
第38回
スキゾなモーツァルトもけっこういい。
昭和59年(1984年)
[ 更新 ] 2023.02.15
桜丘は線路寄りの一帯が道ごと改造される再開発で変貌してしまったが、246の歩道橋下からくねっと斜めに南平台の方へ入っていく坂道はビルに埋もれるように残っている。その坂の途中にヒルポートホテルはあった。幹事役だった僕は、パーティーで使う小道具の類いを友人の車で搬入している折、坂の路端の残雪やアイスバーンの路面に気を遣った記憶がある。
このヒルポートホテルのすぐ裏あたりのワンルームマンションに、中学時代から仲の良い友人・T(実家は浅草)が一人暮らししていた。家具のほとんどない床に散らかったレコード群のなかから、マンハッタン・トランスファーのアルバム「BoDiEs AND SOULS」を取り出してターンテーブルに載せた(This Independenceって曲が好きだった)ことも、この冬の東京の雪景色とともに思い出される。
彼の部屋にはレコードとプレーヤーと、10インチかそこらの小型テレビがフローリングの床に雑然と置かれていたはずだが、「ビデオコレクション」の表紙でも、そんなワンルームの床に直置きしたカラフルなテレビとモデルを絡めたような写真をスタジオでよく撮影した。この年あたりから表紙撮影にも立ち合うようになった僕は、被写体がモデルのほかにテレビとビデオ機器、といった家電モノだけではぎすぎすしいので、ワンルームに飾る小物をスタイリスト気分で原宿界隈に探しに行ったことがあった。
キャットストリートと呼ばれ始めた頃の渋谷川暗渠の道を行ったり来たりして、どこかのショップで“ピンク色のフラミンゴが点灯するランプ”を借りて撮影で使ったはずだが、渦中の三浦和義が経営していた「フルハムロード」は、まさにこういうアメリカンなフラミンゴ型ランプなどをロスから輸入していた会社で、ワイドショーでさんざん取りあげられたこの時期の本拠「フルハムロード良枝」も桜丘にあった。
僕をこの世界に引きこんだ松尾多一郎がちょうどこの頃西隣の南平台の町域に差しかかる手前のワンルームを購入、ニックネームでもある〈NIFTY FLASH〉の表札を掲げて住んでいたが、いまインフォスタワーが建つ通りを南進して、乗泉寺(このお寺の息子も慶応の同級生だった)のある鶯谷の谷を下って、また上り始める猿楽町に「だいこんや」という当時マガジンハウス系出版業界人の間でハヤリのヌーベルキュイジーヌな懐石料理屋ができて、渡辺(和博)さんに何度か連れていかれた。この辺はもう“代官山”の領域だが、衣・食の店が増えてきた代官山はポスト原宿的な存在になりつつあった。
あのYMOやチェッカーズのヘアスタイルを考案した本多三記夫さんのヘアサロン「Bijin」も代官山(シェ・リュイ脇の路地から周辺各所を転々)にあった。僕が「小説新潮」で始めたサブカル文化人ルポ(「けっこう凄い人」)の連載で“怪編集者”の秋山道男を取材した折、秋山さんからインタビュー場所として指定されたのがここだった。翌年のことだったが、それをきっかけに通い始めてからもう40年近く本多さんに髪を切ってもらっていることになる。
恵比寿西の駒沢通りぞいにあった小料理屋の「吉住」(霜降りシャブシャブ肉を千切りキャベツ上に盛った“肉サラダ”ってのが名物だった)とか、恵比寿から渋谷方向に少し行った線路端のフレンチ食堂風の「ケンサム」(ショーケンと小泉一十三のカップルを何度か見た)とか、代官山・恵比寿界隈には、メディアにはあまり紹介されない業界人の溜り場的なレストランやバーが点在していて、そういう店になじんでいく自分に青い優越感をおぼえていた。

著者の手元に残る「ケンサム」の領収書。今回の話より4、5年後のバブルたけなわの頃。
原宿の明治通りをかなり代々木の方へ上った右側、レナウン手前のヴィラ・ビアンカという当時にして年季が感じられたマンションビルの地階に「ピテカントロプス・エレクトス」がオープンしたのは約2年前のことだったが、僕は渡辺さんとの雑談で「ピテカン」なんて縮めて呼んでいる割にはほとんど行かなかった。何かの取材がらみのイベント(環境映像のトレンドだったナムジュン・パイクのショーだったか?)で覗いたくらいで、こういういわゆる“カリアゲ系”の聖地のようなスポットは苦手だったのだ(Bijinで整髪しているくせに)。
ナムジュン・パイクのイベントを観たのは六本木の東日ビルの並びにあった「WAVE」だったかもしれないが、ここも地階の「シネ・ヴィヴァン」にエリック・ロメールの映画をスカシた気分で観に行ったのをよくおぼえているくらいで、マニアックなレコードを物色したことはない。
