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第2回

出汁遍歴とご飯茶碗

[ 更新 ] 2021.09.01
 味噌汁こしらえて、お米研いで、というのが私の夕飯支度のとっかかりにして要となっている。味噌汁の出汁については、鰹の削り節をそのまま放り込んで掬い出しもしない無勝手流にはじまり、削り節を煮出し続ける時期がしばらくあり、その後、出汁パックを中心にあれやこれや試す出汁放浪時代が長くあった。ここ数年は、いりこ出汁+昆布の水出汁を基本としている。いりこを切らしたりちょっと飽きたりした日は出汁パックを使う。
 カタクチイワシを煮てからからに干したその出汁の材料を、いりこ、と呼んでいる。夫・サキさんと私が10年程前から愛聴ししばしばライブを観に行っている福岡のミュージシャンが時折ステージに登場させる猫型パペットの名が、いりこちゃん、というもので、うちの中でもその名前を連呼していたら程なくして馴染んでしまった。それ以前は、煮干し、と呼んでいた。ものの名前というのは得てして西日本由来のもののほうが可愛らしく響きがちだ。
 ついでにいうと、このところ愛用している出汁パックは、京都「うね乃」の、鰹と昆布と干椎茸の入った「おだしのパックじん(黄)」。大らかなかっこよさのあるパッケージデザインも気に入っており、ジャケ買いの感もあり。お安いとはいえないけれど、おいしさの精度の高さを考えれば法外な値段ではない。
 サキさんの広島の実家ではいりこ出汁が基本だというのはかなり早い段階、新婚時代から知ってはいた。ただ、じゃあそれに合わせようとそそくさといりこを手にするには、私は鰹出汁に愛着があり過ぎたし、従順な妻という輪郭の女になりたくもなかったし、なにより、ふたりで住んでいる東京では鰹出汁が主流だし。そんなようなこだわりを脇へ置いていりこ派に与することにしたのは結婚してから10年以上経ってからだった。
 パック入りの削り節で出汁を引くのが物足りなく、つまらなくなり、乾物屋で削り立てのを買って使いはじめていた。30代前半に住んでいたマンションの近所には乾物屋があって、削り節を買うと茶色いクラフト紙の袋に詰めて手渡してくれた。それがうれしくもあった。透明の、口がきゅっと閉まる保存袋に入れ、冷凍庫にしまって少しずつ使っていた。
 しかし、乾物屋が店を畳んでしまったこともあり、かなり長いこと、その日その日でランダムに出汁を引いていた。おいしい、という感想をサキさんが述べるのは、決まっていりこ出汁の日だった。
 いりこ出汁を引くのが日常になって1、2年経った頃に、たまたま鰹出汁の味噌汁をこしらえた日があった。いりこを切らしていて、パック入りの削り節で、とりあえず。そしたら、サキさんが、今日の味噌汁なんかおいしい! と、目を丸くして言うものだから、あきれて大笑いした。ずうっと続けて口にしていると好物でもやはり飽きがくる、ということのあまりにもありありとしたあらわれ。台所ではマンネリ上等というのが私の持論ではあったのだけれど、たまには新味をちょいちょいはさむことは有効、いや必要なのだと感じ入ったのだった。
 とはいえ、豆腐はきぬごしより断然木綿、と常々主張しながらも、一緒に入った食堂の、定食に付いてきた味噌汁の具がきぬごしなのに、おいしいおいしい、と感じ入りながら飲んでいる隣にいると、好みというのも日替わりなのかしらんと思わされる。でも自分だってそうかもしれない。


 家庭料理についてのエッセイを読むと、得てして実家の味、家庭内の掟のようなものをいかに引き継いできたかについて綴られていることがしばしばだ。その筆致はたいてい、誇らしげでもある。
 けれど、いざ自分の台所での振る舞いを書き起こそうとしてみると、ダイレクトに自分の実家と繋がっている事柄はずいぶん少ないと気付く。19歳で実家を出るのは、台所の経験を身に染み込ませるには早過ぎたともいえる。
 実家では、小さい頃は祖母が夕飯の揚げものの支度をする傍らにいるのが好きだったし、高校生にもなるとおかずをつくる日もあった。なのに、自分の手でお米を研いだこと、出汁を引いたことはなかった。なにかつくろうというときは、実家の食卓には並ばないメニューに挑戦しようと、かきたま汁とか中華風の炒め物とかのレシピばかり見ていた。台所を司っていたのは、祖母と母で、私が実家にいた頃は、銘々が別々の、自分の城といえる台所を所有していた。ふたりとも、私には、料理については、聞けば教えてくれても、しなさいと命じることはなかった。つまりこちらが能動的になれない事柄についてはなにひとつ身につけずじまいでひとり暮らしをはじめたのだった。思い返せば空恐ろしい。
 実家の台所の風景をつくっていた決まりごとの中で、無意識のうちに私に引き継がれている慣習をひとつ挙げるならば、引越しをする度、台所のつくりつけの棚や引き出しに持参した調理道具などをしまいこむ前に、一度水拭きをしてから新聞紙をぴっちり敷き詰めること、それは明らかに祖母の影響である。でも、そのことについて祖母となにかしら話した記憶はない。子供の頃、台所の流しの下の棚を開けるとき、ちらちら目に入った古新聞の片鱗の印象をなぜか強烈に焼き付けてしまったというだけにすぎない。
 これまでに見聞きしてきたいろいろなものをコラージュのように貼り合わせて、私の料理は、台所は成っている。


