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第2回

小泉進次郎さんへご提案【電線を愛でてみませんか?】

[ 更新 ] 2021.08.20

冬の電線は澄んだ光を照り返して、絹糸のよう。通りが機織り機になった。

 電線は都市の血管であり、神経であり、誰よりも寡黙で表情豊かで、性別のない私の恋人だ。しかし、電線の見える景観は何かと嫌われている。
 すこし前に、阿寒湖へ視察に行った小泉進次郎環境大臣が通りの電線を指差しながら、報道陣に向かって「この電線のある光景は映像としてどう見えます?」と問いかける様子がニュースに使われていた。
 もちろんその後に来るのは「電線は、素晴らしい。だからこそ、電線は最高だということが言えるのです」と電線を褒め称えるようなものではなかったし、メディアが楽しみにしていたであろう小泉構文も炸裂していなかった。「何を改善しなきゃいけないか一目瞭然ですよね」と、当たり前に無電柱化を進めようという話だった。そっかー、と思った。

 槍玉に挙げられた阿寒湖のそばの通りの電線は、どんな感じなのだろう。Googleストリートビューで同じ場所を見てみたら、阿寒湖へ伸びる道はがらんとした印象だった。
「電線をなくしたい」というコメントのカットでアップになった電柱には開閉器が一番上に設置され、その下にある土台のない柱上変圧器と電柱が景観に配慮してこげ茶色に塗られている。
 そして気になる電線は、たしかに電力線も通信線も伸びてはいるが、私の印象としてはすっきりしていた。ただ、ニュースの映像ではある程度距離を取った場所からズームをしているので、画面の中ではより凝縮されて見える。それはそれとしていいものだけれど、目を奪われるほどのスペクタクルや雰囲気のあるものではない。ただ、観光を主な仕事にする人にとっては、この電線も差し障りのあるものとして気になるのだろう。

 阿寒湖へ向かう道すがら、小泉環境大臣がこの平凡な電線に目をつけてコメントしたのは、普段から電線のことがかなり気になっていて、電線をよく見ているからではないか。
 本当にそうだった場合、小泉環境大臣はかなりの電線嫌いで、電線を見るなり「見て! 私の嫌いな電線です!」と指差してしまったのだ。かなり素朴に生きる政治家の人なのかもしれない。

 日本全国の電柱は、3592万本あるそうだ(平成30年度国土交通省調べ)。そしてこの電柱は年に7万本ずつ増えていっている。たしかに、この国では道を歩けば電柱とすれ違う。
 私は無電柱化に全面反対していない。場所によっては地中化をできるだけ早く進めたほうがいいところもあるだろう。
 地中化・無電柱化には安全や防災という真っ当な理由があるし、地中化のために電線を取り換えれば電線に関わる人たちへもお金が動くはずだ。他の様々なことと同じように、電線の地中化・無電柱化にはメリットもデメリットもある。

 ただ、無電柱化を進める人たちがこぞって口にする「電線のある景観は美しくない」という言葉には素直に頷くことができない。
 のびのびと空をかけ、中空に複雑な模様を描く電線は「景観の悪者」と言われがちだ。2017年には電線が邪魔な景色を集める趣旨のフォトコンテストが開かれ、今年は無電柱化を進めるNPO主催で空に張り巡らされた電線を「空のクモの巣」と称し、日常で遭遇した残念な電線・電柱の写真とエピソードをSNSで集めようというキャンペーンが行われている。後者の投稿例では早稲田の裏通りの写真とともに「電線や電柱が景観や開放感を損なっている」というキャプションが添えられたり、「この街は電線がたくさんあって景観がよくない」というネガティブな視点から電線のある景観に触れられたりしている。

 こういった文脈で触れられる電線の写真は、撮影者が好きなものを撮っていないからか、雑務で生まれた画像という感じがする。バッと撮って、調整もなくバサッとアップされたように見える写真は、電柱と電線が写っているのに、電線愛好家から見ても心躍らない。同時に、電線のある景観への危機感を煽る迫力にも今ひとつ欠ける気がしている。

