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第七章 法廷──滅びる前に語れ(後篇)

[ 更新 ] 2022.04.01
 インタビューのやり方は、人によって、さまざまに異なっていて当然だと思っている。私の場合は「あくまでも相手に語らせる。インタビュアーは黒子に徹する」というやり方を好む。おそらく、性格のせいなんだろうと思うけれど、押しが足りない、突っ込むべきところで怯んでしまって核心をつかめない。これらは、自他共に認めている弱点でもある。その一方で、安易にまとめ上げない、結論を導かない、話を一般化しない、相手をジャッジしない、読者の共感を求めない、という原則は常に貫いてきた。
 けれどもその日、岡部洋三を目の前にして、私は少しやり方を変えてみた。
 黒子になるのではなくて、私は私自身を思い切り、彼にぶつけてみることにした。岡部は、これまで何人もの人たちから「なぜ? あんなことを」と、訊かれてきたはずだ。動機は、きっかけは、理由は、と。だからもう、なぜあんな事件を起こしたのか、について、尋ねるのはやめようと思った。代わりに、私の興味のあることだけを「突っ込んで」訊いてみることにした。
 あらかじめ読んでいた裁判記録の中で、私の目を釘付けにした言葉は、これだった。
 車椅子の少女。
 悟りを開いた僧侶のような微笑みを浮かべている岡部に向かって、私が最初に発した質問は、こうだった。
 「あなたたち三人は、空港ロビーで、主にプエルトリコから巡礼を目的にしてやってきた旅行者に銃を向けて、めちゃくちゃに発砲しました。死傷者は、九十九人。その中には、十歳くらいの、車椅子に乗った女の子もいた、という証言を私は読みました。これは本当ですか? 正直なところ、私はショックを受けたんです。そこに、どんな高邁な思想があったとしても、人にこういうことができるものだろうかと」
 岡部は、視線をテーブルの上に落としたまま答えた。
 淡々とした口調だった。彼にとっては最早、少女は遠景に成り果てているのだろうか。生きていれば、四十代になっている「少女」である。当時は二十代の若者だった岡部も、今は六十一歳。私の目には、年齢不詳の老人の、亡霊のように見えている。亡霊のそばに寄り添っているのは、がっしりとした体躯を持つ、警護の青年である。
 「僕らの乗った飛行機が空港に到着したあと、三台のバスに乗って空港ビルまで行ったわけですが、二台目のバスに、車椅子の女の子が乗っていました。僕が撃ち始めたときには、彼女は僕から四、五メートルほど離れたところにいた。そして、僕の方を向いていました。表情までは……覚えていないな。何しろ、無我夢中だったから。しかし僕は彼女を撃たなかった。嘘だと思うなら、『少女』に取材したらいい。渡良瀬さんからは『床に伏せている人間も撃て』と命令されていましたが、僕は撃たなかった。あなたに信じてもらえるかどうか、わからないけれど」
 「そうですか、信じたいと思います。誰であろうと撃て、というのは、渡良瀬さんの命令だったんですね。あなたはそれに背いて、少女を撃たなかった、ということですか」
 「その質問には、答えられないな」
 なぜ? という言葉が喉のあたりまでせり上がってきたけれど、抑えた。このインタビューの中では「なぜ」を使うまいと決めている。
 岡部は裁判がおこなわれている期間中、犠牲者に謝罪をして欲しい、と弁護人から頼まれるたびに、それを拒否している。その理由は「自分が『悪かった』と勝手に謝罪すると、この革命作戦の指揮を執った、渡良瀬千尋の神聖な名誉を損なうことになるから。革命戦士にとって、指揮者からの命令は絶対的なものだから」と、語られている。しかし、岡部は車椅子の少女を撃たなかった。つまり岡部は、少女に対しても、千尋に対しても「悪いことをした」と思っている、そういうことなのだろうか。
 「三十七年前の裁判における最終陳述の中で、三人はオリオン座の三つ星になると誓った、犠牲者も星になったのではないかと、あなたはおっしゃいましたが、今でもそのおとぎ話を信じていますか」
 答えは返ってこなかった。
 
 このインタビューを取り付けるために、私はおよそ半年間を費やした。
