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第4回

朝の味噌汁と東京の仙台味噌

[ 更新 ] 2021.11.01
 長いこと食わず嫌いをしてきた林芙美子の作品を『森まゆみと読む林芙美子「放浪記」』を入り口におそるおそる読んでみたら、思いの外、ぐっときた。大正末に上京してからの、19歳から20代前半までの、無軌道な暮らしの記録であり、仕事遍歴、男遍歴、浅草の情景など、読みどころはいろいろある中、汁物も度々登場しているのに目がとまる。主に、味噌汁。
 青梅街道の大衆食堂で居合わせた、彼女より20くらい年かさの「労働者」が、持ち合わせが十銭玉1枚しかなく、それで食べられるものをなにか出してくれと注文したとき、「御飯に肉豆腐」と一緒に差し出された「濁つた味噌汁」。
 セルロイド玩具の工場に勤めていたとき、根津の下宿に帰って自炊する「冷飯に味噌汁をザクザクかけて、かき込む淋しい夜食」。
 カフェーで女給として働いていたときの述懐は「今朝も泥のやうな味噌汁と、残り飯かと思ふと、支那そばでも食べたいなあと思つた」。
 濁っていて、さみしくて、泥のよう。文章の中の汁物というのはたいてい、ほっとさせてくれる存在として描写されるものだけれど、飲む人を必ずや裏切らないという保証など、そういえばあり得ないのだ。貧乏と伴走しながら飲むおいしくもない味噌汁の佇まいにはむしろリアリティがある。
 東京での生活に行き詰まった林芙美子は、徳島にいる母を訪ねる。しかしそこに長くいられるわけでもなく、早々に帰京を決めたものの、帰る途上で大阪は天保山の安宿に泊まる。ちなみに、天保山とは、標高4.53メートルの日本で2番目に低い山であり、30年程前からは水族館があるところとして知られる。
 「朝の膳の上は白い味噌汁に、高野豆腐に黒豆、何もかも水つぽい舌ざはりだ。東京は悲しい思ひ出ばかり、いつそ京都か大阪で暮してみよう……」
 白い味噌汁、とあるのは、東京とは味噌の種類が違うということ。汁物やおかずが水っぽく感じられることは厭わずに、林芙美子はそこで職を探し、毛布問屋に住み込みで働きはじめる。宛名書きの仕事だ。そこで毎朝、芋粥を口にしながら「東京で吸ふ、赤い味噌汁はいゝな、里芋のコロコロしたのを薄く切つて、小松菜と一緒にたいた味噌汁はいゝな」と振り返る。少し前まで飲んでいた味噌汁を恋しがっている。それは再び東京に惹かれていくこととイコールだ。
 『放浪記』は大正末の暮らしの写生でもある。虚構も混ぜ込まれているらしい『放浪記』だけれど、生活にぐっと食い込んで切り離せないような味噌汁のくだりはきっとほんとうだと思いたい。当時、大阪では味噌汁は日常にある汁物ではなかったと、ちゃんとえがかれているから。


