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第3回

渋谷道玄坂ウラに濃いアメリカがあった。
昭和50年(1975年)

[ 更新 ] 2021.09.06
 学校帰りに寄り道する街の筆頭は渋谷だった。もちろん新宿にも行ったけれど、1960年代後半あたりからの“圧倒的なエネルギー”は衰えて、東口の武蔵野館周辺の喫茶店へわざわざ繰り出す者は僕のまわりにはいなかった(伝説の店・風月堂はもう閉店していた)。ちょっとおもしろくなってきたのは京王プラザホテルに続いて住友ビル、三井ビルくらいまでが完成した西新宿の副都心地区だ。新しもの好きの植草甚一も『ぼくの東京案内』(晶文社)に収録されたエッセーで注目している。

それにしても流行色とは思えないとりどりの茶色の服の氾濫は、さっぱり魅力がない。がっかりして新宿東口から西口に抜け、三井ビルと住友ビルへと近づいたとき、たしかに新宿は変ったと思った。変っただけでなく、こんな別世界が東京のどこにあるだろうか。あれば原宿のパレ・フランスぐらいだろう。
(読売新聞 昭和49年12月16日付初出)

 植草氏はこの後、三井プラザ(ビル)をニューヨークのロックフェラー・プラザ、住友プラザ(ビル)をクロイスターズ・ミュージアムの庭園などにたとえて好印象を受けたことを記している。
 このあたりは金曜夜の人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」のロケシーンにもよく登場したが、僕も先述した「広告学研究会」と並行して入っていた8ミリ映画の制作サークルのロケで何度か使った。ビル建設前のフェンスのゆるい空地なんかがまだ残っていて、勝手に入りこんでケンカのシーンなどを撮った。
 住友ビルの脇に昔の浄水場時代のつたの絡まったレンガ壁をうまく使ったようなカフェがあって、その前でデートシーンを撮影したおぼえがあるのだが、先日久しぶりにDVDで観た沢田研二の「太陽を盗んだ男」(昭和54年)の1シーンにここが出てきて、「そうだ! 『渡邉』って難しいナベの字の看板を掲げた店だった」と思い出した。

 まぁ新宿の話はこのくらいにして、渋谷へ移ろう。渋谷はパルコのオープン(昭和48年6月)以降、公園通りがトレンドエリアになりつつあって、実際僕もこの坂道をオシャレ気分で歩いたりしたものだったが、東口の方も「パンテオン」をはじめとした洋画館が集結した東急文化会館、明治通りの全線座も健在で、その向かいあたりのいまもボウリング場のあるビル(渋谷東口会館)には「雀議院」という大きな雀荘があって、ここで打っているとパイのまぜ音・・・を掻き消すように、ゴーッと上階のボウリングの機械音が聞こえてきたのを思い出す。宮益坂裏には安いラブホテルやレンタルルームも多かったが、おもえば当時の渋谷は道玄坂でも公園通りでも、ちょっと脇道に入ると露骨な連れ込み旅館(古風な♨マークを掲げた所もあった)が並んでいたものだ。パルコ(パート1)の裏、まだスペイン坂の名が付く前の坂上の角に、「オリエント」という人気のラブホテルがあったのをよくおぼえている。
 昭和50年代初めの渋谷を回想するとき、とりわけ懐しい記憶が浮かびあがってくるのが道玄坂小路の台湾料理店「麗郷れいきょう」の一角だ。「麗郷」は当時すでに現在のレンガ壁の建物になっていて、ここは学生の僕らもよく利用した。「煙腸」と表記されたチョウヅメを初めて味わったのはこの店(カウンターにいくつもぶら下がっている)である。
 「麗郷」の脇から百軒店ひゃっけんだなや円山町の方へ上っていく階段道は思い出深い。坂上のラブホテルへ行くために使ったわけではなく、ここで映画サークルの撮影ロケをしたからだ。僕の企画が初めて通った記念すべき作品(トヨタ2000GTのプラモを大切にするオタクな青年の物語)で、役者も務めた僕はこの階段坂を何度も上ったり下ったりした。まだ路傍に雑草が繁ったような箇所もある素朴な坂道で、ファッションヘルスの店などもなかったが、坂の中腹あたりに「ミウラ&サンズ」というアメカジ少年にとって重要な1軒が存在した。
 ミウラは店を始めた三浦という人の名で、息子を表わす「サンズ」(SONS)が付くのは上野のアメ横に「ミウラ」という本店があった(こちらも何度か行った)からだ。後年(80年代頃)の「ミウラ&サンズ」の写真の看板に〈SINCE 1975〉と入っているのが確認できるからオープンはこの年(昭和50年)、そう、先述したリーバイス501とともに「Made in U.S.A catalog」から人気に火が付いたコンバースのスニーカー(チャックテイラー)を初めて買ったのがこの店。緑色のローカットのタイプだったが、この年の夏の写真に少し着古した501とともに写りこんでいるから、おそらく開店まもない頃の客の1人と思われる。
 せいぜい10畳そこらの小さな店だったはずだが、そこにコンバースやアディダスのスニーカー(ナイキが登場するのはもう少し後)、フライのウエスタンブーツ、リーバイスやリーのコーデュロイ・ジーンズ……など「Made in U.S.A catalog」で見た憧憬のグッズの実物が革やインディゴの“いい匂い”を漂わせながら陳列されていた。
 そう、冬場にケニントンというメーカーのミッキーマウス柄(ミッキーがスキー板を抱えている)のセーターを見つけて買ったのはここではなかったか……。前回、「宝島」誌の読者欄に掲載された「ミッキーマウスTシャツを愛好するワセ女」の投稿文を紹介したが、この年はアメリカ建国200年に絡んで、そのシンボル・キャラクターに採用されたミッキーのグッズが多々発売されたようだ。たとえば、「アメグラ」のエンディング曲(オール・サマー・ロング)をきっかけに聴くようになったビーチボーイズのアルバム「スピリット・オブ・アメリカ」のジャケットも星条旗などとともにセンターにミッキーの顔が描かれていた。
 ちなみに、この「ミウラ&サンズ」がいまや銀座のトラッドショップの古株となった「シップス」の前身なのだ。


