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最終章 手紙──われらが姉妹なる海よ

[ 更新 ] 2022.06.01
 すべての原稿を書き上げた日の喜びは、今でもよく覚えている。
 四月の半ば過ぎ。浅い春の日の午後だった。
 脱稿後、まだ張り詰めている気持ちを持て余して、私はベランダに出ると、プランターの手入れを始めた。去年、そこに植え、今は枯れたままになっている植物を抜き取り、古い土をバケツに移して捨てに行き、プランターをきれいに洗って、新しいふかふかの土を入れる。今年の花を植えるために。
 そのような作業の合間に、ふと空を見上げると、そこには、神々しいほどの青空が広がっていた。天上から降ってくる光を、その粒を滲ませているような空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐き出して、ひとつの大きな仕事を成し遂げた満足感に浸っていた。
 思い返せばその日が私にとっての、いや、作品にとっての絶頂点であったということだろう。
 東京ではすでに桜の花は散り、葉桜になっているようだったけれど、ニューヨーク州ではやっと、蕾がほころび始めていた。数日前には、まるで冬から突き付けられた分厚い別れの手紙のような大雪が降り、今年の花は駄目になってしまうのではないかと、心配させられたばかりだった。
 けれども、木々はなんとか持ちこたえたようで、
 「大丈夫だったよ。今週末あたり、満開になりそうだから、よかったら見においでよ。ついでにランチでもしよう。三人で」
 脱稿の翌日、セントラルパークの桜の様子を、アンドリューは電話で伝えてきた。
 「じゃあ、お言葉に甘えて。ちょうど原稿を最後まで書き上げたところなの。きのう、日本へ全章、耳を揃えて送信して、文字通り、脱けたって感じよ。魂も抜けてる。ただいま、茫然自失状態、空の巣症候群」
 「それはそれは。でも、おめでとう、と言うべきなのかな。で、タイトルは結局、どう付けたの」
 先月だったか、作品のタイトルに関して、何かいい英語の言葉はないものだろうかと、苦し紛れにアンドリューに相談していた。仮タイトルを「千尋の海」と決めて書き進めてきたものの、途中からなぜか気に入らなくなり、カポーティの『冷血』に並ぶようなインパクトのある英語の言葉を教えてもらい、それを日本語に直して、タイトルにするのはどうだろうと、思い付いたのだった。が、断念した。アンドリューの考えた英単語の中には、ぴんと来るものがひとつもなかったからだ。
 「迷ったときにはシンプルに、という原則を貫いて……」
 最終的に私の付けたタイトルは『千尋』だった。
 原稿の最後は当初、千尋から両親に宛てた手紙で締めくくっていた。

1972年5月29日。ローマにて       
千尋

 つまり『千尋』という作品は「千尋」という言葉で終わる。
 この終わり方しかない、と思うに至った。
 名前ではなく、言葉としての「千尋」の意味は、途方もなく長いこと、きりもなく深いこと。
 渡良瀬千尋がやったことは、あるいは、やり残したことは、良きにつけ悪しきにつけ、そういう仕事──彼の言葉を借りれば──ではなかったか。書いているときも、書き上げたときも、そう思っていた。
 原稿を受け取り、読み終えた本多さんは、予想に反して、異を唱えてきた。
 「手紙で最後をまとめるのは、確かにきれいだと思います。美しい終わり方だと思います。でも、どこか『美化』の匂いがしませんか。結局、中嶋さんは、彼らのやったことを美化している、という誤解を読者に与えませんか。読者に対して、同情と許しを請うているようでもあります。ご両親への手紙は非常に叙情的ですし、日本人読者の涙腺を刺激しますし、胸に迫るものがあります。だからこそ、この手紙で終えてしまってはいけないような気が私にはします。代案として、たとえば……」
 本多さんは、ラストに、冒頭の記述をそのまま持ってくるのはどうか、と、提案した。イスラエルの新聞記者が事件の第一報を聞き、空港へ向かい、現場で初めて「日本人」という言葉を耳にする場面である。
 一も二もなく、私は賛成した。
 さすがだと思った。そういう手法もあったのか、と。
 ラストから冒頭へ、読者をもう一度、引っ張ってくる。まるで小説のような書かれ方。それに、この作品には「終わりはないのだ」ということも示唆できる。
 「本当に長いあいだ、お疲れさまでした。あとは私がこの作品にふさわしい洋服を着せて、武器より強いペンを持たせて、世に送り出すだけです。装幀家が決まったら、ご相談させていただきます」
 そのあとに本多さんは、原稿を印刷所に入れてから、何度かの校正と校閲を経て、校了するまでのスケジュールを説明してくれた。
 「うまく進めば、出版は七月。渡良瀬さんの生まれた月ですね。これも何かのご縁ということでしょうか。タイトルも、まったく問題ありません」
 