 「食べた記憶はある、という感じです。終戦後に関東から入ってきた風習だと思いますよ」
 味噌汁について、大阪生まれの小説家、田辺聖子はそう語っている。さらには「『汁』ってことばも大阪にはないです。『おつゆ』になりますね。わたしたちは戦前『おみそのおつゆ』って、長々しい呼び名でしたよ」「(『おみおつけ』という言葉は)小津安二郎の映画で覚えました」とも。
 この大阪味噌汁話は、食文化史研究家の石毛直道、日本文化史研究家の熊倉功夫と、1998年におこなわれた鼎談の中にあったもので、『上方食談』という本に収録されている。
 「東京文化を日本文化として考えるようになったから、みそ汁を毎日飲むのがふつうの日本人だってことになる。ところが、戦前の奈良県の食事調査では、ほんとにみそ汁って飲んでないんです。朝は関西は茶漬けかお粥ですから、水気があることだし……」
 鼎談の中で、石毛直道はそう言っている。
 そういえば、京都の懐石料理店「辻留」の二代目、辻嘉一のレシピエッセイ『料理のお手本』にも「朝はお茶漬けに漬け物や塩昆布、時雨煮、なめ物などで終り、関東のように味噌汁はあまり作りません」とある。
 かつて関西では味噌汁は食卓の定番として扱われていないばかりか、それほど重要視されていない汁物だったようだ。朝に味噌汁の香り、というよく語られる郷愁は関東ローカルな感慨だったのだ。
 やはり京都の、少し昔の家庭料理研究家、大村しげの文章にふれると、お茶漬け愛を幾度も書き連ねているのがわかる。雑誌『暮しの手帖』で1980年代に連載されていたエッセイをまとめた『京暮し』では、意外なところで味噌汁が登場していた。
 りんごとグリーンピースの白和えのレシピを紹介する回で、白和えが余ったらパンにはさむとおいしい、とある。そして「パセリを刻みこんだりすると、パンにはよう合うし、おみのおし(みそ汁)があったら、よけいけっこうである」と続く。
 パンと味噌汁は「出合いとみえる」=相性がいいもの同士であるとも書いてあり、大いに共感する。
 田辺聖子がいう「おみそのおつゆ」とはまた別の味噌汁の呼び名「おみのおし」は他ではあまり聞いたことがない。『上方食談』には、関西の女の人はかつて味噌汁を「おむしのおつい」と呼んでいたともある。北関東の出身の私はといえば、「味噌汁」はいつも「味噌汁」で、「おみおつけ」と呼んだことはない。夫・サキさんの口からその言葉が出た記憶もない。念のためサキさんに、おみおつけって言葉、子供の頃に使ってた? と訊ねてみると、否、とのこと、加えて、関東の言葉でしょ、との一言が返ってきた。サキさんは広島の出身だ。
 関東といっても狭義の、東京を中心とした地域の、少し昔の言葉ということなのかしらん。


 朝ごはんにはどんなもの食べてる?
 知人にそう訊かれて、トーストと味噌汁、と答えたら、えー、変な組み合わせ、と、顔をしかめられたことがあった。十数年前の思い出。
 当時は、晩はあまり味噌汁をつくらず、朝に飲んでいた。けれどそう言われて以来、気後れがして、朝の味噌汁は引っ込めがちになり、いつしかその習慣は立ち消えていた。
 けれど、4、5年前から、朝にたまに味噌汁を飲むようになっている。昨晩の残りである場合も少なくないけれど、その場合はなにかしら青菜を刻み込む。それが、朝のしるし。煮返した味噌汁の味、私はきらいではない。たとえるならば、がさがさになった古タオルは、おろしたてのふんわりした肌触りとはまた別種の心地よさをくれる、そういう感触に似ている。
 朝の味噌汁はなんとなく復活したわけではなく、きっかけはあって、それは朝食づくりをサキさんが担当するときにほぼ必ずや青菜を茹でたのを出すようになったことだった。自分がつくる朝はそれとはちょっと違うものにしようと思ってのこと。
 担当、と書くとよっぽどきっちりした決めごとのようだけれど、単純に先に寝床から抜け出したほうが支度をするだけの話である。
 ちなみに、茹で青菜でも、味噌汁でも、その傍らにあるのはトーストであるのは相変わらずで、たいていは5枚切りのを各々1枚。
 正直言って、『京暮し』を再読するまでは、ずうっと前の朝には味噌汁を飲む習慣があったことも、それをやめていたことも忘れてしまっていた。食べものについて誰かが書いた文章は、たとえ日記を付けていなくとも、過去の食卓の記憶を引っ張り出してきてくれるのだ。長いことご無沙汰しているあの知人は、今もまだ保守的な食の線引きをしているのだろうか、ちょっと気がかり。
 大村しげの『京暮し』に戻ると、パンは、その回にしか登場しないし、「おみのおし」もほとんど出てこない。昔から長いこと親しんではいないもの同士の「出合い」を大村しげは新鮮なものとして受け取ったのだろうか、そう想像する。とまれ、うちの朝食に太鼓判を押してもらったことには感謝したい。


