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第10回

みんなの立ち食いそば

[ 更新 ] 2022.08.26
 この連載の担当編集者である岸本さんと、立ち食いそばについて話をしていた時のこと。彼は、自分がよく行く店です、と椎名町にある南天の名を挙げた。
「そこ、屋根がないんですよ。だから雨の時はちょっと食べづらいんですが……」
「え? 屋根がないとは? 露天ですか?」
 あ、そうではなくて、と言いながら、素早く携帯で画像検索し、店の写真を見せてくれた。
 なるほど。店舗は間口の狭い小さな店で、屋根があるのはカウンターの部分だけだ。3人も並べば満席になってしまいそう。店の狭さを補うように、店の前には両脇に細長い台とベンチが置いてある。
 この連載を始める時、取り上げたいもののひとつが立ち食いそばだった。私は外出時によく立ち食いそばを食べるからだ。しかし、周りの人たちに聞いてみると、利用したことがない、という人が私の予想よりもずっと多かった。どう注文して良いか分からない、もたもたしていると迷惑になりそうで気おくれしてしまう、また、うどんが好きだから立ち食いそばには行かない、と言う人もいた。
 いやいやいやいや。立ち食いそばにはもちろん、うどんもあります。そばかうどんか選べますよ! 立って食べるのが嫌、という意見もあったが、今はチェーン店を始め、多くの店舗には椅子がある。こういう人たちは、外食の選択肢に、はなから立ち食いそばはないのだろう、と思った(別に悪いことではない)。
 私は基本、メニューを選ぶ時には思いっきり悩むタイプで、店員さんが来て「何になさいますか?」と声をかけられるギリギリまで考えているが(最後の数秒で、決めたものが覆ることもしばしばだ)、立ち食いそばでは悩まない。食べるのは春から秋にかけては冷やしたぬき、冬は天ぷらそばと決めているからだ。また、特に好きな店というのもなくて、外でお腹が減った時、近くにある店に入る、という感じだ。利用の仕方としてはファストフードに近いだろう。どこでもだいたい同じ味だと思っているから、メニューも店も選ばない。
 岸本さんが南天でよく食べるのは肉そばで、それが名物だと言う。肉そば! 私の立ち食いそばにはないカテゴリーである。それはぜひ食べてみたいと早速、椎名町へと足を運んだ。
 南天は椎名町駅北口を出てすぐのところにあった。店には販売機も椅子もない。カウンターに立つと、中にいるお店の人との距離は数十センチしかない。これは「立ち食いそば食べない勢」が最も苦手とするタイプのお店だろう。初めてなので私も緊張した。でも、肉そばを食べようと決めていたので、悩む必要はなかった。
 店員さんに注文を伝え、待つこと、僅か数十秒。あっという間にそばが出てきた。おおー、薄切りの豚肉と葱がどっさり載っている。嬉しい。カウンターには好きにかけていい揚げ玉もある。嬉しい。
 薄切りの豚肉は脂身が少なく、さっぱりしているけれどパサついてはいない。そしてつゆは飲み干してしまえるくらいの薄味。そばにも特徴がある。ほんの少しだけ平たくて滑らか。なるほど、これはおいしい。
 初めてなので肩のあたりを緊張させながら、カウンターの隅でそばを啜っていると、次から次へとお客さんが来る。常連さんだろうか、店の人が「元気でした?」と挨拶している。親子連れも来る。前のベンチに座って、お父さんと小さな男の子が食べ始める。年配の女性も来る。葱、多めでお願いね、とお店の人に声をかけている。肉そばのほかにも天ぷらそば、なめこそばといったメニューもあるが、ほかの人たちもみな肉そばを食べている。
 店の前は、広場というほど広くはないが、歩道にしてはかなりの幅がある。その先は植え込みで、沿うように長いベンチが設けられている。店はゆるやかに周りの空間と繋がっていて、植え込みのベンチで座って食べても違和感がない感じがした。せわしなさは立ち食いそばの宿命だし、店は小さいが、ここにはなんだか不思議な解放感があった。小さな音で流れているレゲエもこの空間にとても合っている。
 普段、チェーン店でばかり食べていたので、南天は私にとって新鮮だった。なによりクセになるおいしさがある。あの味、そしてあの場はどうやって作られているのかが気になって、店主の湯浅清さんにお話をうかがった。
