月七日、ドイツ軍が無条件降伏。
 六月八日、昭和天皇の臨席のもとでおこなわれたの御前会議により、日本は本土決戦方針を採択。二十三日には、沖縄の日本軍が全滅し、軍人、軍属、一般県民を合わせると、死者は約二十九万人にのぼった。同日、義勇兵役法が公布され、十五歳から六十歳までの男子、十七歳から四十歳までの女子が国民義勇戦闘隊に編成された。
 七月十六日、アメリカはニューメキシコ州における初の原爆実験に成功。
 七月二十八日、鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を黙殺し、戦争継続を表明。
 
 渡良瀬千尋がこの世に生を享けたのは、それから三日後の七月三十一日だった。
 誰もが死を覚悟し、誰もが日本の消滅を予期していた──あるいは、誰もがそれでもまだ日本の勝利を信じて疑っていなかったのか──一九四五年の夏。
 備前焼の里として知られる、岡山県和気郡伊部町浦伊部北で、農業と養鶏場を営む祖父母と両親のもとに、千尋は産声を上げた。長女は生まれてすぐに病死していたので、夫婦はこの子に「長く生きて欲しい」という願いをこめて「千尋」という名を与えた。
「一尋」は、人が両手を左右に水平に伸ばしたとき、指先から指先までの長さを基準に定められた古代中国の身体尺の単位で、およそ百五十センチメートルから百八十センチメートルほど。「千尋」はこの千倍ということになり、現代の日本では主に、水深を示す言葉として知られている。
 たとえば、千尋の海。
 いつ、どこで出会ったのか、定かではないが、千尋はこの言葉が気に入っていたのではないかと思われる。また、遺稿集の随所で、海に関する比喩や、海を自分自身にたとえて語る表現が散見される。
 千尋が生まれてから六日後の八月六日には広島に、九日には長崎に原爆が投下されている。広島で被爆した負傷者は大勢、隣県である岡山へも運び込まれてきた。千尋の祖父は岡山駅構内で、これまでに目にしたことがないほど激しく皮膚が焼けただれている人たちや、皮膚が剝がれて、だらんとぶら下がっている人たちの姿を目にしている。原爆の正体がつかめていなかった当時、広島と長崎を襲った爆弾は「新型爆弾」と呼ばれていた。
 敗戦から三年後には、弟の高志が生まれた。
 敗戦後の混乱期をよそに、兄弟はすくすく育った。農家に生まれ育ったこと、幼かったことが幸いして、深刻な食糧難などを強く意識することはなかったのではないだろうか。ふたりは野山を走り回り、池で泳ぎ、近所の川でザリガニ捕りに興じたりした。田植えや稲刈りを手伝うこともあった。家の裏庭では農耕用の牛が飼われており、牛の世話をするのは、兄弟の役目とされていた。
 泥だらけになって遊び回る腕白少年たちではあったものの、ふたりとも、幼い頃から読書に親しんでいた。彼らに本を買い与えたのは、母親だった。彼女は無類の読書家で、将来は「小説家になりたい」と、あこがれるほどの文才を持ち合わせていたという。のちに千尋が熱心に日記を付けたり、好んで詩や散文を書くようになるのは、母親から受けた影響が大きかったのかもしれない。

 読書が足りない
 冊数じゃない
 時間でもない
 おまえの読書は底が浅い
 おまえの読書は世界が狭い
 おまえの読書は自己欺瞞だ
 本を読んで何かを知ると
 本を読んで誰かに出会うと(たとえばシモーヌ・ヴェーユ)
 つい誰かに語りたくなる
 こんなことも知らないのか
 こんな偉大な人物を知らないのか
 と、誰彼にとなく説教したくなる
 浅ましい俺
 いじましい俺
 自分の読んだ物がすべてだと思い込んでいる
 もっと深く読め、深海に潜るように
 豊饒な海に服するように
 黙々と読め
 己の身を削りながら
 
『カイエ──名も無い革命家の残した断章』より

 千尋は地元の公立小学校から中学校へ進み、卒業後は岡山市内にある県立高校の普通科へ進学した。その頃の岡山市には、普通科を有する県立高校は二校しかなく、うち一校は毎年、東大や京大への高い合格率を誇る教育レベルの高い高校で、よほど成績の優秀な生徒でない限り、進学するのは難しかった。が、千尋は難なく、レベルの高い県立高校に合格している。
