ウェブ平凡 web heibon




第8回

英国ひとり旅

[ 更新 ] 2022.07.26
 英国は私にとって初めての、ひとりで旅した記念すべき場所だ。いわゆる、推しの追っかけ観劇旅行。わたくし50歳の時である。遅い……。
 仕事柄、知らない土地にひとりで行くことは、それまでも特に珍しくなかったのだ。しかし仕事なら渡航先には取材相手がいる。プライベートでも、友人を訪ねる旅だったり、現地で誰かを紹介してもらうなどして、行きも帰りも滞在中もずっとひとり、という旅をしたことがなかった。
 その界隈の事情に詳しい人はよくご存じだと思うが、「推しの観劇旅行」というのは、演劇のファン、あるいは映画やドラマのファンの間ではお馴染みのものである。好きな俳優の舞台が見たくて、旅する人のなんと多いことか。
 旅の仕方は人それぞれだ。仕事の合間をぬっての弾丸旅行もあれば、数週間、あるいは数か月も旅に出てしまう人もいる。ひとりで行く人も友だちや夫婦で行く人もいる。観劇の旅は学生から社会人まで幅広く行われており、その様子はツイッターやブログ、同人誌などで詳しく報告される。
 推しに夢中にならなければ、ひとりで旅することなど考えたこともなかったのでは、という感じの人も多い。ひとり旅というちょっとした試練を乗り越え、推しの舞台を見たり、推しにまつわる場所を巡ったりする喜びに満ちた報告は、他人事ながら読んでいて楽しい。ファンダムの世界では誰もが表現者だ。喜びも悲しみも失敗も怒りもすべて、「題材(ネタ)」として書くことができる。SNSならそれこそ、実況中継さながらに書きこめる。仲間たち、あるいはフォロワーや読者はそれらを読んで共感し、笑い、私もやってみよう、と勇気づけられるのだ。
 おりしも、まったくのひとり旅というのをしてみたい……と思っていた矢先の2015年9月。推しの観劇という目的で、初めてひとり旅に出ようと決めたのである。
 
 私は、都市というのは国が違えどもどこも似たようなところがあると思っている。だから今回は劇場のあるロンドンだけではなく、コーンウォール(南西部)にも行こうと決めた。民藝運動の陶芸家、バーナード・リーチの工房(現在は保存、公開されている)へ行ってみたかったのだ。工房があるのはセント・アイヴスという南西部の小さな町。ロンドンから南西部のペンザンスまでは寝台列車がある。私はそれに乗り、ペンザンスに滞在してセント・アイヴスへ行く、という計画を立てた。
 今はエアチケットだけでなく、海外の列車もインターネットで事前に予約ができるから便利な時代だと思う。寝台車が発車するのは深夜近く。その前にロンドンで一泊するのも面倒なので、ヒースロー空港に着いた日のペンザンス行きのチケットを予約した。
 実は前回の英国旅の時、台風で大幅な遅延による飛行機の変更があったので、あまり遅い時間にロンドンに着く便はなんとなく不安で、昼過ぎにヒースロー着のチケットを取った。私が買うのは大抵、変更のできない最低価格のものだ。初めての海外ひとり旅、ということで、いつもよりも早めに、そして慎重に計画を立てたつもりだったが、旅の始まりから早々に、自らトラブルを引き起こすことになってしまうとは……。
 