 けれども、私の書いた作品『千尋』が出版されることは、なかった。
 プランターにせっせと植え込んだ植物は一度も陽の目を見ることなく、花開くこともなく、枯れてしまったのである。
 今でも胸に突き刺さっていて、忘れたくても忘れられない言葉がある。
 それは、最終的な出版許可を与える立場にある、本多さんの会社の社長が会議で述べた見解だったという。
 「この作品は、出版するべきではない。今の日本人読者に受け入れられるとは到底、思えない。昨今の日本人読者は心の癒しを求め、この世に希望の光を見出したいと希求している。こんな時代に、日本人の過去の『悪』や『過ち』を暴くことに、いったいどんな意味があるというのか」
 要約すると、こんな内容になる。
 特に問題視されたのは、私が「千尋たち三人の起こした空港乱射事件はその後、世界中を震撼させることになる、すべてのテロ事件の元凶であり、原点であった」と、書いている部分だった。
 「こんな不名誉なことをなぜ、現代の日本人読者に今さら、訴える必要があるのか」
 とはいえ、その部分を削除すればいい、という問題でもない。そんなことをすれば、本作品における千尋の存在自体を削除しなくてはならなくなる。つまり、この作品は成立し得ない。
 「その一方で、著者が終始、テロリストを肯定的に描いている口調にも疑問を覚える。本作は世論から、批判の矢面に立たされる可能性も大きい。会社の良心が問われるのは必至である。経営者として、そのようなリスクを引き受けることはできそうもない」
 要は、会社のイメージを守るために、このようなダーティな作品を出したくない。そういうことだったのだろう。コグマ書房が児童書も出していることと、関係があったのかもしれない。
 本多さんは涙ながらに、私に詫びた。
 「どんなにお詫びしても、足りません。こんなことなら、もっと早い段階で、上の者に相談しておくべきでした。私の判断が間違っていました。編集長も局長もオーケイを出している作品を、社長が却下することなど、今までにはなかったことなんです。社長の決裁会議は形式的なものであり続けてきました。だからこれは、異例のことなんです。私も社内で東奔西走して、手を尽くしたのですが、上の決定を覆すことはできませんでした。どこか、他の会社で出してくれそうなところがないか、私の方で動いてみますので、お時間をください。こんな素晴らしい作品が没になったまま、なんて、そんなこと、私が許しません」
 また連絡します、と、本多さんは言葉を重ねた。
 「待っていてください。次に帰国されたときには、版元が決まっているようにしてみせます。弊社よりもいい条件で、原稿を買い取ってもらえるようにします。信じられないかもしれませんが、どうか私を信じてください」
 それが私にとって、生きている本多さんの最後の言葉になった。
 二〇一一年三月、日本を揺るがした大震災と原発事故。道路を、家々を、人々を、人々の生活を呑み込んでいった大津波。
 本多さんは、震災後の現地で、仲間たちとボランティア活動に勤しんでいるさいちゅう、不慮の事故に遭い、命を落としてしまった。
 享年三十九歳。短過ぎた一生だった。
 
 それから約五年が過ぎて、私はふたたび『千尋』の原稿をパソコンの画面に呼び出して、最初から最後まで、目を通すことになる。
 日本で出してもらえないなら、アメリカで出してやる。
 売り込み用の見本原稿として作成した『千尋』の第一章と第二章の英訳と、作品の概要を手に、得意の「当たって砕けろ」方式で、下手な鉄砲を撃つようにして、マンハッタンとその近郊にある出版エージェントを回りに回り、私はついに、中堅どころのエージェントと出版契約を結ぶことに成功したのだった。
 英語で出版するに当たって、私は冒頭にさらに一章を加筆することにした。
 これは、エージェントの編集者から出された条件だった。
 「911の現場から本作を書き起こして欲しい。そうすればこの作品は、アメリカ人読者にストレートに訴求するものとなるだろう。同時多発テロ事件の根源に、若き日本人男性三人の存在があった、という事実は、今までにまだ誰の手によっても、書かれていない。自爆テロや空港テロの元祖は日本人であった、ということ。イスラム圏の人たちだって、自覚していないことだろう。あなたにそれを書く勇気があるか」
 私は書いた。
 新たに書いた冒頭に『千尋』の英訳原稿を加えて、英語版を完成させた。私の書いた英文を磨き上げ、整えてくれるスタッフは、エージェントが雇ってくれた。
 『CHIHIRO』は二〇二〇年五月、事件から四十八年後、コロナ禍のまっただなかに、世界の片すみで小さな産声を上げた。
 渡良瀬千尋の志は、残った。
 名も無い町の、人気ひとけのない公園の片すみに、モニュメントとしてひっそりと飾られている、今ではもう誰も見向きもしなくなった、911で崩れ落ちたビルの鉄骨の一部のように。
 