 汁物研究のために、マルコメの「料亭の味」シリーズのプレーンな味噌に手を伸ばそうとしつつも、しばらくためらっていた。長いこと、小さな味噌屋で小さな単位でつくられている味噌ばかり好んで使っていたから、大手メーカーの味噌には懐疑心をもっていた。「料亭の味」といえばあらかじめ出汁入り、あるいはインスタントのイメージが知らず知らずのうちにぐっと深く刻み込まれている。わざわざ、うちで、こだわりのなさげな食堂のような味噌汁の味を再現しようという気にはなれなくて。
 結局、おっかなびっくり味見してみた感想は「普通」。
 出汁はいりこでもかつおでも、具もなんでも、スタンダードな味噌汁としてまとめあげてくれる、使い勝手のいい味噌、という印象だった。
 原材料を見てみると「米・大豆・食塩」だけで、小さな味噌屋で小さな単位でつくられている味噌と同じなのだから、普通に仕上がるのは当然といえば当然ではある。マルコメという会社のはじまりは、1854(安政元)年に、普通の味噌と醤油の醸造をするところからなのだし。
 そうはいっても、出汁入りの「料亭の味」が発売された3年後の1985年に、当時の社長は、自社の全ての味噌を出汁入りにする「ハレー作戦」を計画し、工場を改装したのだそうだと知ると、出汁入りのイメージがこちらに強く焼き付いているのは無理がないことだとも思わせられる。ちなみに作戦名「ハレー」の由来は、ハレー彗星。
 この味噌を「普通」と感じない人も、もちろんいるはずである。「料亭の味」は、関東で多く流通している信州味噌だから、関東での生活が長い私だから、すんなりと受け止めやすい味として感じられるのだと思われる。
 とはいえ、実際、国内で流通している味噌の4分の1がマルコメの商品で、さらにいえば、長野にある3社だけでもおよそ半分を占めるというから、多くの人にとっての「普通」の味にはなっているとはいえる。
 なぜに信州味噌が東京を中心にこれほどまでに浸透しているのかについては、単純に、信州は東京に近いから、と解釈していたけれど、食の年表などを見てみると、関東大震災後、味噌づくりを中断せざるを得なかったとき、新潟や長野から味噌が入ってきたことが大きいということが分かる。
 メイド・イン・東京の味というものはもともと少なかったわけではなくて、このとき、そして第二次世界大戦によってさらに失われることになったのだった。