 一日も休まず原稿執筆を進めながら、ありとあらゆる伝手を利用して、岡部にコンタクトを取ろうと試みた。在米・在日イスラエル大使館、日米の新聞社、出版社をはじめ、本多さん、梅宮教授、彼女と彼の友人、知人、もと夫のアンドリューとその妻の人脈まで使って、四方八方から攻めてみた。果ては、本多さんの知り合いを通して、ある衆議院議員の力まで借りてみたものの、芳しい結果は得られなかった。もうあきらめた方がいいのか、と、引き潮の境地に達し始めた矢先に、本多さんから「先を越されました」という電話が入った。
 聞けば、日本では名だたる男性ノンフィクション作家が岡部への単独インタビューに成功し、近々、雑誌にそのやりとりの全貌が発表されることになっているという。
 「今まで日本国内で、岡部さんの生の発言が直接、メディアに出たことは一度もありません。本人が書いた手記は出ていましたが。今回のインタビューはスクープです」
 それで、私からの依頼に対しては黙殺を決め込んでいたのか。
 肩を落としている私に、彼女はこう言った。
 「でも、中嶋さん、だからこそ、あともうひと押し、がんばってみませんか。もしかしたらこれこそが絶好のチャンスかもしれません。岡部さんは、日本人男性から取材を受けたわけです。男性の視点から、なされたインタビューです。それに、言い残したこと、言い足りなかったことがきっとあるはずです。それらをアメリカ在住の日本人女性である中嶋さんが引き出すのです。女性の視点、という切り口を強調してみませんか」
 「女性の視点、ですか」
 問いかけながら、私は思い出していた。もと夫のアンドリューが冗談めかして言った台詞を。
 「こうなったらあとはもう、きみが女の武器を使うしかないだろう」
 「何よ、女の武器って」
 「それは自分が一番よく知ってるだろう」
 「これって、セクシャルハラスメントかしらね」
 馬鹿馬鹿しい会話を思い出しながら、私は本多さんに、何度目になるのか、おそらく五度目くらいになるはずの、取材依頼の手紙を書く約束をした。
 結果的には、アンドリューは間違っていなかった。「これが最後のお願いになります」で始まる私からの手紙に、岡部はやっと、というか、おそらく渋々、許諾の返答を送ってくれたのだった。
 懇願の手紙には、私が「女として」渡良瀬千尋に惹かれている、と書いた。千尋との出会いは、私がかつて愛したことのある男が千尋を尊敬していたから。京都時代、千尋が親交を結んでいた女性たちにも会いに行って、話を聞かせてもらった。私は「女性の視点から」あの事件を描いてみたい。私は、あなたのことを書きたいとは、まったく思っていない。私が書きたいのは、千尋のことだけである、などと、実に感情的に書き綴った。女を丸出しにしたような手紙がかえって、岡部の心に届いた、ということなのだろうか。
 ──敬愛する作家の書いたエッセイに出てきたのですが、ポルトガル語に「サウダーデ」という言葉があるそうです。心の中にも、心の外の世界にも、大切な人がいない。大切な人の不在を感じる。寂しく、悲しく、切ない。けれどもその寂しさ、悲しみ、切なさは同時にある種の喜びでもあるし、幸福でもある。そのような感情を表す言葉として「サウダーデ」はある。というような話です。私はこのくだりを読んだとき、これは私の渡良瀬千尋に対する思いであると、理解したのです。渡良瀬千尋は、その不在に伴う悲しみと幸福を私に残して、去っていきました。私はこの悲しみと幸福の正体を知りたいと思っています。これが私がこの作品を書こうとしている目的であり動機です。ぜひ、岡部さんのお話を聞かせて下さい。渡良瀬さんに対する思い、あなたの知り得たこと、知り得なかったこと、どんなことでもかまいません。それらを私に伝えて下さい。インタビューは英語でも日本語でもできます。
 
 話は弾まなかった。
 川の流れは、淀んでいた。その川の行き着く先の海も、いっこうに見えてこない。
 私に与えられた時間は、一時間四十五分。写真は不可。現在どこに住んでいるのか、現在の暮らしぶりなどについても、尋ねることは許されていない。訊いていいのは、事件に関することだけ。
 私は終始、焦りを隠し切れず、岡部は終始、真実を隠そうとしている、気を許していない、そんな気がしてならない。不毛なインタビューというのは、こういうインタビューを指して、言うのかもしれない。
 それでも私は言葉を重ね続けた。どこかに、落ち葉の溜まりができている。それが流れを堰き止めている。取り除いてやらないことには、水は流れない。
 能面のような岡部の表情が歪んだのは、私がこう言ったときだった。