 高校へは、居候させてもらっていた親戚の家から、一時間以上かけて自転車で通った。卓球部と演劇部の両方に所属していた。
 一九六四年(昭和三十九年)四月、千尋は、第一志望だった京都大学文学部に入学する。時を同じくして、かつての敗戦国はOECD(経済協力開発機構)の二十一番目の加盟国となり、先進資本主義国家の仲間入りを果たした。
 この年の八月、アメリカは、北ヴェトナムがアメリカの駆逐艦を攻撃したと発表し──かつての満州事変を彷彿させる戦争工作である──北ヴェトナム海軍基地に爆撃を加えている。以後、十年以上もの長きにわたってつづくヴェトナム戦争と、渡良瀬千尋の人生を切り離して考えることはできない。
 京都で大学生活を始めてほどなく、千尋は、ふたつの活動に夢中になった。ひとつはセツルメント運動、もうひとつは肉体労働である。
 セツルメント運動というのは、いわゆるボランティアの一種で、持てる者・富める者が持たざる者・貧しい者と共に行動したり、いっしょに生活したりしながら、互いを支え合う活動であり、助け合う行為である。その発祥は十九世紀後半、イギリスやアメリカでセツルメントのための施設が設立されたことによる。日本では一九二〇年代から三〇年代にかけて、東大の学生たちが下町を訪問し、低所得者層のためにさまざま活動をした、という記録も残っている。のちの社会福祉やソーシャルワークの発展に貢献することになるこのセツルメント運動に、京大生だった千尋は、友人に誘われて参加している。
 その一方で彼は、寸暇を惜しんで肉体労働に励んだ。
 地下足袋を履いて工事現場へ行き、つるはしとシャベルを手にして穴を掘った。稼ぐことが目的ではなかった。体を鍛えたかったのかというと、そうでもなかったようだ。極限まで肉体を酷使するのが目的だったのではないかと推察される。
 早朝五時から夕方の五時まで、飲まず食わずのまま、石ころだらけの固い地面と格闘する日もあった。仕事が終わっても水分を摂らない、という徹底ぶりで、脱水状態に陥って倒れるまで穴を掘りつづけた。
 セツルメント運動は三年ほどでやめているが、肉体労働の方は、在学中のみならず、卒業後上京してからも、日本を出る直前まで、足かけ七年にわたって間断なく継続されている。


「見本原稿を読ませていただいた第一印象としては、文章がやや硬い、ということでしょうか。強張っている、という意味での『硬さ』を感じます。この硬さを、中身が詰まっていて確かである、という意味での『堅さ』に、あるいは、文と文の結びつきが強くて、文脈に揺るぎがない、という意味での『固さ』に結実していけたら成功だと思います」
 コグマ書房の編集者、本多香緒里は私の目の前で、一枚ずつ、印字原稿をめくりながら、静かな口調で語った。
 静かではあるけれど、内に秘められた芯のようなものを感じさせる声で、
「でも今はまだ、そんなことはお考えにならなくてかまいません。いったんお忘れください。中嶋さんの思うまま、自由自在にお書きください。文章はこれから、書かれる内容によって、そして、時間の経過によっても、変化というか、進化というか、おのずから変わっていくでしょうから」
 と、つづけた。
 先に文章の話をしてから、彼女は、テーブルの上に置かれている企画書に視線を落とした。化粧気のない素肌が美しい。まっ白なコットンの長袖のシャツの下に、オレンジ色のキャミソール。冷房の効いている室内から屋外に出たときには、シャツを脱ぐのだろうか。下は細身のブルージーンズ。ヒールの高いおしゃれなデザインのサンダルを合わせているせいで、ジーンズ姿なのにカジュアルさを感じさせない。
 対する私は、着慣れないサマースーツ姿。アメリカではどこへ行くにもTシャツとジーンズで事足りるのに、日本へもどってくると、とたんに「人からどう見られているか」が気になり始める。自分の年齢や職業や仕事の実績や既婚か未婚かなど、普段は意識していない「世間体」を強く意識させられる。国に帰る、ということは、そういうことなのかもしれない。
