
第39回
東銀座の料亭街の喫茶店でとうとう辞表を提出した。
昭和59年(1984年)
[ 更新 ] 2023.03.02
消えた雑誌ばかりでなく、いまもどうにかがんばっている「週刊プレイボーイ」の7月24日号は「ぐわんばれ! 平凡パンチ」という巻頭特集をデカデカと掲げた広告を出している。「ワシら良きライバルが欲しいんじゃあ!」とサブコピーを打ったこの企画は記憶に強く残る。誌面刷新したものの売行きが芳しくない、古くからのライバル誌であり“若者雑誌の先達”でもあるマガジンハウスの「平パン」を茶化しながらも応援する記事だが、小峯隆生の『若者のすべて 1980~86「週刊プレイボーイ」風雲録』(講談社。新刊時は買いもらし、最近古本屋で手に入れた)にその当時の編集部と時代の様子が活写されている。
小峯隆生というのは、仕事より“宴会芸”で知られた異能エディターで「オールナイトニッポン」のパーソナリティーなんかも務めていた。その「オールナイト──」についての一節に「放送の内容は、当時編集部や出先でやっていた宴会芸やバカ話を全力でやっただけである。この裏には、トモジさんから紹介していただいた古舘プロジェクトの名構成作家、腰山さんの指導があった」と書かれているのだが、“腰山さん”とは以前(第21回)に「泉麻人」の誕生のきっかけになったラジオ番組の放送作家、として紹介した腰山一生氏のことだ。おもえば僕がコミネという男の宴会芸を初見したのは、腰山さんに連れていかれた新宿伊勢丹裏の「酔胡」という店ではなかったか? 雑居ビル2階の割と広めの中華居酒屋って感じの店で、端っこに小ステージがあったはずだ。
映画評論家が溜っていた店で、林美雄やおすぎとピーコもよく来ていた。僕も腰山さんに促されて、筒美京平のアップテンポの曲のイントロとサワリだけメドレーでつなげる(1曲目は平山三紀の「真夜中のエンジェル・ベイビー」)ネタをやって、おすぎとピーコに「キモチワル~イ」とかいわれながらウケていたのをおぼえているが、そんな場に“噂のコミネ”がやってきて、田中角栄の声帯模写(これは腰山氏も得意としていた)で始まる“和製レニー・ブルース”みたいなマシンガントークを披露していた。
小峯氏の記述によると、翌85年(昭和60年)の春の花見宴会でも僕は彼の芸に接したようだ。「一世を風靡していた週刊文春の『萬流コピー塾』の花見大会に誘われて、出かけていったのである。場所は公園。旧知の糸井重里さんに、『コミネ、なにかやってよ』と言われて、芸をやってみせた。南伸坊先生、嵐山光三郎、泉麻人、みうらじゅんなどの錚々たるメンバーがいた」
なぜ南伸坊さんだけ「先生」が付いているのか? とも思うが、どうも彼は画家系の人にはすんなり「先生」を付けるくせがあるようだ。それはともかく、この公園は乃木神社横の乃木公園だったはずだが、実際、僕や三浦君はまだ「錚々」の側にいく前であり、この他に村松友視、仲畑貴志、クマさん(篠原勝之)……といった年長の面々の宴を緊張気味に眺めていた記憶がある。
やがて、「ウチにコミネより洗練された感じの芸をやるすごいのがいるんですよ」と、講談社「ホットドッグプレス」の原田君から聞いて、いとうせいこうの存在を知った。
小峯本にはこの花見の後に僕が絡んだ「ナウの逆襲」という企画についての記述があるが、昭和60年の話をふくらませると時系列がわかりにくくなるので、59年にもどることにしよう。
朝日新聞の6月の縮刷版には、わが「ビデオコレクション」7月号の広告も載っていた。「うむ。ビデオもなかなか面白い! と思ったら。」なんていう、いかにも80年代らしい文体のヘッドコピーが付いているが、この7月号が僕の最後の仕事となった。
創刊号からずっと1人で取材、テープ起こしして原稿をまとめていた〈Play-Back Interview〉の最終ゲストは渡辺和博。知り合いですませた……というわけではなく、その後ベストセラーになる『金魂巻』を刊行した(奥付の初刷は7月16日)時期でもあった。女性アナウンサー、医者、イラストレーター、お父さん、女子大生、商社マン……と、31の職業(ばかりではないが)を「○金」と「○ビ」に分類、絵解きしたもので、とりわけマルキン、マルビのフレーズはこの年の「流行語大賞」(第1回という)に輝いた。

「○金」「○ビ」の流行語を生んだ渡辺和博とタラコプロダクション
『金魂巻──現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造』(主婦の友社)。