 「渡良瀬さんの遺体には十数発の弾丸が命中していた、と、私が入手した記録には出ていました。その弾丸の中には、あなたの撃ったものも含まれていた。そう考えていいでしょうか。位置関係からは、そう考えるのが自然です」
 表情には変化があったものの、流れはつっかえたままである。
 「だから、何がどうだというような話ですか。僕には、あなたの質問の意味がわからない。わかりたいとも、思って、いない、けど」
 苦しそうな声だ。誰かに首を絞められたまま話しているかのような。普段、人と日本語で話す機会がないせいなのか。
 「ごめんなさい。ただ、乱射事件という性格上、そういうこともあるのかなという個人的な興味です。私は、渡良瀬さんの死に、興味があるんです」
 「それがあなたのサウダーデだから」
 「そうです」
 「じゃあ、訊くけど、サウダーデの同義語はノスタルジーですよね」
 「わかりません、そんなこと。違うと思います」
 「ノスタルジーということなら、それはあなたが馬鹿にしているオリオンの三つ星と同じですよ」
 これではインタビューになっていない。
 私は話の矛先を変えた。
 「偽造パスポートのあなたの誕生日は、十二月八日、真珠湾攻撃の日になっていたそうですね。渡良瀬さんは二月二十六日、これは二・二六事件。安元さんは、日航機よど号ハイジャックの日、三月三十一日を選んでいます。あなたが真珠湾攻撃の日を選んだのは、死を覚悟した攻撃であるということの意志表明に違いありませんが、そのあなただけが生き残りました。あなただけが星になれず、ひとり生き残ったことについて、今、どう考えていますか」
 「何も考えていない。ただ、死ねなかった、殺してもらえなかった、これが現実です」
 「渡良瀬さんは、どう思っているでしょう」
 「何も思っていないと思うな。死者には、思考力がない」
 「そうでしょうか。渡良瀬さんは天上から、あなたを見下ろしているのではないでしょうか」
 ここで後退してはならない、と、私は思った。岡部は、ほどけかかっている。直感でそう感じていた。突っ込んでいかなくてはならない。
 「岡部さん、あなたは、渡良瀬さんと安元さんの遺体確認をさせられたとき、自分を『殺してくれ』と、絶叫しました。首から上がなく、男性器をむき出しにされた遺体をご覧になって、号泣しました。安元さんは作戦の通り、自身の顔を破壊していましたが、渡良瀬さんはそうではなかった。作戦を実行する前に、銃弾に倒れたのです。イスラエル側からの銃弾だけで、十数発も当たるでしょうか。銃弾は至近距離から、撃ち込まれたと考えるのが自然でしょう」
 「……それについては」
 「答えられない、答えたくない、が答えですね。そして、逮捕されたあと、あなたは自分の自殺を容認してもらえることを条件にして、自供をしたそうですね。でも、その取り引きというか、契約は裏切られて、結局、こうして生き長らえることになったわけです。このことについて、つまり、自殺できなかったことについて、あなたは」
 そこで、私の言葉は途切れた。
 岡部の嗚咽に遮られて、私は続きを言えなくなったのだった。
 
 裁判で終身刑を言い渡された岡部は、それから十三年にわたって、イスラエルの刑務所で囚われの身として生きてきた。
 最初の四年ほどは、独房のベッドの四隅に両手と両足を縛り付けられたままだったという。食事は、うしろに回した手を縛られたままの状態で、家畜のように直接、食器に顔を付けて、とっていたという。一時期は精神疾患を患い、立つことができなくなり、四つん這いで這いずり回っていたという。
 これは懲役ではなくて、拷問だろう。イスラエルは死刑を廃止しているが、刑務所内では、死刑よりも厳しい刑罰が待っているということか。日本は、先進国で死刑を実施している数少ない一国であるけれど、もしかしたら死刑とは、長く続く苦しみを一瞬で終わらせてしまう、極刑としては軽い刑なのではないか、などと、資料を読みながら私は思ってしまったものだった。
 判決から六年後の一九七八年、PFLPは西ドイツ内の過激派グループと共謀して、イスラエルの飛行機をハイジャックし、ウガンダの空港に着陸させた上で、岡部を含む囚人の解放を要求した。このとき、岡部はテルアビブ空港まで連れていかれている。しかし、この作戦はあえなく頓挫し、岡部は再びイスラエルの刑務所に送り返された。
 それから七年後の一九八五年、世界中をあっと言わせるような出来事が起こる。イスラエル政府が、レバノンでPFLPの捕虜となっているイスラエル兵士三名との捕虜交換として、岡部を含む千百五十名のパレスチナ人を釈放する、と発表したのである。