 こういったものを見るたびに、ネガキャンをするエネルギーで、電線のない風景の良さをもっと前のめりに語ってくれたらいいのにと思う。私は電線のある景色を愛しているが、電線のない景色を憎んでいるわけじゃない。
 誰かの手を明るい方へ引こうとするのであれば、何かを貶すよりも、目指すところの良さを明るく語るほうが正攻法なのではないだろうか。

 日本には電柱も電線もたくさんあるが、電線を礼賛することはわりとレジスタンスだ。多くの人の中で電線は景観の悪者らしいが、どうしてそこまで嫌いなのかを長めに語る人を見たことはない。
 それは、それだけ電線=景観の悪者という価値観が普通だから、いまさらここに関しては蒸し返して考えてみる必要もないと思われていることの表れでもある。

 電線愛好家は電線を見るたびに心が上向くけれど、電線のある風景を嫌いな人は、上を見るたびにため息をついているのだろうか。年間7万本増えるものに対して、嫌いだ嫌いだと思い続けるのもなかなかハードだろう。気苦労が絶えない社会で生きる気持ちは、なかなかにしんどい。

 京都や富士山の周りなど、観光地の電線は特に邪魔だ、汚いと言われやすい。Twitterで「電線」と検索してみると、電線が虹や青空にかかった時なんかは特に「邪魔」「なくなればいいのに」と言われている。

 どんな景色にも好みがある。電線が好きじゃない人が多いことも分からないわけではない。好き嫌いの話はいくら語り合っても分かり合えないのかもしれない。けれど、健気に働き続ける電線が責められ、後ろ指を差されたまま地中に埋まっていくのを見るのは、電線愛好家として、恋人として、苦しい。

 じわじわと進んでいるとはいえ、日本の完全な無電柱化はまだまだ先になる。地中化は時間もかかるし、莫大なお金もかかるので、電線とは長く付き合い続けていかなくてはいけないことはすでに決まっているのだ。
 しかし100年後には電線のある景観自体が、稀少で貴重なものになっている可能性もある。人生100年時代というフレーズを素直に信じ、100年先までを自分の時間としてみれば、電線ははかない。
 日本で多くの人が愛でる桜のように、咲いているのはほんの一時だけなのかもしれない。

 東京の景観との比較で挙げられることの多いロンドンやパリの電線が地中化されているのは、地震や台風による断線の不安が比較的すくないことや、石造りの建物を残し続けてきた歴史などいくつかの理由によるそうだ。
 インバウンドの観光客に向けて日本の景色を押し出すとしたら、電線のある景色だって外国人観光客の目には新鮮に映る可能性もあるのではないだろうか。
 たとえ電線のことをすぐに好きになれなくとも、電線=景観の悪者だと思わずにいるほうがちょっとした道を歩くだけでも楽しめるはずだ。


街中でいい電線に出会ったらすかさず撮影。ちなみにこのとき履いているスカートも電線柄だ。

 都市や路地を行く楽しさは、広い空の下で緑を踏み締めて歩くものとも、抜けのいい目抜き通りを闊歩するものとも違う。
 頭の上で幾何学模様を描く電線や、使われた後に不思議な形のまま巻かれたゴムホース、名前も知らない植物が大きく育った植木鉢、片方だけ道に落ちた手袋など、人の生活の匂いのする雑多なものは発見と、その持ち主との物語を想像できる小さな謎にあふれている。
 電線や電柱、様々な路上観察の対象は、今いる場所で人が暮らしていること、より良い暮らしをしたいと願うものの軌跡でもあるのだ。

 私も電線を見上げてため息をつくことがある。
 それは、ただただ電線が働いている様子がきれいで、うっとりとした気持ちが言葉にできずにふと出てしまうため息だ。
 世界にははっきりと言語化された美しさ以外にも、多様で分かりづらい美しさがあふれている。
 たとえ電線のことであっても、多様性に気づくことや隠された美に自力で向かっていくことは世界を広げ、楽しさを増やすことへ繋がると思うのだ。私はまだ発見されていない電線の美しさをもっと見つけて、世界を楽しくしたい。
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