カフェバーで客観察をしながら渡辺さんに聞かされていた“ナベゾ式マンウォッチング論”の集大成といった感じの1冊だったが、近くにいた僕も、まさかこれほどブレイクするとは思わなかった。本は発売されてすぐに増刷を重ねていたようだが、新聞縮刷版を辿っていくと、意外にも『金魂巻』ブームを取りあげた記事は乏しい。マルキン、マルビに絡めた見出しを付けた雑誌広告が目につくようになってくるのも、年を跨いでからのことだった。
ビデコレは月号数をひと月、ふた月と先行させていないので、この7月号の発売広告が載っているのは6月26日。すると校了日はおそくとも6月の中頃だろうから、「辞表」の提出は常識的に考えると5月中と思われる。
この辞表提出をテーマにしたエッセーは、これまで2度、3度書いているはずだが、『コラム百貨店』(マガジンハウス・91年)に掲載された「僕が辞表を提出するまで」という一文(初出は89年に雑誌掲載された)には「今から5年前の夏に辞表を提出」などと書かれているから、もう夏らしくなっていた時期であることは確かだろう。喫茶店で向かい合った上司になかなか本題を切り出せず、「氷水と化したアイスコーヒーの底を何度もストローで吸い上げた」と描写している。
上司とは、このときのビデコレの編集長。以前、雑誌を立ちあげたYという編集長のことは書いたけれど、この春あたりにY氏は局長クラスに昇格して、身長180センチ超の大きながたいをしたF氏が編集長の座についた。一見、ジャンボ鶴田のような“ヤサ男型プロレスラー”の風情だったが、力で押し切る体育会系編集長というわけではなく、出版や広告のトレンドに敏感な、理知的な人だった。
僕の“外仕事”にも寛容で、2、3か月の短い間だったが、やりたいことをやらせてもらった、という好印象がある。そんなこともあって、一応「冠婚葬祭マナー」の本の一隅に掲載されている辞表文マニュアルを手本に辞表を書いて、会社まで持参したものの、F氏と周囲の様子を察しながら、1週間か10日ばかりは提出できなかった記憶がある。
そういえば、F氏は「血圧が200超えちゃったよ。ボウリングじゃあるまいし」などと、得意のボウリングにたとえて高血圧を自慢しているような人だったから、辞表を出して、いっそう血圧を上昇させることにはならないか……と、当時の僕は多少心配したのかもしれない。
この年あたりは、前に書いた築地本願寺裏の独立した編集室をひきはらって、朝日新聞社隣りの浜離宮ビル「週刊TVガイド」の編集フロアーの一角に移動していた頃だから、ビデコレのデスクのスペースも狭く、いっそう人の目が気になった。
あれはおそらく、入稿か校了明けで、人の出入りが乏しかった日だろう。デスクにぽつんといたF氏を見つけて、ここぞとばかりに声を掛けた。「お茶でも、どーですか?」と誘ったとき「珍らしいね(キミが)」と返されたことはよくおぼえている。
浜離宮ビルや隣りの朝日のビル内にも喫茶店はあったが、その日向かったのは、朝日の前を東銀座の側に渡って、確か銀座東急ホテルの西裏にぬける路地の途中にある「砂糖人形」という店だった。広いガラス窓を張った、カフェ調のおちついた店で、窓越しに向かいの料亭の黒塀と停車した人力車なんぞが眺められる。いかにも、近所の料亭に出入りする芸者とお得意さんがひと休みするような、お高いムードの喫茶店だった。
先の一文によると、アイスコーヒーの溶けた氷水もなくなってきて、ようやく“退社の意向”を告げたとき、案外あっさりした反応が返ってきた……というのがオチになっている。
「あ、そう。そろそろかと思ったんだけどね。じゃ辞表、抽出しに入れといて」
このF編集長のセリフの後に「通勤カバンの底に約1か月間カン詰めにされた辞表は、埃にまみれて、結局、再度書き直すはめになった」と、結んでいるから、オンタイムから5年目に書かれたこの文章が、おもしろくするためネタを盛ったようなものでなければ、実際ボロボロの辞表がカバンに携帯されたままになっていたのだろう。
ところで、この一文で僕が退社、独立の旨を告げようとするときに前振りのような感じで「仕事場を借りたんですよ」と語っている。そうか、すると退社とオーバーラップするように、すでに仕事場を借りていたのかもしれない。
そこは、高円寺からの引っ越しを考えていた三浦君が探してきてくれたワンルームマンションだった。
「原宿の同潤会アパートの近くの新築マンションなんですけど、まだいくつか部屋空いてるみたいですよ」
取り寄せた間取り図によると、スペースはタテ長の8畳ほどで狭いが、同潤会アパートのすぐ裏で、新築にして月8万円台の賃料は原宿・神宮前の一等地の割にはさほど高くない。
ここに、初めての仕事場を構えることに決めた。