 これに対して、日本政府は異議を申し立てた。日本は、岡部を釈放することなく、イスラエルの刑務所に留めて欲しいと言った。仮に釈放されれば、日本政府は岡部を国際指名手配の対象として、帰国すれば即逮捕、という方針を明らかにした。釈放された岡部に残されていた道は、レバノンへの政治亡命だけだった。とはいえ、そんなにすんなりと事が運ぶはずはない。その後、レバノン政府は岡部を含む日本赤軍メンバー五人を逮捕。レバノンで投獄された岡部の政治亡命が認められたのは、二〇〇〇年になってからだった。
 レバノンに戻ってきた岡部を「英雄」として、アラブの人々は熱狂的に出迎えた。
 この亡命に際して、レバノン政府は、岡部の生活を全面的にサポートすると申し出たが、PFLPはそれを拒否した。彼らはレバノン政府を信頼していなかったのだろう。現に今もレバノンでは、アメリカ寄りの与党が選挙で勝利を収めたばかりで、政治は混乱を極めている。反米派の元革命戦士・岡部の存在はレバノンにとって、目の上のたんこぶになりつつある。このような事情から、今現在も、レバノン国内で岡部の身を守っているのはPFLPのメンバーたちのようである。
 
 残された時間は、あと十分足らずになっている。
 私の喉は、からからに渇いている。岡部の涙も渇いている。
 レバノン政府は弱体化し、岡部を現地で支えてきたPFLPもかつての勢いを失ってきている。日本政府が岡部の引き渡しを求めたら、おそらくレバノンはそれに応じるだろう。このまま、この沙漠に残り続けるのか、海を渡って祖国へ戻って、そこで裁かれ、再び祖国で囚われの身となるのか、岡部は今、絶壁のぎりぎりの淵に立って、危うい自分の足元を眺めているのだろうか。
 飛ぶか、落ちるか。飛べるか、落とせるか。
 私は『冷血』を書いたトルーマン・カポーティを思い出している。
 カポーティは「ある場面」を除く原稿をほとんど書き上げたあと、殺人犯のひとりへの最後のインタビューを試みた。カポーティを「アミーゴ」すなわち「友だち」と呼ぶようになるほど手なずけた犯人に対して、この天才作家はいくつかの嘘をついていた。タイトルは『冷血』ではない。まだ原稿は書けていない。それはきみが「あの場面」について、話してくれないからだ。取材に応じて、殺人を犯した弟を激しく拒否していた姉からもらった一枚の写真を見せながら、カポーティは言った。そこには幼い姉弟が写っている。ほら、見てごらん。お姉さんは、この写真をきみに渡して欲しいと言っていたよ。ずっと大切にしていたんだよ。それも、真っ赤な嘘だった。カポーティは、作品を完成させるためにはどんなことでもする、彼こそが冷血であったのだ。だからこそ、あの類いまれな傑作が生まれた。私はカポーティのやり方を否定しない。
 私も今ここで、渡良瀬千尋の写真を見せて、いや、渡良瀬、安元、岡部の三人が写っている写真を見せて、岡部に迫るべきなのだろう。本当は何があったのか、教えて、と。
 私にそんな写真の持ち合わせはない。私にカポーティほどの作家魂が宿っているわけでもない。けれども、これを訊かないままでは、レバノンくんだりまでひとりで飛んできた意味がなくなる。
 「当時、革命戦士であったあなたにとって、渡良瀬千尋の命令は絶対であったということは重々、理解できているつもりです。あなたたちは作戦決行のあと、顔を破壊する形で自爆することになっていました。渡良瀬さんがそう決めていたからです。空港のお手洗いでパスポートを破棄し、身元を隠そうとしました。その後、安元さんは作戦任務を完遂し、渡良瀬さんは失敗しました。手榴弾を自分に向けて投げるよりも前に、銃弾に倒れたのです。自爆には失敗しましたが、死ぬことには成功した。あなただけが死ななかった。もしもあなたが本気で任務を遂行するつもりであったならば、あなたには舌を嚙み切ってでも、それができたはずです。逮捕後にも、収監後にも。拳銃がなくても、死のうと思えば、死ねるでしょう。でもあなたはそれをしなかった。あくまでも、生きていこうとした、それは」
 なぜですか? は、使わないことにしている。
 代わりに私はこう言った。
 「生きてくれ。おまえだけは、生き残ってくれ。生き残って、語ってくれ。それがあの日、空港で、絶命の前に渡良瀬千尋の下した、あなたへの命令だったからではないですか」
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