 東京23区内に味噌の醸造所は数軒現存している。
 醸造話のついでにいうと、23区内に醤油はない。都内でつくられている醤油は、あきる野「近藤醸造」の「キッコーゴ」のみ。
 先程、大阪味噌汁話の中でお名前が出た熊倉功夫は、NHKラジオ「和食という文化」の語り手でもあった。「和食という文化」のテキストはその直球のタイトルを裏切らず、日本でつくられ食べられてきた料理について、ステレオタイプをなぞったり精神論に寄りかかったりせず、丁寧に歴史の振り返りと分析がなされている。
 味噌汁の根幹を成す、味噌についても詳しくある。
 「和の味わいを代表する調味料は味噌と醤油です。だしとよく似ているのは、材料を作るのに異常なほどの労力と時間を費すのに、使う時は一瞬、という点です」
 味噌の、醤油との違いは、少しの量を各々の家で仕込むことができたことだという。それが早く長く愛用された理由だとも。
 「明治時代でも味噌生産の全体のうち統計にあらわれぬ自家生産が約半分とされています。そのため全国に流通する名物の味噌はごく少なく、江戸の仙台味噌や中京の三州味噌も地方の味噌にとどまりました」
 「江戸の仙台味噌」ってなんだろう。
 東京のスーパーマーケットの味噌売り場にはたいてい仙台味噌が並んではいるけれど、パッケージに記された住所を確かめてみるともちろん宮城県、とあるし。
 この疑問は、東京都味噌工業協同組合のウェブサイトを覗いてみることで氷解した。品川区唯一の味噌醸造所にて「江戸の仙台味噌」は今もつくられているのだった。
 「江戸の仙台味噌」のはじまりは、仙台藩下屋敷での、江戸在勤の藩士3000人の生活を賄うための味噌づくりからだそうで、江戸の味噌問屋がそれを買い付けて「仙台味噌」として一般に販売もされていたという。往時は、仙台味噌屋敷、と呼ばれており、今は「仙台味噌醸造所」として同じ場所で同じ仕事が続けられているのだった。
 「仙台味噌醸造所」は大井町駅と青物横丁駅のあいだにある。そこまで味噌を求めに行ったのは昨秋のこと。私にとってはそれほど土地勘のある界隈ではないので、地図で場所を確かめ確かめ、駅から歩いて向かっていって、ちらっと見えた建物の姿に、あれにちがいない、と、確信を得る。舗装された道路と駐車場とマンションという、400年前には影も形もなかった存在に囲まれた、木造の横長の建物。入ってすぐのところに、味噌が入った桶が幾つも並んでいる。量り売りのスタイルで、直に手に取ることができる包装済みの品物はひとつもない。ここでこしらえられている味噌数種の他にも、佐渡、新潟などの味噌も用意されていて、ごく小規模な味噌のセレクトショップともいえる。同じく23区内の、中野の「あぶまた味噌」の「江戸甘味噌」もあった。
 「五風十雨ごふうじゅうう」と名付けられた、熟成期間を長くとった味噌を買って帰った。漆器みたいな濃い茶色の見た目もそうだけれど、舐めてみるとしばらく寝かされた味噌らしいこくがあって、でも重たすぎず、酸味もなかった。おいしかった。
 ひとまずそれで納得していたけれど、今夏、埼玉は川口の名建築「旧田中家住宅」を通りすがりに見学した際に、川口でもかつて「仙台味噌」がこしらえられ、東京に運ばれ売られていたと知る。
 味噌探偵として調べあげようと『東北地域産業史』という本をめくってみると、明治時代の半ばに、動きがあった。
 「一八九〇(明治二三)年ごろからその製法が東京府内の味噌醸造業者に広まり、大半の業者が仙台味噌の醸造を行なうようになったことから、とくに東京において仙台味噌の名が広まったということも特記しておく必要があろう」
 この本によると、昭和初期、全国の味噌生産総額第1位は東京だったという。
 「その大半は大井にあった旧仙台藩下屋敷の味噌醸造技術の系譜を引く仙台味噌であったのであり、本場仙台味噌をはるかに上まわっていたのである。だから、仙台味噌の名が高まったのは人口の多い東京府において東京府産の仙台味噌が用いられていたことによるものということができる」
 東京で人気を博した「仙台味噌」づくりが近郊の川口まで広まっていたことはそう不思議ではない。しかし旧田中家住宅の元の持ち主「田中徳兵衛商店」のサイトをみると、1960(昭和35)年には味噌づくりをやめており「当時、埼玉県には70数軒、川口市内にも8軒のメーカーがあったが現在は1軒も残っていない」とある。
 味噌探偵としてひとついえるのは、冒頭でふれた、林芙美子が東京の味として恋しがった、薄切りの里芋と小松菜の「赤い味噌汁」には仙台味噌が溶いてあったに違いない、ということ。

〈文中に登場する本など〉
『森まゆみと読む林芙美子「放浪記」』集英社文庫 2020年
『上方食談』石毛直道 小学館 2000年
『料理のお手本』辻嘉一 中公文庫 2006年
『京暮し』大村しげ 暮しの手帖社 1987年
『NHKテキスト 和食という文化』熊倉功夫 NHK出版 2020年
『東北地域産業史』岩本由輝 刀水書房 2002年
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