 南天のオープンは1998年。長らく飲食業で働いていた湯浅さんは、最初から立ち食いそばの店をやろうと思っていたわけではなかったという。当初、元同僚と2人で自分たちの店を、と場所探しをしていた時に現在の場所と出会い、この狭さでも出来る店は何かと考えて、立ち食いそばをはじめようと思い立ったのだそうだ。
 馴染みのそば屋の肉そばがおいしかったのをヒントに試作を重ね、独自のレシピを開発した。さらに、誰にでもおいしく作れるようにと、オリジナルの濃縮だしを業者に作ってもらった。ほんのり甘いつゆの秘訣は大量の玉葱だ。玉葱を煮たスープと濃縮だしで、南天独特のつゆは作られている。
 ちょっと平たいそばも細めのうどんも、肉と絡みやすいようにと、製麺所で特注したもの。「イメージは給食のソフト麺。みんな知っていて、たまに食べたくなる、あの味。製麺所もそんな注文を受けた事がないから、最初は戸惑っていましたよ」と湯浅さんは笑う。
 湯浅さんは「南天の肉そばをこの町のソウルフードにしたいと思ってやってきた」と言う。それは子どもからお年寄りまで食べに来てくれる味。玉葱入りの甘めのだしと豚肉の組み合わせはどこか、肉じゃがのような「お母さんの味」に通じるという。
 肉は近くの肉屋さんで肩肉、ばら肉、コマなどをバランス良くミックスしてもらっている。業者はどこも、創業当初からのつきあいだ。「大手はいろんな店を比較して、見積もり取って競争させるでしょ。あれ、自分の店ではやりたくないと思った。うちはみんな、長いつきあいだから親身になってくれる。食べにも来てくれるし、いろんな提案もしてくれる」。
 営業時間は長い。朝の5時30分から深夜1時30分まで。目の前を走る西武池袋線の始発と終電時間に合わせているからだ。現在、終電が30分ほど早くなったので、繰り上げるかも知れない、と湯浅さん。長時間営業でも5、6人のスタッフでシフトを組み、1日8時間、週休2日を維持できている。
 そして5時30分から10時までは卵(生卵か温泉卵かを選べる)が無料でつく。盛りの良さや、こうしたサービスはあっという間に他店で真似されるね、と湯浅さんはちょっと悔しそうだ。
 立ち食いそばはこちらが期待していない分、店のちょっとしたサービスや店員とのやりとりが余計に嬉しいものだ。毎日通ってくれるような、コアな常連さんが多いというのもよく分かる。常連は近所の人や勤め先が椎名町という人ばかりではない。「通勤途中にわざわざ下車して食べに来てくれる常連さんも多いよ。池袋からひと駅だからタクシーを飛ばして来てくれる人もいる。うちは女性のひとり客も多い。子ども連れのお母さんも来るし」。
 南天では店先の掃除を日課としているが、ここは椎名町駅の敷地で、駅員さんはもちろん顔なじみだ。大晦日には南天で年越しそばを食べようと、多い時には40人ものお客さんがここでそばを啜る。鍋を持って買いに来る人もいるという。南天の肉そばはすっかり、椎名町のソウルフードになった。
 しかし湯浅さんは、このところの原材料の高騰は悩みの種だと顔を曇らせる。現在、肉そばは450円。すでに原価は5割を超えてしまいそうだ。「飲食業を志す若者が夢を見られない時代になった。悲しいね」。
 一杯の立ち食いそばにも、これだけ店主の想いと工夫があるのだ。たかが立ち食いそば、されど立ち食いそば、である。
 そして、いつも流れているレゲエについて。「あれは有線放送。童謡とか演歌とか、いろいろ流してみて、一番リラックスした気分になれるっていうことでレゲエに落ち着いた。テンポが早い曲は楽しいし仕事も進むけど、疲れちゃうから」。店主が熱心なレゲエファンかと思っていたので、ちょっと意外な答えだった。
 町とは、町の空気とは、本来はこうして、そこに携わる人々がみんなで作りあげているものなのだとあらためて感じた。南天は店こそ小さいが、人、そして町とゆるやかに繋がっている。ここに住む人たちは、改札を出て、いつでも明かりが灯っている南天が視界に入った時、なにかほっとするのではないだろうか。そんな店が自分の町にもあるだろうかと、ふと考えてしまった。
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