「いくつか、質問をさせてください。メールでも少しお伝えしてあることですが」
「はい」
 一つ目の質問は、取材に関することだった。日本国内、外国、アメリカ国内など、取材に出かけたい場所を何ヶ所か、暫定的に列挙してあった。
「ご存じの通り、弊社は零細企業ですので、本作の取材経費その他については原則として、中嶋さんのご負担ということでかまいませんか?」
「かまいません」
 と、私は即答した。
「取材には同行できないことが多いかと思いますが」
「かまいません。かえって、ひとりの方が好都合であることも多いです」
 ジャーナリストとして私は、日ごろから、話を聞かせてくれる人との一対一の対話を重要なものだと考えている。書くために、仕事のために、あなたの話を聞いている。しかし決してそれだけではない。個人的にも話を聞きたいし、聞かせて欲しい。そういう思いと誠意を相手に示したい。
 三つ目以降も、似たような質問がつづいた。
「原稿が書き上がったあとも、大きく手直ししたり、再構成したりしていただくこともあるかもしれませんが、対応していただけますか?」
「出版時期、部数、定価などについては、弊社にお任せいただけますか?」
「出版が叶うよう、全力でがんばりますが、万が一というケースも想定しておいていただけますか?」
 すべての問いに、私は「もちろんです」と答えた。
 依頼された企画ではなくて、私から持ち込んだ企画なのだ。当然のことだと思っている。出版されるかどうかも、原稿の出来具合にかかっている。それでいい。取材にかかりそうな費用を捻出するために、すでに飲食店でのアルバイトも確保してある。客にリップサービスをして、チップで稼ぐ。
 渡良瀬千尋の遺稿集である『カイエ──名も無い革命家の残した断章』について、「こちらでも入手して読んでおきましょうか?」と問われたときだけ、私は「いいえ、その必要はありません」と答えた。
「本多さんには、一般読者と同じように、渡良瀬千尋については何も知らないままでいていただき、まっさらな状態で、私の原稿を読んでいただけたら」
「わかりました。まったく問題ありません」
 最後に、それまでとは毛色の違った質問が飛んできた。
「あの、中嶋さんが渡良瀬千尋にこだわっている、彼に惹かれている、いちばん大きな理由は、なんなのでしょう? してはならないことをしてしまった人なのに」
 私は一瞬、答えに詰まった。
 いちばん大きな理由?
 それを今、ここで、ぱっと言葉にできるくらいなら、本を書く必要などない。それに、仮に理由が複数あったとしても、順番などつけられない。すべての理由がいちばんなのではないか。
 答えあぐねていると、本多さんははにかみがちに微笑んだ。
「質問が間違っていますね。いちばん、だなんて言い方、なんだか高校生みたい。それに、もしかしたら、理由なんて、ないのかもしれませんね。理由もないのに惹かれる。それが惹かれるってことでしょうから」
 そのあとに、彼女は言った。きっぱりと。
「でも私はその理由を知りたいと思っています。中嶋さんが彼に惹かれる理由を。これから書かれる原稿を読んで、自分でそれを発見したいと思います。だからこの作品をごいっしょしたいと思いました。それが私の『いちばんの理由』です」
 私は答えた。
「ありがとうございます。なぜ、渡良瀬千尋に惹かれるのか、私もその理由が知りたい。だから書くのだと思います」
 私の返答も、高校生のそれのようだった。
 なぜ惹かれるのか、については、今はまだ答えられない。
 しかし、なぜか、惹かれる。してはならないことをしてしまった人に。
 その「なぜか」の同義語は、おそらく「私自身」なのではないか、と、そのとき私は漠然と思っていた。思いをうまく言葉にすることはできなかったけれども。