 出発する空港を間違えたのだ。
 私の家から成田空港と羽田空港へは、どちらも乗り換えは2回。時間的にもそれほど差はない。しかし感覚的になんとなく「成田は遠い……」と思っている。この時、帰国便は成田一択だったが、行きは成田と羽田で選べたのだ。そして羽田発を選んだのをすっかり忘れていたのである。
 成田空港に着き、エアラインのカウンターに行くとスタッフが誰もいない。掲示板を見ても私が乗るはずの便名も時間の表示もない。不思議に思い、近くにいた違うエアラインのスタッフに尋ねると、空港を間違えていることが分かったのである。
 絶体絶命の大ピンチだ。今から羽田へ向かっても間に合わない。カウンターに人がいないので、相談することもできない。私が尋ねたスタッフは、あと数十分でカウンターが開くので、それまで待つのが良いと言う。羽田に何度も電話したがまったく繋がらない。待つしかない。
 この数十分、本当に生きた心地がしなかった。いくつもの「もし」が脳内を駆け巡る。もし、エアチケットが無効になった場合、正規でチケットを買い直さなければならないだろう。もし、寝台列車の出発時間に間に合わなければ、そちらも買い直し。その日のロンドンでの宿も確保しなければならないし、ペンザンスの宿泊先にも連絡を入れないといけない。いったい、どれだけの手間とお金がかかるのか……。不安と後悔が走馬灯のように、ぐるぐると頭の中を回りっぱなしだった。膝には力が入らないし、手は震えていたし、顔からは血の気が引き、真っ青だったろう。
 しかし、結果的には3万円の手数料で、次の成田発にチケットを変えることが出来た。こんな時は、どこかの宗教に帰属していなくても、神への感謝を心の中で叫ばずにはいられません。マネージャーの男性が「時々ね、いらっしゃいますよ。空港を間違えるお客様が」と微笑みを浮かべながら、チケット変更の手続きをしてくれた。
 成田発ロンドン行きの飛行機に乗り込み、夕方、無事にヒースロー空港に着いた。そのまま、寝台車が出発するパディントン駅へ向かう。
 寝台車の出発時間まで、まだだいぶ時間があったが、行きのトラブルですっかり疲れていたので、どこかに行く気にもなれなかった。ずっと構内の椅子に座っていた。そして駅のトイレは、入口で料金を入れる有料トイレだったが、着いたばかりで小銭が足りない。掌に小銭をのせて数えていると、中から出てきた若い女の子が私の掌を見て、ほらっと、足りない分の小銭をのせてくれた。ありがとうございます! なんて親切なんだろう! と、映画『パディントン』の主人公、パディントン並みに、異国から来た素朴な東洋系のおばさんであるところの私は大変、感動した。
 この時、私は自分が思っている以上に疲れていたのだと思う。夜中近く、無事に寝台車の個室に入った私は、構内で買ったソーセージロールを食べながら、眠ってしまったらしい。早朝、目を醒ますと、片手にソーセージロールを握り、そしてズボンを半分おろしたままだった。
 