 ご飯茶碗と、その右側に置く味噌汁のお椀。把手もなく円やかで、ふたつの器のかたちはよく似ている。
 うちで使っているご飯茶碗は磁器で、汁椀は木製で漆塗り。それも、日本全国共通のスタンダードなスタイルであるわけではない。
 磁器の生産が盛んな地域の出身で、実家では木製の汁椀を使ったことがなかったという人の話を聞いたおぼえがある。そして、今日主流となっている、爪で弾けば、ちん、と高い音のする磁器のご飯茶碗が広く行き渡るようになったのは江戸時代以降で、それより前にはたいてい木製の食器が使われていたというから、少なくとも、器の素材によってこれはごはん、こっちは汁物、と決まっていたわけではなかった。
 ご飯茶碗と汁椀を分かつ、きっぱりした違いというものはあるのだろうか。
 なんとなく、ご飯茶碗は側面がすっと切り立っていて、対して汁椀は円みを帯びているものが多いのでは、などと推察してみていたけれど、ご飯茶碗の展示即売会「めしわん300展」を昨秋覗いてみたかぎりでは、ご飯茶碗には定型はないと分かった。すでに売れていったものもありつつ200点以上300点未満のご飯茶碗が並ぶ様は壮観だった。大・小・重・軽・薄・厚・木・陶・磁。色もいろいろ。
 企画したクラフトバイヤー、日野明子さんは、あくまでも比較的にはですけど、と前置きした上で「汁椀の方がエラが張っていて、めし碗のほうが小ぶり」である傾向がみられると言った。どういう輪郭をその人の定番とするかはほんとうに人それぞれだそうで、だから、お薦めはどれですか? と訊かれるとけっこう難渋するのだとも日野さんは言っていた。
 日野さんは10年と少し前に『うつわの手帖』という本を出している。その「ごはん」篇の参考文献リストに挙げられている一冊、『めし茶碗愛好』をこないだ古書店で見つけた。
 年季の入った、骨董、といえる様々なご飯茶碗の写真と、ご飯茶碗論から成る本である。
 載っているご飯茶碗は、蓋付きのものが多い。そういえば、日野さんは、森正洋の「平型めし茶碗」について、ごはんがすぐに冷めてしまいがちな状況で使われることを想定しなくていい世の中になったから、口が大きく開いたデザインになったと聞いたことがあると教えてくれた。たしかに、口が広ければ、盛ったごはんが空気に触れる面積も広くなる。蓋を付けるのも同じ理由からなのかしらん。
 器蒐集家、器のつくり手、料理店主など90人近くが各々のご飯茶碗観を披露している「めし茶碗を考える」と題されたページに目を通してみると、やっぱり好みはいろいろだ。骨董界ではご飯茶碗はあまり高値が付かないものだという意見は多い。陶芸作家も同じく、そこがなやみどころだと。そして、私がイメージしていたような、側面がすっと切り立っている、逆三角錐みたいなかたちは、大量生産の産物であると知る。それと、この本が刊行された1970年代には蓋なしでの注文が増えてきたという陶芸家の言もある。かなり昔のご飯茶碗には蓋が付いていなかったという話も出てくる。また、たとえば九州の食器の産地では「汁茶碗」という言葉をよく聞くといい、お椀は普通は「「めし、汁」の兼用であったのかもしれない」と書いているのは『用と美』という美術工芸誌を発行していた高田一夫。もともとご飯茶碗と汁椀のあいだには区別はなかったのかもしれない。お茶漬けなどを想像してみると、そう素直に捉えたくもなる。
 ここまでご飯茶碗について聞いたり読んだりした話を書いてみて、私の地の文以外ではみんな「めし」と呼んでいるのに気付く。私が、ご飯茶碗、と書くのは、自分の話し言葉に合わせてのこと。白いごはんを「めし」とは呼ばないから、文字の上でもそう書くと違和感が生じる。口と手を別々に動かしたいときもあるけれど、こと、ごはんについては、ごはん、と言いたいし書きたい。
 そういえば、ご飯茶碗、という呼称にはなぜ「茶」という文字が入るんだろう。「めしわん」と呼ぶならば気にならないことなのだけれど。
 「飯茶碗が生まれてきたのも、忽然と生まれてきたのでなく、抹茶茶碗からだんだん茶心をぬいて、実用雑器に近づいた感じであった」と『めし茶碗愛好』にはある。ならばその名付けも、抹茶の「茶」からきているのではと想像される。
 しかし、渋すぎるタイトルを裏切るダイナミックな食論考『茶粥・茶飯・奈良茶碗』ではまた別の説が提示されていた。
 骨董にふれる機会がよくあるという京都の知人によると、奈良茶碗とは、江戸後期の発掘物としてしばしば登場する食器だそうで、ただ、その人もこの本を読むまでは、奈良茶碗ってなんやねん、と、ちょっとだけ引っかかりつつもその語源を掘り下げてはいなかったと言っていた。
 「奈良茶飯」を食べるための器としてつくられた、磁器の、蓋付きのご飯茶碗イコール、奈良茶碗。ややこしいのは、奈良で製造されていたわけではないこと。
 『めし茶碗愛好』をもういっぺんめくり直してみると、たしかにその名はちらっと登場しているものの、ご飯茶碗の歴史を辿る文章の中には出てきていなかった。
 「日本料理史の分野では、奈良茶飯はわが国初の外食産業の起こりと位置付けられている」、『茶粥・茶飯・奈良茶碗』にはそうある。
 奈良の街で愛食されていた、焙じ茶で炊いて塩で味付けした「茶粥」が江戸に伝わって、柔らかなお粥としてではなく、水気少なめに炊かれた「茶飯」として売られるようになる。浅草の待乳山聖天の門前に奈良茶飯の店がオープンしたのは400年近く前のことになる。
 「「奈良茶」「奈良茶飯」と呼ばれた中身は、茶飯・豆腐汁・煮染・煮豆などが揃った献立、いわばセットメニューとして登場した」
 この定食は、振袖火事で江戸の街の大半が焼けた後、復興事業のためにあちらこちらから集まってきた多くの人たちに支持された。程なくして、同じメニューを踏襲する店が増えていく。江戸で流行り、京都、大坂に伝わる。内田百閒の随筆にも、岡山での少年時代の思い出として登場する。岡山城下の旭川沿いに、夏に「夜店や見世物」が並ぶ賑わいの風景自体が「奈良茶」と呼ばれていたという。その言葉が包括する事物は、食器の中からはみ出して、それほどまでに大きくなっていたのが分かる。
 『茶粥・茶飯・奈良茶碗』の後半には、柳田国男の「今日の茶碗も亦その奈良茶碗の略語ではなかったか」との言葉が引かれている。
 「茶碗」の語源は、「抹茶碗」ではなく「奈良茶碗」からだった、といえやしないか。
 ただ、それほど支持された奈良茶飯は今は廃れてしまっている。
 関東地方で醤油の醸造が盛んになるにつれ、茶飯は醤油で味付けされるようになり、お茶そのものとは切り離されていったといい、おでん屋の茶飯のルーツとなったとも推察される。おでんとセットのあの茶飯の名付けは、単に茶色いから茶、としか私は捉えていなかったけれど、奈良茶飯の片鱗が活きていたとは。


