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第15回

作らない人

[ 更新 ] 2022.11.16
 私は料理をするのが好きな性分である。今の家の周辺には飲食店はおろか、一番近いコンビニでさえ400mほど離れているという立地条件ゆえ、食事は基本、自分で作っている。しかし、「こんなに毎回、作らなくてもいいのでは?」と我ながら思うこともある。意識的に外食してみたり、外で買ったものを家で食べたりもするのだが、ぼんやりしているとまた、完全自炊生活に戻ってしまう。
 疲れているなと思っても、つい自分で作ってしまうのは、冷蔵庫には常に何かしら入っているため、いつでも何か作れるということ。そして、人が作ったものに対しては「おいしい」「まずい」という批評の視点がはたらくので、まずいとがっかりして、損をしたような気持ちになる。が、自分で作ったものには、そういう客観的な視線がこれっぽっちも入り込まないからだ。旨かろうがマズかろうが、それは自分の責任というか、自分で作った料理というのは自分の一部みたいなものなのだ。もちろん、人に出す時はその限りではなくて、「今日はちょっとしょっぱかったかも」とか「塩が足りないようなら自分で足してね」などと、いきなり客観性が出てしまう。ひとりで食べる時も同じように「醤油入れすぎたな」とか「味、薄っ」などと心の中では思うわけだが、それが批判や反省にはならず、自分に矛先が向かってくることは決してない。料理の味は一期一会。ノー批判、ノー反省。お腹に入れてしまえば、跡形もなくなる。そのように自炊とは、かくも穏やかで平和なものなのである。
 ということは逆に言えば、私は人の作る料理にはかなり厳しいのかも知れない。好き嫌いなく、なんでも食べるが、マズいと思うと急に不機嫌になったりする。世間では「料理好き」は、好ましいことと思われているが、私は良いとか悪いものではないと思っている。朝起きて間髪入れずにシュトレンを作り始めたり、マグロの頭を丸ごと買って、ナイフでちまちまと肉をえぐり出したり、私は自分の料理好きには何か逸脱したものを感じているし。だから料理を一切しない人がいても、それはその人の自由であって、特に批判などをする気は起こらない。
 ということで今回は私と真逆の、料理をまったく作らない人に話を聞いてみようと思う。私の八卦掌(万年ビギナーです)の師兄(兄弟子。武術をやっている人や、武侠小説や武侠映画が好きな人は大抵好きな言葉)であり、会社勤めをしながら、大学で中国哲学などを教えている野村英登さんにお話をうかがうことにした。
 毎食、ほぼ外食の人というと、食べることに興味がないのかな? と私などは思ってしまうが、野村さんは食べることは大好きで、よく、おいしい中華料理に誘ってくださる。しかし家ではまったく自炊しないという。「昔は、お米くらいは炊いていたんですけどね」と野村さん。大学に進学し、東京でひとり暮らしを始めた当初は、家でご飯を炊き、おかずも作っていたそうだ。「おかずといっても肉と野菜を炒めるだけとか、簡単なものです。そのうちに、カット野菜の存在を知り、これなら野菜を切らなくていいじゃないかと。次にスーパーでお惣菜を買う方が作るよりも安く済む、という感じでだんだん、料理をしなくなっていったんですね」。
 そして、外食生活に拍車をかけたのは、大学へ入って酒を飲むようになったから。週の半分以上を飲み歩くようになると、家にある食材を腐らせるなど、効率が悪くなり、どんどん自炊しなくなった。まったく自炊しなくなったのは、女の子とデートするようになってから、というのは、ちょっと意外だ。「デートでも基本、飲みますから。そうすると夜飲んで、朝食を食べなくなり、まったく自炊しなくなりました」。彼女と家で一緒に料理を作って飲む、ということはなかったんですか? 「なかったですねえ。当時の彼女は料理もしましたが、二人とも、外で食べたり飲んだりするのが好きだったので、いつも外で飲み食いしてましたね」。
