
最終回
ひとりで食べる
[ 更新 ] 2022.12.06
ひとりで食事をすることが忌まわしいことではなく、感染リスクを下げる、好ましいことだと社会が考えるようになったのは、ひとりで食べたい勢からすれば朗報なのだと思う。ひとりでの食事を見られるのが嫌、あるいはさまざまな理由から、トイレで隠れて食事をする人がいる(する時がある)というが、もしかしたらコロナ以後、減ったのではないだろうか。
コンビニ飯も味の幅が広がって侘しさはずいぶん、払拭された。味の向上と侘しさの減少は比例するので、どんどんウマくなってほしいものだ。しかし味と金額もまた比例する傾向があるのが難しいところではある。
外食も、テイクアウトできる店が増えたのはすごく良かったと思う。ひとりなら店で食べるより、テイクアウトして家で食べたい時もある。私はテイクアウトと料理のお持ち帰り(食べ残しを持って帰る)が日本では出来る店が少ないことにずっと不満を持っていた。お持ち帰りは何度か「衛生面で責任がとれないので」と断られた。私は自己責任という言葉が大嫌いだけれど、それこそ自己責任なのでは? と思ったが、その言葉は使わなかった。嫌いなので(そしてテイクアウトは増えたが、お持ち帰りについては分からない。寛容になっていることを望む)。
ウーバーイーツのような新しい出前のスタイルは、すっかり定着したのだなと思うのは、町のあちこちで黒くて四角いリュックを背負い、バイクや自転車を走らせる人を見かけるようになったからだ。
スーパーの品揃えも変化したと思う。非常事態宣言や在宅勤務で、今まで料理を作らなかった人も料理するようになった影響か、冷凍食品やレトルト食品の種類も、〇〇の元、といった調味料もずいぶん増えた。カット野菜はコーナーが大きくなった。
そして最近、近所のスーパーでは梨や柿など、今までは旬になれば袋売りだった果物が、バラ売りされるようになった。ひとり暮らしや少人数の家族にとっては朗報ではあるのだが、理由が物価高だとしたら、あまり喜べないことでもある。
こんな風にあらためて周りを見渡せば、食を巡る状況は劇的に変わっている。そして飲食店に人と一緒に入っても、透明なアクリル板によって、相手との隔たりを意識させられる。微かではあるが、人の呼気が恐怖となり、話したいという気持ちと、話したくないという気持ちがせめぎ合う。それに対し、ひとりで食べることのなんと心穏やかなことか。しかし、だからこれでいいともやはり思えず。日々、心は千々に乱れる。
先日、夕方に外での仕事を終え、帰路についた。すでに空腹を感じていたが、その日もいつものように、家に帰ったらすぐに何か作って食べようと思っていた。しかし、駅に降りたとたん、そうだ、久しぶりにあの店へ行こう、と思いついたのだった。
あの店とは、豚モツ焼きの店である。焼肉店ではなく居酒屋だが、豚モツを自分で焼いて食べられる。そのモツがとても新鮮でおいしく、値段も安いのだ。
ここ数年で、多くの飲食店がひっそりと閉店し、最近では「え! あの店が!」と、驚くような老舗もあっさりと店をたたんでしまう。コロナ禍が始まって早3年。原因はコロナだけでなく、後継者問題など複合的な理由が潜んでいるようだが、やはり残念だ。
だから最近は、好きな店がなくなっていないかどうか、まめに目を光らせ、そして利用するようにしている。店がなくなってからでは遅いのだ。そして、これはコロナ以前からなのだが、お金を使うなら、好きな店(こと)を選んで使いたい、という気持ちが、近年の私の消費の指針となり、それは年々強くなっている。
昔は、そんな風には思っていなかった。私が落とすお金など、数百円、数千円の僅かなもの。はした金では、この世は何も変わらない、そう思っていた。しかし、ふと見ていたテレビ番組で、英国のスーパーマーケットの客がインタビューを受け、「この商品はほかのブランドより少し高いけれど、私はこの商品のサポーターだと思って買っている」と言っているのを見た。
なんということのない言葉だったが、私には響くものがあり、それからは多少高くても、サポートする気持ちがあるなら買おうとなり、一方でサポートしたいと思わないものは、安価だからといって、むやみに買わなくなった。結果、どうなったかというと、(以前からその傾向はあったが)大手のものを買わなくなり、なるべく小さなところ、身近なところのものを買うようになった。では生活費が上がったかというと特にそんなこともない。選ぶことで買うものが減ったのだろう。
選ぶなんてできない、最低限のものしか買う余裕がない、という声も身近に聞くので、選べるのは恵まれている、そう思われる人もいるかも知れない。けれど、たとえば同じ100円の大根を、スーパーで買うのか、近所の農家から買うのか、というくらいの選択なのだ。しかし農家の方がちょっと遠いから、そこへ行く時間は捻出しないといけない。だからお金も必要だが時間も必要で、時間は金銭同様、なかなか得難いものだと思う。
商品や店のサポーターになる、というのは 推し活と同じ原理かなとも思う。ソースや味噌にも推しがある。推し活は、それが生活の一部を担うようになるから面白く、またなかなか抜け出せない(沼と呼ばれる所以であろう)。そして肝心なのは、自分が動かなければ、推し活は一歩も進まない、というところだ。
と、話がそれてしまったが、この豚モツ焼きの店にはもう何年も行っていなかった。この店は居酒屋で、私は下戸だからだ。ここへ行くのは酒を飲む人と一緒の時に限られており、コロナ以後、人と飲み屋へ行く機会は皆無となっていた。
下戸にとって、ひとりで居酒屋に入るのはなかなか勇気のいることだ。しかし日本で、おいしいものをいろいろ食べたいと思ったら、本当は居酒屋がいい。だから仕事などで地方へ行ったら、「お酒を飲まないのですが」とことわって入ることもある。断られたことはないけれど、やはり肩身は狭い。
しかし今なら。ひとりが市民権を得ている今なら。居酒屋でも気兼ねなく飲み食いできるのでは?