 後日、この話を旅の多い友人に話すと「でもその後は問題なかったでしょ。最初にトラブルがあると、後は大丈夫なものなのよ」と、彼女の経験から導き出されたらしい、謎のジンクスを語っていたが、確かにその後はとても順調だった。
 ペンザンスの町は坂の多い港町だった。宿は町外れのB&B(家庭の部屋貸し。朝食がつく)。部屋は小さいけれど静かで快適だった。5日間の滞在中、リーチの工房以外は特に予定を決めていなかったので、バスのフリーパスを買い、気の向くまま、あちこちを歩いて回った。私はバスが好きなので、プライベートの旅ではどこでもバスに乗りたい。
 マラザイオン(Marazion)という町にあるセント・マイケルズ・マウント(St. Michael's Mount)は、フランスの有名な修道院、モン・サン・ミシェルとそっくり(どちらも引き潮の時だけ歩いて渡れる)なことで知られる。吉田健一の作品に、この二つを魔法で取り替える「山運び」という不思議な短編があり、ここへも行くことにした。
 引き潮の時間は調べてあったので、海底に作られた石畳をぽくぽく歩いて島まで渡った。しかし、あいにく休館日(?)で島の中へ入ることが出来なかった。私は詰めが甘いというか、いい加減というか、こういうことはよくあるので、友だちが一緒だったらお気の毒なことをした、と思いつつ、陸に戻ると、コーニッシュ・パスティを買って海辺に座り、セント・マイケルズ・マウントを見ながら食べた。
 コーニッシュ・パスティというのはコーンウォール名物で、煮こんだ牛肉と野菜を厚い小麦粉の生地で包んで焼いた、半月型のパイである。この地方はかつて、錫や銅を採掘する鉱業が大きな産業であり、鉱夫たちが汚れた手で食べやすいよう、ねじって閉じたパイの耳の部分を厚くしているそうだ(耳は食べずに捨てていた)。コーニッシュ・パスティを買った店はPhilpsという有名店で、牛肉や玉葱のほか、ターニップ(黄色い蕪)も入っており、とてもおいしかった。
 B&Bは朝食が出るので、朝は宿で、昼はこんな風に行った先々で適当に食べ、夜、お腹があまり空いていない時は、ポテトチップスと果物(この時、初めてフラットピーチを食べ、あまりのおいしさに感動して、ロンドンへ移動してからも毎日食べていた)だけですませたり、宿の小母さんが教えてくれた店でフィッシュアンドチップスを食べたりした。外で入るのは、ひとりでも入りやすいカフェや食堂ばかりだったけれど、漁業が盛んという土地柄、カニのサンドイッチやフィッシュスープなど、おいしいものがいろいろあった。
 また、ある日、バスでマーゼルという町まで行き、特に行き先も決めずに歩いていたら、フットパスの矢印を見つけた。英国にはあちこちにフットパスという、私有地だが、歩くだけなら誰でも入れるハイキングコースがあるというのを本で読み、歩いてみたかったのだ。草が生い茂った藪のような細い坂道をしばらくのぼっていくと視界がひらけ、海沿いの道へ出た。道の両側には低木が生え、ラズベリーもたわわに実っている。時々、赤い実をつまみながら歩くのは楽しかった。
 目の前には紺碧の海、そして海の色よりも明るい夏の空。手前には黒い小島が浮かんでおり、その先には真っ白な雲が連なっているのが見える。どこか神話を思わせる、素晴らしい風景だった。
 しかし、行けども、行けども、細い一本道が続くばかりで、行き交う人はひとりもいない。眼下の景色は、日本のサスペンスドラマで使われそうな、岩の多い断崖絶壁に変わっていた。ハイキングの装備もしていない人間がひとりで歩いてはいけないところだと、ようやく気づいた。
 もし、ここで誰かに襲われて殺されちゃったとしても、きっと誰にも気づかれないだろう……。こんな世界の果てのような場所では携帯の電波も弱く、グーグルマップもほとんどあてにならない。後悔がつのるものの後戻りする気力もない……という時、向こうから女の子3人組がやってきた。良かった! これを逃してはなるまいと声をかけると、あと1時間半くらい歩けばラモーナという入江に着くと言う。
「ラモーナにバス停はありましたか?」。コーンウォールで電車があるのはペンザンスまで。あとはすべてバス移動なのだ。
「あったはず。カフェもあった。素敵よ」と言われ、やっと安心して歩き出すことができた。
 ラモーナまで辿り着くと確かに小さなカフェがあり、ほっとしたら、なんだかお腹が空いてきたのでクリームティーを頼んだ。クリームティーとは紅茶とスコーンのセットで、クロテッドクリームとジャムをのせて食べる。コーンウォールは酪農も盛んで、生クリームを煮詰めたクロテッドクリームもクリームティーも、ここの名物だ。
 大きなスコーンにクロテッドクリームと苺ジャムをたっぷりのせ、入江を見ながら食べていると、すっかり元気になった。近くに人がいるというだけで、ものすごく安心感がある。店の人にバス停の場所を聞くと、近くのバス停にバスが来る時間は過ぎているので、さらに先のバス停まで行かないといけないと言う。「たぶん、来るはずだと思うけど。ま、行ってみて」と適当な感じで言われたが、その言葉を信じて歩くことにした。
 今なら、あの小さな入江にもUber Taxiが来てくれるのだろうか。しかし当時はタクシーも見かけない場所なので、バスがないとペンザンスに戻れない。
 再び、えっちらおっちら歩いていくと、途中から同じ方向へ歩く年配の人たちがわらわらと増えてきた。白髪の高齢者ばかりだが、もしや私と同じくバスに乗る人たちではないだろか。さらに安堵感をおぼえつつ、バス停まで辿り着くと、隣に大きなツアーバスがとまっている。老人たちは団体ツアーの乗客だったのだ。
 バス停で時刻表を確認していると「どこへ行くの?」と運転手の男性が声をかけてきた。ペンザンスですと答えると、彼も一緒に時刻表を見てくれる。次のバスは1時間半後。それでもバスがあるだけましだ。トトロが出てきそうな鬱蒼とした林の中だが、暗くなるまでにはまだ時間がある。休んでいれば1時間半くらいすぐだろう。
 彼は「このバスもペンザンスを通るけど、団体ツアーだから、ほかの人は乗せられないんだよ」とすまなそうに言う。「いいんですよ。大丈夫。ここで待ちますから。ありがとう」。そう言って、バス停の横の石に腰かけていると、さっきの運転手が嬉しそうに「皆さんに聞いたら、乗っていいって。ペンザンスで降ろしてあげるよ」と言ってくれた。このバスは町内会の貸し切りバスで、みんなで積み立てをして年に一回、あちこち旅しているのだそうだ。降りる時、私は何度も御礼を言った。
 英国でもコロナが猛威をふるったと聞く今、あの人たちが今も元気でいてくれるよう、願わずにはいられない。
 こんな風に旅先で思いがけず親切にされることを、私は拙著『香港風味』で書いた。旅行者は浮足立っているため、目立つ。それゆえ普段はありえないような、見知らぬ人の善意に出会えることがある(もちろん目立つゆえ、騙されるといった悪いこともある)。
 私は初めてのひとり旅、初めての土地で、まさにふわふわと宙に浮きながら過ごしていたのだろう。夏の終わりのコーンウォールは、花を咲かせた草花やハーブが生い茂り、空も海もしみじみと心に染み入るような、透き通った深いブルーで。ここが妖精の国と謳われるのもよく分かる美しさだった。
 しかし、この旅には反省点も多い。いつもより時間に余裕をもって計画を立てるべきだったし、事前にエアチケット等も細かく確認すべきだった。そしてフットパスも。あの時は事なきを得たが、無計画にフットパスを歩くのはまずかった。次はきちんと計画を立てて歩きたいと思う。
 