 「めしわん300展」では、並べられた中ではおそらく2番目に大きなご飯茶碗、というか小さな丼を買った。大沼道行さん作の織部。
 大は小を兼ねる、というのがサキさんが買いものをするときの口癖なのだけれど、ついこないだ、カフェオレボウルと径は同じくらいで背丈が高めの、寸胴のその丼を棚に戻しながら、これちょうどいいね、と言っていた。でしょ、と、我が意を得たりの相槌を打つ。
 丼はふたりでごはんを食べるときにはほぼ登場しない食器だ。夏場のみが例外で、それは枝豆入れとして。
 ご飯茶碗はそこそこたっぷりした大きさでないと物足りなくとも、丼は、いったん小ぶりのものを使いはじめてみたらそのまま元には戻らない。
 ここしばらく、丼にはうどんやラーメンなど麺類ばかりを託していて、白いごはんを盛ってその上に何かしら載せて食べることが減ったせいもある。
 晩、ひとりぶんの食事をこしらえてひとりで食べるときは、基本的には丼に白いごはんを盛ってなにか煮たり炒めたりしたものを載せよう、三十路越えのち四十路手前までの私はそう決め込んでいた。理由としては、器もひとつにまとまるから用意するのも片付けるのも楽だし、というのがまずあった。その次は、と思い巡らせてみるも、なかなか丼ものの魅力を語り出せないのはどうしてだろう。
 丼ものが好きで好きで、独り占めしたくてひとりで食べていたわけではなく、楽である、というところにのみ眼目を置いていたせいかしらん。

〈文中に登場する本など〉
『うつわの手帖 2 ごはん』日野明子 ラトルズ 2010年
『めし茶碗愛好』料治熊太 光芸出版 1975年
『茶粥・茶飯・奈良茶碗』鹿谷勲 淡交社 2021年
*「めしわん300展」小田原「うつわ菜の花」にて 2020年
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