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第7回

インスタは電線との交友録

[ 更新 ] 2021.11.05

電線写真オンリーのインスタアカウント@renge_ge


 私のインスタグラムには電線しか載せていない。
 電線は見ても撮っても面白く、何度でも見返したいからだ。

 表に立つ仕事をしているのだから、インスタグラムに自分の写真を載せたほうがいいと言われることもあるし、実際にそうなのだ。
 けれど、私は自分の写真を見ていると、物件情報を検索して出てくる内見写真を見続けているときと同じような気分になる。 壁の色や雰囲気、キッチンの作りなどの微妙な差はあれど、「東京23区内 家賃6万円 南向き 2階以上 駅徒歩10分」という限られた条件で物件を探したときのような既視感から逃れられない。
 だからグリット状に並べたり、いい感じの自分を発見することにも今ひとつやる気が起きない。
 子どもの頃は鏡を見るのも自分が写った写真を眺めるのも好きで、洗面所の大きな鏡でじっと自分の顔を眺めては、強い自己愛にぼーっと浸っていた。説明できるような理由を探さなくとも「私はいいものだ」と信じていたからだ。
 大人になるにつれ、顔の丸さや、脚の太さなどが気になるようになった。それから、テレビに出る度に、隣に並んだ見目麗しい同僚と自分をいちいち比べるのが習慣になり、なんとなく、私の姿は「いいもの」だと思えなくなっていった。
 今は自分の容姿を「いいもの」でもなく「悪いもの」でもなく、「良くも悪くも私というもの」だと思うようにしている。「テレビ」という想像上の他人の目を使って、自分の姿をじっくり見すぎてしまったのかもしれない。

 そもそも、自撮りは見る(撮る)のも見られているのも自分だし、自分の姿に既視感があるのは当たり前なのだけれど、さっき撮った一番新しいはずの写真を見ても「これはもう見た、何度も見た」と感じてしまう。
 私は自分の姿をずっと見ていると、意識が内へ内へ潜って閉じていく。
 今どき自撮りすることもアップすることも、こんなに普通のことになってきたのに、未だに「私の顔を載せて何になるんだ」という旧式の自意識が強くて、気軽に「シェア!」する決心がつかない。
生活の写真を撮ってみたとて、久々に食べたハンバーガーみたいな「ああ、この感じね」という答え合わせの感覚はあれど、よっしゃこれ人に見せたい! の「!」にあたるワクワクした気持ちが出てこないのだ。
 こんな時、私がパリス・ヒルトンだったら何を撮ってもブリンブリンに輝いているのに、と思うけれど、自撮りが映えない・私生活の演出とシェアに後ろ向きなところも含めて私は私なのだ。

 カメラができてから、人は散々撮られてきているけれど、電線はまだまだ撮られていない。
 よく知った自分の顔でさえ、プロにかかれば色々な撮り方があるのだから、まっさらな被写体としての電線は色々な人にとって撮りがい・研究しがいがあるに違いない。
 青空や夕日を背景にシルエットのようになった電線や、製品カタログに載る為のピシッとしたプロフィール写真は目にしたことがあるかもしれないけれど、「自然体の」とか「モードな」電線と聞かれてパッと思い浮かべられる写真は意外とないのではないか。
 たとえば、インスタグラムでよく見かけるお洒落な室内写真のように撮られた電線を見たことがない。大理石風のパネルの上に横たわり、燦々と降り注ぐ自然光を浴びる電線。ネコちゃん写真を見たときのような「かわいい〜」が口をついてくるようなリラックスした電線。


切り花の代わりに電線を活けてみたら、案外いい感じにおさまった。ガラスと電線のインダストリアルな組み合わせに、きらっと光る導線がアクセントとなっている。2025年に流行ると思う。

 私ひとりがここ数年撮っていたって、電線は「見た/見てない」のだるだるしたラインなんか軽々と、何度も飛び越えてくるし、自分の写真と違って、電線を撮った写真はどんどん人に見て欲しいと思える。
 これまでとはひと味違う電線のビジュアルを、より素敵な形で打ち出せたら、世界に電線ファンをもっと増やせるかもしれない。
 そういうプロデューサー的な下心もありつつ、やっぱり電線の良さにきっちりピントを合わせようと試行錯誤したり、電線のどこを撮って見せようか考えていると、自分の世界も広がるようで面白いのだ。