 彼について書く、ということは、私について書く、ということなのかもしれない。愛について書く、ということが、憎しみについて書く、ということであるように。
 そんな言葉が浮かんできたのは、本多さんと別れてから、だった。
 
 かれこれ十年以上、住み慣れたマンハッタンのアパートメントを引き払って、ハドソン川を隔てたニュージャージー州ジャージーシティへの引越しを済ませたあと、私がまっさきに着手したのは、企画書の作成と見本原稿の執筆だった。
 渡良瀬千尋について、彼の生涯について、彼の信じた思想について、思想に基づいて実行した行為について、成し得なかった行為について、彼の残した詩について、残せなかった詩について、一冊の本を書きたいと思っていた。
 書きたい、というよりは、書かねばならない、というべきか。
 恥ずかしい言葉ではあるけれど「使命感」──自分には縁のない言葉だと長年、思ってきたし、そういう仕事しかしてこなかった──に駆られたのだと思う。生活費を稼ぐための雑多な仕事にまみれていた、似非ジャーナリストの私が初めて「書きたい」という意志を抱いた。
 渡良瀬千尋は私にとって、大海原で一瞬だけすれ違った、一匹の魚のような存在だった。魚は素手では捕まえられないとわかっている。いや、同じ魚に巡り合うことさえ叶わないと。わかっていながらも私は、その魚影を追い求めたいという欲求に抗うことができなくなっていた。
 なぜか?
 本多さんの言った通り、理由は百万個もあるようで、その実、理由などひとつもない。理由がないから、惹かれる。それが理由なのだろう。
 過去に出会った編集者、いっしょに仕事をしたことのある編集者、現在もなんらかのつながりのある人、知人から紹介してもらった人などを選び出して、およそ三十通のメールを送った。
 約半数の人たちから、返事が届いた。そのうち半数は「興味がない」「せっかくだが力になれない」「他を当たってください」という内容で、残りの七人は「企画書と見本原稿を見て、検討したい」とのことだった。「前向きなお返事をいただけたら、打ち合わせのために日本に帰国します」と添えて、返信した。検討した結果「ぜひお目にかかりたい」と言ってくれたのはふたり。ひとりからは、帰国の直前になって、アポイントメントをキャンセルされた。理由は不明。それが理由なのだろう。
 最後のひとりが本多さんだった。
 本多さんがメールで指定してきた面会日は、七月三十日。奇しくも千尋の誕生日の前日だった。出会うべくして出会った人、という気がした。
 彼女は、最初に寄越したメールにこう書いていた。
 〈学生時代に、中嶋さんの『インド縦横無尽』を読んで、いつかインドへ行ってみたい、なんて思っていたこともあります〉
 素直に感激した。今になって、こんな時期に、私の唯一の出版物──しかも絶版になっている──を読んでくれていた人に出会えるなんて。
 会って、名刺交換をした直後にはこう言われた。
「なにぶん零細なので、大手の出版社には及ばない点も多々あります。けれど、小さいからこそできることもいろいろあるのではないかと思っています」
 コグマ書房は小規模ながらも、児童書から大人向けの作品まで、幅広い読者層に向けて書籍や雑誌を刊行している老舗の出版社で、大人向けの作品としては、フィクションよりもノンフィクションや実用書を得意としている。私にとっては、願ったり叶ったりの版元だったと言える。しかも彼女は、私が昨年の秋に帰国して顔を出した、友人の児童文学賞の受賞パーティに出席していたという。
「お声をおかけしたかったけれど、いきなりだと失礼かなと思ってしまって。それに、中嶋さんは、どなたかと熱心にお話しされていましたし」
「ああ、あのときの……」
 あの男か、と、顔も思い出せない男のことを思い出しながら、私は、その男から受けた手痛い仕打ちを本多さんに、笑い話として話して聞かせた。そういうことを話してもいいような雰囲気を、すでに彼女がつくってくれていた。
 本多さんは、私の笑い話に、笑わなかった。真顔で言った。