 南西部からロンドンへ移動してからは、「都会はどこも似ている」のセオリー通り、観劇のほかはマーケット、美術館、書店、古道具屋という、私がどこででも行く、お馴染みの場所で過ごした。推しの舞台はもちろん素敵だった。それからは公演があるごとに見に行くようになったのだから。
 
 旅には人生をぎゅっと凝縮したようなところがある。たった2週間に過ぎないあの旅は、私にあらためて、ひとりの気楽さ、自由さ、そして楽しさを教えてくれたと思う。トラブルもいろいろあったが、なんとか解決できて良かった。
 時々、日々の暮らしに疲弊すると、あの青い海と空を思い出す。バスの窓から受けた風の強さ、一日の終わりに食堂で飲んだ紅茶のおいしさ、そんな些細なことまでしっかりと覚えている。
 また、あんな風に美しい風景をどこかでゆっくり見たいと思う。それまではもう少しだけ、頑張って生きるぞ、とも思う。ひとりで過ごした素晴らしい時間は、小さいけれど無限にエネルギーを放出し続ける、魔法の石のようなものになる。
 この旅で私のレパートリーに加わったのは、燻製の鯖をのせたトーストだ。ペンザンスのB&Bで朝食に出してくれたのがおいしかったので真似してみた。トーストした全粒粉のパンの上に、スモークした鱈や鯖と半熟の目玉焼きをのせる。日本ではスモークの鱈は手に入らないが、鯖は時々売っているので、手に入る時はそれを使う。あるいは塩鯖の皮と小骨を取り、燻製塩かリキッドスモーク(塗ると燻製風味がつく調味液)を塗って、一晩ほど置く。食べる時は電子レンジで火を通す。トーストにバターを塗り、魚と半熟の目玉焼きをのせる。ナイフとフォークでとろっとした卵の黄身を崩しながら食べると、あの海と空を思い出す。
SHARE