その店は駅から少し離れた裏路地にある。この辺りにはしばらく来ていなかったので、大通りから路地へ入り、以前と変わらぬ店構えが見えた時はちょっとホッとした。
中に入ると、手前にカウンター、奥がテーブル席という配置も以前のまま。カウンターにも小さなロースターが備えつけられ、壁には手書きのメニューがお札のように張り巡らされている。営業が始まってすぐの時間帯だったが、カウンターには一人、先客がいて、その隣に案内された。
ホルモン、カシラなどの焼きものとキャベツを頼んだ。若い店員に飲み物は、と聞かれ「コーラ」と答えると、彼女は特に気にする風でもなく、すぐにコーラを持って来てくれる。続いて、数種類のモツをのせた皿と、山のようなキャベツが運ばれてきた。薄い醤油味のタレがもみこまれている桃色をしたモツは新鮮そのものだ。
ロースターでモツを焼いて食べながら、合間に唐辛子味噌をつけたキャベツを口に運び、コーラを飲む。豚のモツは牛に比べるとあっさりしていて、おいしい。
隣の人は70代くらいの痩せた男性で、備え付けのテレビを見ながらモツを焼き、日本酒を飲んでいた。半分くらい食べたところで、もうひとり男性が入って来て、私の左側の席に座った。営業職かなと思わせる背広を着た30代くらいの人だ。ホルモンとビールを注文した。夕方の早い時間は、人が集って飲みに来るにはまだ早く、ひとり客が多い時間帯らしい。客は3人しかいないが、お店の人は4人。全員マスクをしながらテキパキと仕事をしている。きっとこれから忙しくなるのだろう。
以前、この店で炒めた玉葱入りの納豆オムレツを食べおいしかったので、真似して時々、作るようになった。「自分で考えたんですよ」と中国人のご主人は言っていたが、今日は彼の姿はない。今、店にいる若い人たちも全員、外国人のようだ。
食べ終わり、さて帰ろうかなと思ったところで、何気なく私が左の方を向くと、隣の人が顔をこちらに向けたので、瞬間的に顔を戻した。本当のところは分からないが、私がそのまま左を向いていたら、話しかけられたのではないかと思った。
でもその時の、彼が顔を向けたスピードの速さに一瞬、なんともいえない恐怖を感じ、私は慌てて顔を戻した。私はその時、すでにマスクをしていた。目だけだと年齢が分かりにくいので、もしかしたら若い女性と思ったのだろうか、とふと思った。
私のように酒が飲めないと、お酒さえ飲めれば居酒屋でもどこでも、ひとりで自由に入れるのに、とつい単純に思ってしまうが、女性がひとりで居酒屋へ入ること自体にも、いろいろな問題を含んでいそうである。人がひとりでいる時、知らない人と話をしたい時もあるが、ひとりでいたい時もある。ひとりイコール寂しい、という考え方しか持っていないと、ひとり→寂しい→話しかけた方がいい、の一択になってしまう。人はそんなに単純なものではないと、分かってほしい。ひとりが寂しくない時もあるし、寂しくなりたい時もある、あるいは寂しさが必要な時もある、ということを分かってほしい。
世の中は、それまで予想もしなかった方向へずんずんと変わっていき、今なお、変わり続けている。未来はまさに神のみぞ知る、だ。しかし、コロナ以後、ひとりで食べることの気楽さ、楽しさを知った人もいると思う。それはとても喜ばしいことだし、私もそのひとりなのだ。さらに、この連載のために初めてひとりで温泉へ行ったり、取材を通して見聞きしたことで、ひとりで食べることがより楽しくなった。
ひとりで食べること。それは流れるように過ぎてしまう日々の中の、ささやかな営みのひとつだが、そこにはいつも、自分で決めたという自負を持っていたい。そうすれば、そこからまた、新しい何かが生まれてくるような気がするのだ。
※「ひとりで食べたい」は今回で連載終了です。書き下ろしもふくむ単行本は来年発売予定です。どうぞお楽しみにお待ちください。