「その人は『これは売れる企画だ』と思った。でも上司から『売れない』と言われた。そんな会話が聞こえてきそうです。野心家、もしくは駆け出しの編集者の場合、とにかく、売れるかどうか、だけを考えてしまうんですよね。私だって、昔はそうでした。そんなに売れる物をつくりたいなら、ダイエット本や料理のレシピ本をつくればいいんです。でも、私のつくりたい本はもっと個人的なものですし、売れるか売れないかじゃなくて、読みたいと思っている人にきちんと届けられるかどうか。そこだと思います」
 うれしいことを言ってくれる、と、心の底から思っていた。
 私自身、渡良瀬千尋が今の日本の読者に受け入れられるかどうか、自信はまったくなかったし、ふたたび返品の山を築くだけの結果に終わるかもしれない、という恐れもあった。けれども、それでも書きたい、書かなくてはならない、と思えるような一冊の本。いまだ書かれていない一冊の本が目の前に存在しているということ。その一冊をいっしょに完成させようとしてくれている人が目の前にいる、ということ。
 これだけでもじゅうぶん幸せだ、と、私は思っていた。
 本多さんはおそらく私よりも十歳ほど年下、三十代の終わりくらいではないかと思われた。仕事の話が終わったあと、かつて担当していた児童文学作家と恋愛して結婚し、しかし別れてしまったという話をしてくれた。
 私も、アメリカ人の夫との離婚までの顛末を、面白おかしく披露した。
 アンドリューから別れを切り出されたのは、私が仕事で中南部に出張して、もどってきた直後だった。情事の相手は、弁護士である彼に相談を持ちかけてきたクライアント。
 悪びれもしないで、彼は言い放った。
「これは浮気じゃない。本気だ。きみとの結婚の方が浮気だった。だから、ボクたちは別れなくてはならない。しかし、きみとはこれからも親友でいたい。困ったことがあったら、なんでもサポートする。きみに必要なのは、役に立たない夫よりも、役に立つベストフレンドだよ。ワンコール・アウェイ。電話一本で駆けつけるよ」──。
「向こうがあまりにもあっけらかんとしているものだから、私もじめじめできなくて。こんな明るい離婚もあるんだなって感じでした。でももう結婚はこりごりです」
「私たち、バツイチコンビってことになりますね。仕事だけが恋人だ」
 彼女はそう言って、涼風のように微笑んだ。
 それから、私たちは偶然、ふたり同時に、窓の外に視線を延ばした。出版社の近くにある古民家カフェの前庭で、咲きそろったブルーと白の朝顔が風に揺れていた。
 
 午前中のミーティングを終えたあと、私はその足で東京駅へ向かい、午後一番の新幹線で京都へ向かっている。
 姫路の高校を卒業したあと、ひとりで暮らした美しい古い都。学業などそっちのけで、恋愛とも呼べない幼稚な恋愛ごっこにのめり込んでいた年月。一生分の涙をあの四年のあいだに流し尽くした。甘い思い出よりも、苦い思い出が多い。旅の恥はかき捨てという言葉は、私の辞書には「青春の恥はかき捨て」と出ている。思い返すと赤面してしまうだけの、紛うことなき青春の街で、きょうから三日間、取材を重ねる予定だ。
 取材のテーマは、京都大学の学生だった千尋が一時期、のめり込んでいたセツルメント運動と、一時期ではなくて終始、自分に課していた肉体労働──千尋の言葉で言うところの土方──について。
 列車の窓の外には、まっ白なちぎれ雲を浮かべた、碧い夏空が広がっている。
「きのうまではぐずぐずしたお天気だったんですが、きょうは珍しくからっと晴れました。中嶋さん、晴れ女ですか?」
 と、本多さんは言っていた。
 別れ際に、彼女といっしょに見つめた朝顔を思い出しながら、朝顔というのは郷愁を誘われる花だな、などと思う。アメリカにも朝顔はあるものの、葉っぱの形状がずいぶん違う。私にとっての朝顔は、子どもの頃、毎朝、庭に咲いた花の数を数えては夏休みの絵日記の冒頭に数字を書いていた「あの朝顔」に他ならない。
 渡良瀬千尋は、どんな子どもだったのだろう。