 あなたの仕事部屋に今朝、日本から、一通のメールが届く。
 差出人は、向田登喜子。
 
中嶋果林さま
過日は、英語のご本をお送りくださり、ありがとうございました。
学のない私は到底、歯が立ちませんでしたが、幸いなことに
パートナーは英語に堪能ですので、まずは彼女に読んでもらいました。
それから、娘にも読ませました。
娘ももうじき、五十代です。
お父さんのことが書かれているんだよ、と冗談めかして言いますと、
それはまあ大変な父を持ったものだわと、笑って申しておりました。
 
 向田登喜子は、かつてあなたが東京で、インタビューを申し込んだとき「お断りします」と、即座に退けた人物である。
 渡良瀬千尋が京都でセツルメント活動をしていたころ、何くれとなく世話を焼き、いっしょに遊んだり、勉強を教えたりしていた子どもたちのひとりで、千尋を「兄ちゃん先生」と呼んで慕っていた少女のひとりでもあった。
 日本での取材を終え、アメリカに戻ったあなたが作品の執筆を始めたばかりの頃、あなたは彼女から一通の手紙を受け取っていた。手書きの手紙の入った封筒は、ジャージーシティにあった、あなたのアパートメントに届いた。
 手紙は、インタビューを拒否して申し訳なかったというお詫びの言葉で始まっていた。彼女は「この手紙に書かれていることは決して、作品の中に書き込まないで欲しい」と断ったあとに、自分と千尋とのあいだに起こった出来事を淡々と綴っていた。
 手紙によれば彼女は十三歳の頃に、当時、京大生だった千尋に出会い、以来、千尋がパレスチナに向けて旅立つまでの約七年間、付かず離れずの交流があったという。
 十八歳のとき、彼女は母親の同居人だった男にレイプされ、妊娠する。気がついたときにはすでに中絶できない状態になっていた。
 悩みに悩んだ末に、彼女は千尋に打ち明ける。
 千尋はこう言ったという。
 「俺がその子の父親になってやる。せやし、登喜ちゃんは、安心して産んだらええよ。ちゃんと面倒を見てやるから」
 千尋はこの約束を破って、パレスチナへ行き、乱射事件で銃弾に倒れる。
 けれども、向田さんにとって、娘の父親が千尋であることに、変わりはなかった。千尋がそう言ってくれなかったら、自分はどこかのビルから身を投げていたかもしれないと、手紙には書かれていた。
 そして、英語版の出版が決まったとき、それを伝えたあなたに対して、向田さんは「あの手紙に書いた内容を書き加えてくれていいです」と、みずから提案してくれたのだった。
 「娘の名前は、ちひろと言います。ひらがなです。兄ちゃん先生も承知してくれていました。男の子だったら漢字、女の子だったらひらがながいいね。そんな話もしたのです」
 
娘の感想は追って、また、お伝えいたします。
女三人、相変わらず元気で暮らしております。
雨にも負けず、風にも負けず、男性社会にも負けず。
大変な世の中になっておりますが、我らが姉妹なる海は平々凡々。
中嶋さんもどうかご自愛ください。
働き過ぎはいけませんよ(笑)
ときこ
 
 メールを読み終えて、あなたは思う。
 千尋の死は残ったのだ、と。
 われらが姉妹なる海のなかに、それらは残っている。
 千尋の詩は、残り続ける。彼の残した遺稿集の最後のページに、端正な文字で書き写されていた、シモーヌ・ヴェーユの詩のように。


軛につながれて黙々と服する海、
永遠に波をつながれて乱れる海よ、
天にささげられた魂、従順をうつす鏡よ。
夜ごと、あらたな襞を水面に織りこむべく、
はるかな星辰は、かくもやすやすと力をふるう。
[……]
透明なる水のひそやかな腕木をのばした天秤は、
おのれ自身の水泡と鉄塊の重さを測る、
立会人もなく公平に、波間にただよう小舟のために。
眼にもあざやかな線をあやまつことなく、
舟にきざむ青い喫水線は均衡をえがく。

広大なる海よ、不幸な死すべき者どもに寛恕なれ、
汝の岸辺にはせ集い、汝の砂漠にふみまよう者どもに。
沈みゆく者どもが滅びる前に語れ。
われらが姉妹なる海よ、魂のなかへと入りこみ、
汝の正義の水で洗ってやるがよい。



〈終わり〉
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