 けさ撮影でご一緒したヘアメイクさんに「普段の髪型とかメイクの雰囲気見てみようと思ってインスタ見てみたらさ、全然参考にならなかったよ!」と言われた。
 その後、カメラのクレーンにはどうやってケーブルを這わせているのかカメラマンさんに聞いていたら、 レンズの向こうの監督さんからも全く同じことを言われてしまった。
 二人続けて同じことを言われたので、インスタグラムには電線以外に載せるものはないと思っている私も、さすがにちょっとだけ申し訳なさを感じた。
 でも、目線は床に置かれた電線やケーブルに吸い寄せられてしまう。今日もケーブルだらけの撮影スタジオにいられて眼福だ。
 たとえ撮影時間がちょっと長くとも、角度のあるポーズのまま止まっていなくちゃいけなくとも、ケーブルを見ているだけで気持ちは少しだけ充電される。

 2015年から始めた アカウントでは今、500枚を超える電線の写真を投稿している。
 最初は、電線以外の風景スナップもアップしていた。





 当時の自分が感じていた「電線は生き物っぽい」という感覚が、現実の光景として目の前に現れたときの驚きというか、ぞわっとするようなかっこよさをメモのように残しておきたかったのだ。この頃はまだ、「ひとくちに電線と言っても、意外といろんなやつがいるんだな」というような曖昧さだった。

 その時々にピンときて残した「いい電線」が並ぶと、自分が電線のどこをいいと感じたのかの図鑑ができてくる。



 そうすると、なんとなく撮って載せただけの写真と、ちゃんと「いい」と思って撮ったこだわりの一枚は、同じようにピントが合っていたとしても奥行きに違いがあるような気がして、自分は電線のどんなところが特に好きなのか、よりはっきりさせたくなった。



 角度によって見え方の変わる、電線の表情に気づいたのもこの頃だ。





 ある時期、自分の撮った電線に見飽きて、倦怠期が訪れた。
 電線を前にしたときは「いいなー」と思ってシャッターを切っているはずなのに、撮れた写真を見てみると「この間、同じ写真撮らなかったっけ?」と思ってしまう。
 喉に小骨がつかえたような違和感を抱えたままいると、相手のどこが好きなのかもよくわからなくなってくる。私は一時期、写真を撮らず、ただ電線を見た。



 私たちの関係のたねあかしをしてしまうと、これはやっぱり一人相撲だ。でも、電線なしでは成立しない一人相撲だから、相手のあることと言ってもいいのかもしれない。
 ともかく、電線と過ごす時間のぎこちなさは、結局のところ私の目が凝り固まってしまったことの表れだった。このまま自然消滅する道もあったのかもしれない。
 けれど私は重めの女なので、二人でどうにか楽しくする道を探った。
 職業柄、色々なものを撮っている映画監督の知人と飲んだついでに「倦怠期かもしれません」と相談してみたり、「いい!」と思った角度からちょっとずらして撮ってみたり、静止画でなく動画にしたり、これまでのことをなぞらないようにした。
 はっきりしたブレイクポイントはわからないまま、いつの間にか倦怠期を抜けていた。
 今も、私の目線で拾える電線の良さは一人分の狭い範囲に収まっているけれど、電線を撮っていて楽しいし、時間を忘れて楽しめる。

 そして、ところ変われば電線も変わる。
 電線と出会うために遠方まで足を伸ばしてみると、思いもよらない働き方の電線と出会えるし、電線への見識の狭さも知れる。



 インスタグラムは、電線との交友録だ。恋人がいるという「匂わせ」どころかストレートな惚気の記録になっている。
 と同時に、私が電線のどこをいいと思っているのかの研究日記でもある。
 インスタグラムの投稿を振り返ってみれば、私がこの原稿を通して、電線の良さを言葉にする少し前から、私は電線を目で追い続け、相手のいいところにしっくり来る言葉や、魅力を探し続けていたのだなあと知った。
 友人と話していて、「話の中に同じ人がよく登場するな」と思っていたら「実は最近付き合い始めたんだよね」と聞いたときのような納得感がある。
 これからも、私たちの関係はマイペースに更新されていくのだ。
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