 見本原稿には、彼の遺稿集から引っ張ってきたことを並べただけだ。読書家、勉強家、牛の世話、ザリガニ捕り、弟と仲がよかった、など。
 これは私の推察に過ぎないけれど、千尋はとても幸せな子ども時代を過ごしたのではないか。自然に恵まれた住環境。教育熱心な両親。好きなだけ本を買ってくれた母親。だからこそ彼は、本を読むこともままならない、家に帰っても勉強するための空間すらない、貧困家庭の子どもたちに目を向け、子どもたちの生まれついての「不幸」をなんとかしてやりたいと、思ったのではないか。
 世の中には、二種類の人間がいる。
 トンネルの中で、新幹線の窓に映っている自分の顔を眺めながら、ふと、そんな大仰な一文を思いつく。
 自分にも同じような経験があるから、他人の悲しみや不幸に共鳴・共振・共感できる、という人と、まったく経験がないのに、ないからこそ共鳴できる、という人。
 渡良瀬千尋は後者だった。
 シモーヌ・ヴェーユがそうだったように。
 経験がないのに共鳴できる人は、その経験をしてみようと考える。経験しなくてはならないと自分に課す。千尋は脱水状態になりながら穴を掘り、ヴェーユは彼女曰く「魂が疲労のあまり死んだも同然」になる「奴隷」のような工場労働に身を挺する。
 ヴェーユが工場労働を体験したのは確か、二十五歳のときだった。この頃、彼女は国立女子高等中学校で教鞭を執る哲学の教師であった。にもかかわらず個人研究と称して、工場のプレス工員になった。そうして、人間性を奪われるような単純な労働と、劣悪な就労条件によって、心身の健康を損なってしまう。そこまでしてでも彼女は、思想と生活を一致させたかった。信念と行為の齟齬を許さなかった。
 私の記憶によると、ヴェーユはこの体験によって「心の軽やかさといったものとは、今後もずっと、無縁であろうという気がします」と、組合運動の仲間に宛てた手紙に書いている。
 千尋も、ヴェーユの遺した『工場日記』を読んだのだろうか。おそらく、私が読んだものよりも古い形のものを古い翻訳で、読んでいたのではないか。アメリカに帰ったら確認してみなくては、と、思いながら私は手帳にそのことを記す。
 列車は名古屋を過ぎたところだ。
 バッグの中から千尋の遺稿集を取り出して「そこに書かれている言葉を読みたい」と思うページをあける。どこに、何が、書かれているのか、私の手は、船が正確に海路をたどるように、そのページを見つけ出すことができる。
 千尋の記述には、静謐で内省的なヴェーユのそれにはない明るさが漂っている。野放図さ。躍動感。無論それらは、彼の若さ、思想の未熟さによるものなのかもしれない。それはまた、ある条件のもとに、限られた時期に、ある年齢の人間だけが持つことのできる、当人にとっては暗さと映っている可能性もある明るさ、なのかもしれない。
 私は彼の、持って生まれた明るさと暗さに惹かれている。それらは彼の人生と共に木っ端微塵に砕け散ったものなのに、言葉は生きたまま、黄ばんだページの中から私に呼びかけてくる。


 きょうも六地蔵でドカタじゃ。
 俺の青春はセツルとドカタで過ぎてゆく。
「あしたは朝5時からやで」とゆうべ親方に言われ、くやしかったから、今朝は4時に行ってやった。勝った。ざまあみろ。
 きょうは20人ほどだったか。横一列にズラーっと並んで仕事をもらって、5人ずつ4人組になって、ここ掘れワンワン。5人のうち、誰かが落伍者になったら、その組は負け犬。へたばった奴の穴埋めもしないといけない。きょうは俺が4時からやってあったから、楽勝とまではいかなかったものの、ほぼ楽勝か。
 勉強、セツル、闘争、土方。俺はすべてにおいて、白黒をはっきりさせたくない。
 勝ち負けはあっても、白黒はない。そういうことじゃないのか。
 地域、部落、スラム。そこにも白黒はない。すべてが混沌としている。
 金持ちと貧乏人。上流階級と下層階級。そこにも白黒はない。階級なんぞ、クソ食らえ。そんなもん、犬も食わんぜ。
 白いからすは黒いし、黒いからすは白い。そういうことじゃないのか?