地図1 当時の百軒店界隈の住宅地図。地図1の右端が後出の地図2左端に繋がる

 そんな石段坂の坂上を左に行くと「百軒店」の界隈へ入っていくわけだが、そういえば坂下の麗郷の脇からもう1本鋭角的に上っていく坂道があって、そのどんつきに「聚楽」という古めかしい日本旅館が建っていた。この旅館、確か90年代くらいまでは健在で、長らく露天の駐車場になっていた。近頃ようやくビル建設が始まったが、聚楽というと、あの上野の大衆的レストランやマリリン・モンロー風ショーガールのCMで知られた水上温泉・ホテルじゅらく……のグループの持ちものだったのだろうか。謎めいた場所だったが、80年代頃までサッカー日本代表チームの宿泊や宴会場に使われていた……なんていうネットの記事を見つけて、へーっと思った。
 さらに、松本清張の何か小説に渋谷の高台の旅館から街を一望する……ような描写があって、そのときはピンとこなかったけれど、昭和30年代の作品だったはずだから、当時の「聚楽」ならば考えられる。
 「麗郷」前の道玄坂小路の向こう側に、ほんの1筋ばかり、いわゆる「恋文横丁」の名残りの袋小路があった。その頃はもう廃屋になったような家も目についたけれど、2軒だけ“米軍から流れてきたような古着”を扱う店が開いていた。
 先日、三軒茶屋でアメカジ系の衣料を販売する「セプティズ」を主宰する玉木朗氏(僕とほぼ同年代)と会食した折、この一角のことが話題に上った。
──「サカエヤ」というのがあって、もう1軒その並びにありましたよね?
──「ミドリヤ」
──そう、すぐ先に表通りの「緑屋」のビルが見えていて紛らわしい。
──バラックのミドリヤがあの量販店の「緑屋」の前身、って説も流れていましたね……。