 ちょっと不思議だなと思ったのは、つきあっている相手が料理をする人でも、「彼女作る人、僕食べる人」という風な関係にはならず、「僕も彼女も食べる人」であるところだ。ご本人はそのことを意識したことはないようで、「なぜか、作ってもらおうとは思わなかったですし、一緒に作ろうという方向にもいきませんでしたねえ」と、あっさりしたものだ。
 当然のことであるが、外食よりも家で飲み食いした方が安上がりだ。野村さんがそうしなかったのは、大学生時代に好きだったのが日本酒だからかも知れない、と言う。当時、よく行ったのも地酒が置いてある居酒屋だった。「今は日本酒も四合瓶でいろんな銘柄が出ていますけど、当時は一升瓶だけ。僕はいろんなお酒を少しずつ飲みたいので、家飲みには限界があった。一升瓶を買ったら、飲み終わるまでに時間がかかるし、栓を開けたら味もどんどん変わってしまう。割高にはなりますが、外で飲む方が良かったんですよ」。
 料理も、いろいろな味を少しずつ食べたい。だから食事を楽しもうと思ったら、ある程度の人数が必要だと言う。この考え方は、野村さんが好きな中国料理の考え方にも当てはまる。
 以前、ある台湾人の女性に「友だちと中国料理のランチへ行く時には、それぞれが違う定食を頼んで、おかずをみんなでシェアすると、いろんな料理が味わえていいわよ」とアドバイスされたことがあった。定食をシェアするという発想がなかったので、面白いなあと思ったことがある。
 私が野村さんにお誘いを受けるのも中国料理が多い。ご本人は、凝っているクラフトビールを彼女と飲み歩いたり、友人たちとそれぞれが好きな焼肉店を食べ歩いたりと、中国料理に限らず、日常的に外食を楽しんでいる。遊ぶ感覚で飲み食いするのが好きなのだと言う。
 緊急事態宣言で、飲食店が休業していた時はどうしていたんですか? と尋ねると、「仕事がテレワークになったので、近所でテイクアウトできる店を調べていろいろ試したり、カップラーメンの食べ比べをやってみたり。外食できないことがストレスになるほどでなかったですよ」と言う。生活は少しずつ戻っており、今、はまっているのが職場のある六本木でのランチの食べ歩きだ。値段の上限を決めていろいろな店を試すのが楽しい、と言う。
 野村さんは外食が好きというだけでなく、食べることにちょっとした遊び心というか、エンタメの要素を取り入れるのが得意なのだなあ、と話を聞いていて思った。外でみんなと一緒に飲み食いするのが大好きでも、それが叶わなくなった時には別の楽しみを見つけることができる。その辺りはさすが、リアル「孤独のグルメ」というか、だてにほぼ100%外食の人ではない。
 そして彼は、決して自炊しないと決めているわけではなく、使わなくなっても炊飯器は持っていたし、ガスのない部屋にはずっと躊躇していたのだそうだ。しかし去年の12月、部屋の水周りは洗面所だけという、ソーシャル・アパートメントに引っ越した。
 ソーシャル・アパートメントというのはキッチンや浴室、トイレやランドリーが共有のアパート(共有部分の構成は各アパート、各部屋によって違うらしい)のことで、彼が住んでいる施設にはオフィス・スペースがあり、また一階のカフェのミールクーポンがついてくるそうだ。「住人は外国人が多く、たまにキッチンを覗くと、若者がわいわいと料理を作っていますよ。設備も整っていますし、料理してみたいなとは思うのですが、まだ果たせていません」。ソーシャル・アパートメントというのは、掃除のサービスがないホテルのような感じだろうか。料理用ボウルだけで10個近く持っている私には決して暮らすことの出来ない世界である。
 食べることは大好きだが作らない人、野村さんの外食生活は、とても現代的に感じられる一方で、どこか仙人のような飄々とした雰囲気も感じられるのだった。なんというか、いろいろなことに対して、過度に執着せず、軽やかだ。私のように自分の口に合わないからといって、いきなり不機嫌になったりするのは、なんだか煩悩まみれのようでお恥ずかしい。「おいしく食べる」と「楽しく食べる」は似ているが違う。今まで、「おいしく」には心を砕いてきたが「楽しく」はあまり気にしてこなかった。楽しく食べることを意識すれば、煩悩を追い払い、もっと身軽になれるだろうか。
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