 肉体労働をしながら、崇高な思想を学ぶ。これが俺にとって理想的な人間だ。
 いや、思想を実践するために、肉体をいじめている。
 ヴェーユさんも言っているではないか。
 ──私たちは架空の楽園よりも、現実の地獄を選ばなければなりません。
 ──言葉に囲まれた人間は、刑務所に入っている。
 ──自分の知能を誇りに思う知性派の人間は、自分の大きな独房に誇りを持っている死刑囚のようなものです。
 
 どんな男になりたいか。どんな男でありたいか。
 焼酎をガブ飲みしながら(ホルモン焼きをおごってくれた)親方としゃべった。
 親方は「勝てる男になれ」と言った。親方は勝ち負けにこだわっている。
 俺は強いか弱いかにこだわっている。おんなじかもしれんな、と親方。
 弱いいうことは、負けいうこと。そやろ、強いいうことは、勝ち。
 そうかな、と俺はこれを書きながら、疑ってかかっている。
 弱いもんが負けと言ってしまったら、話がそれで終わってしまう。貧乏人は負けで、金持ちが勝ち。はっきり白黒がついてしまう。俺は生涯、弱い人間でいい。だが、勝ちたい。何に勝ちたいのか、それはまだわからないけど、勝ちたいのです!
 俺は海になりたい。
 海のような男でありたい(名前の通り)。千尋の海。
 生きるということは、空を飛ぶことじゃなくて、海に潜ることなんだ、おそらく。
 空には天井はないが、海には底がある。そこが空と海の違いだ。
 俺は、掘って、掘って、掘って、海の底まで掘り下げたい。何を? 己を。
 いつの日か、俺のつま先がコツン(か、どうかわからんけど)と、海の底についたとき、それが勝利のときだろう。
 そのために今は、自分の身を削っている。
 身を削って、穴を掘る。黙々と服する海になったような気分で、労働に励む。海だって、穴を掘る。いつのまにか、その穴から湧き出してくる無限の海水で、世界中の海を潤してやる。というような生意気な言い草。これが、溺れそうになりながら、あっぷあっぷしている金魚みたいな今の俺の大志なのかな。金魚よ、大海を抱け。
 いつか、大きな仕事をしたい。大きな仕事ってなんだ。
 なんだかわからないが、とにかく大きな仕事だ。それがいつになるのか、皆目わからないが。いつの日か、千尋の海になるために、小さな石ころや、コンクリートの壁や、材木からの釘抜き作業(釘じまい、あれはまっことしんどい)と格闘している。
 あしたは守口の小学校を解体しに行く。おっさん、どれだけ壊したら気がすむんや。
 それにしても京都の夏はなんて暑いんだ!
 
 追記:ゆうべ書いた部分を読み返していて、あることに気づいた。「黙々と服する海になったような気分で、労働に励む。」という一文。
 これと、少し前に書いた詩。
「もっと深く読め、深海に潜るように
 豊饒な海に服するように
 黙々と読め
 己の身を削りながら」
 両者が不思議に呼応しているというか、なんというか。呼応じゃなくて、反転? なんだろう。ようわからんけど。
 豊饒な海=俺の目指すところ
 服するように読め=理想に近づいていくための読書
 そのかたわら、俺は俺の「言葉」を死刑囚の独房から解放するべく、
 服する海=つるはしを握りしめた俺
 となって、身を削っている、というわけだ。
 言葉とは面白いものだと思う。
 つまり、「豊饒な海」を目指す俺は「黙々と服する海」でもあるということか。つまり人生のテーマは自己解放?
 ──崇高な英知は喜びの中にではなく、悲惨さの中にある。
 だから俺は身を削って穴を掘り、身を削って読み生きる。苦痛こそが思想だ。インテリを気どっているきみたち、肉体の痛みを抜きにして、何かを語れると思うなよ。
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