 ちなみに「緑屋」は当時「丸井」と張り合っていた月賦販売式のデパートで、その後セゾングループに吸収されて、いま「プライム」のビルになっている所だ。「緑屋」と「ミドリヤ」は無関係らしいけれど、このビルが昭和40年代前半に建つまでは、いまの109の方から三角地帯状に「恋文横丁」を含む戦後のヤミ市を起点にしたバラック商店街が広がっていた。東急本店へ行く道と分かれる二又の角にあった洋品店の「三丸みつまる」は、品マークのMITSUMARUとして109内に健在だが、当時の三丸の裏小路に、近頃秩父方面の名物になりつつある「わらじかつ」の看板を出した安いトンカツ屋があったはずだ。


地図2 当時の恋文横丁界隈の住宅地図

 ところで「恋文横丁」というのは、正確には“恋文代筆屋”(朝鮮戦争に出征した米兵向けのラブレターを代筆する店)のあった1筋を指すもので、この「サクラヤ」や「ミドリヤ」が並ぶ小路は俗に「メリケン横丁」と呼ばれていたらしい。これらの店にも、シブいメイドインUSAモノのシャツなんかがある……という情報が伝わってきて(「ポパイ」の記事にもなったが、それより前だったと思う)、「ミウラ&サンズ」の行き帰りに覗くようになった。「ミウラ──」はサーファーっぽい若いお兄ちゃんが店番をしていたが、こちらは終戦直後からずっとやっているような、ポパイ臭のないオッチャンなのが逆に味わい深かった。どちらかの店の棚上にホコリの被った“DEE-CEE”(ワシントンの人気ブランド)のウエスタンシャツを発見して、けっこうな安値で買ったおぼえがある。いま思えば、ワシントンハイツなんかがあった時代の話を聞いておくべきだった。
 麗郷の横の石段坂を上っていっても入っていける「百軒店」の界隈は、当時からいかにも裏町の風情が漂っていた。表通りの道玄坂の方から入っていくと、すぐ右手にいまも健在なストリップの「道頓堀劇場」がある。
 道頓堀──の名については、随分前に開館した社長じきじきに「看板屋が道玄坂を道頓堀とカン違いして作ってきて、めんどくさいのでそのままにした」なんていう、ふざけた謂れを伺ったが、大学生当時は横目で見て通り過ぎるだけで、入場したおぼえはない。もっとも、池袋のミカド劇場とか朝霞の朝霞ショー劇、といったストリップ小屋には高校生の頃からひっそりと行ったりしていたから、こういうエロなスポットを拒否していたわけではない。公園通りの喫茶店で女子とデートしたり(「時間割」って店をよく使った)、ミウラ&サンズでアメカジグッズを物色したり、そういうオシャレモードの渋谷でストリップに入るのがイヤだったのだ。その当時から僕は、街をジャンル分けする傾向があった。
 その奥のマス目状の区画には、現在も営業を続けるカレーの「ムルギー」、名曲喫茶「ライオン」……店ではないが赤鳥居をあやしげに垣間見せた千代田稲荷神社、などの古い物件が軒を並べている。大正時代末の関東大震災直後に、その後の西武王国を築く堤康次郎率いる箱根土地会社が中川伯爵邸の跡地を買いあげて区画整理したという元祖モール型商店街、戦後はテアトル系の映画館が2、3軒オープンし、昭和30年代中頃からはジャズ喫茶が増えていったという。
 ジャズ喫茶の主客層は僕よりちょいと上の世代だったが、名曲喫茶ライオンの隣の「B・Y・G」というロック喫茶は、高校生の頃からロンブー履いた不良ロック少年の溜り場として知られていた(ここももとはジャズ喫茶らしい)。この店の裏手が当時広々とした空地(屋外駐車場だったかも)で、1本先の路地に回りこむと、店裏の壁か塀にBYGと赤いスプレーペンキで殴り書きされた、ロックなラクガキが目に入った。
 はっぴいえんどのライブなんかも催されたというこの店、結局僕は“濃すぎそうな不良ロック少年”の存在におびえて入らなかった。もう1つ先の路地角に「ブラックホーク」(BLACK HAWK)という小体のロック喫茶があって、ここも伝説の店として語られるが、残念ながらこちらも入店の記憶はない。ちなみに、当時(少し前の昭和47年)の住宅地図を見ると、「ブラックホーク」の隣に「ありんこ」って店があるけれど、ここは荒木一郎の私小説『ありんこアフター・ダーク』の舞台になった店だろう。
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