ピテカン→WAVE→YMO……という、インテリなモード系みたいなラインにニューアカ(デミズム)の人たちの立ち位置もあった。以前ふれた伊丹十三・責任編集の「モノンクル」誌に登場した岸田秀ら心理学者の人たちや『パンツをはいたサル』を当てた経済人類学者の栗本慎一郎あたりから始まったのだろうが、前年あたりから『構造と力』の浅田彰と『チベットのモーツァルト』の中沢新一が“ニューアカの2大看板”のような感じでもてはやされ、「GORO」とか「週刊プレイボーイ」とかの一般誌にも頻繁に登場するようになった。
そういったニューアカの面々と絡む座談の進行役というのは、だいたい糸井重里が務めていた気がしたけれど、ブームとしてのニューアカというのは、スキゾとかパラノイアとかシニフィエとかポストモダンとかレヴィ=ストロースとかチベット密教とか……アカデミックな事柄をDCブランドやアイドルや小錦の相撲……など俗なものにたとえて語ったりするのがキモだった(僕はマガジンハウスが創刊したニュー・ポエム誌「鳩よ!」で、そういうニューアカ・トークを茶化したような企画をよくやっていた)。
チベットのモーツァルト──なんて、そのやわらかいタイトルにつられて、まさに“ジャケ買い”した人も多いのだろう。近い時期にハヤッていた松田聖子の「ピンクのモーツァルト」がふと重なるのだが、作曲の細野晴臣は当時、中沢新一ともよく対談をしていた。
浅田さんや中沢さんとは翌年か翌々年くらいに雑誌の鼎談やトークイベントで実際お会いする機会があったが、ニューアカ・ブームたけなわの初夏の頃、「小説新潮」が別冊として「大コラム」というのを発売した(新聞広告をチェックしたら、6月14日発売だったようだ)。原田治が描いたポップな犬のキャラクターが表紙を飾る、文芸誌よりもポパイっぽいセンを狙った別冊で〈書下ろし 100人! 1000枚!〉なんていうキャッチが打たれている。
惜しくもこの別冊、いま手元にはなく、ヤフオクに記録された表紙だけ見て回想しているのだが、確か玉村豊男が冒頭に「『大コラム』ニスト宣言」という巻頭言風の文章を寄せ、僕も100人の1人として、短文を書かせてもらった。
「けっこういい」の総題のもと、その「けっこういい」の他、「対岸の火事」「安いサンダル」「のりたま」「セブンイレブン」「午後」「クーラー」「河合奈保子」という計8編の1作あたり1000字程度のコラムというか、エッセー風ショート私小説、って感じのものだったが、それまでほとんど文芸誌には登場していないこともあって、それなりの反響があった。
「こういう短文を書き足して、本にしませんか」なんて話が文藝春秋からあって、これは翌年の夏、『カジュアルな自閉症』というタイトルでネスコという文藝春秋の“新レーベル”から刊行された。
この「大コラム」の短文を依頼してきたのは、シャレた丸メガネをかけた松家君という青年で、後に小説家(松家仁之)として売り出した。彼に勧められて買ったエヴリシング・バット・ザ・ガールのアルバム『エデン』はボサノバ風味の耳ざわりの良い曲が多くて、すぐにカセット録音して葉山方面へドライブするときの定番BGMになった(エヴリシング・バット・ザ・ガールはWAVEで買ったかもしれない)。
松家君とほぼ同じ頃に知り合ったのが、「ホットドッグプレス」の編集をしていた講談社の原田君だった。ふたりは僕とほぼ同世代で、お互い仲も良かった。林真理子を囲んで「若鮎の会」とかいう飲み会をやっている、という話を聞いたとき、「若鮎の会」ってネーミングが「若い根っこの会」みたいで、そりゃねーだろ! とツッコミたくなったことをよくおぼえている。先に挙げた恵比寿の小料理屋「吉住」は原田君のお気に入りで、当時ポパイが定席だった僕をホットドッグの方に引きぬこうと、何度も接待された。結局、ライバル誌の仁義上、ホットドッグではたまに書くくらいだったが、「吉住」以外の店も含めて、総計百万円くらいはオゴってもらっているのではないだろうか……。大食漢の彼は、青学の前のイタメシ屋(フォリオ、といったか?)でたっぷり食べた後に「千住の外れにいい焼肉屋があるんですよ」などといってタクシーを拾って、足立区鹿浜の名店「スタミナ苑」で追い食いするような奴だったが、その後音信は途絶え、2010年代の中頃に満漢全席目当てで行った香港で客死した……と、後に人づてに聞いた。
原田君は一橋大学のサークルで田中康夫と一緒だった……という話をしていたが、ビデコレのインタビュー以来、たまに電話でやりとりするようになっていた田中氏から「大学テーマの本を一緒に書かないか?」と誘われたのは、おそらく「大コラム」の原稿を書いている5月頃だろう。
以前、僕がポパイに寄稿した〈間違いだらけの大学受験要覧〉(大学を“アソビの偏差値”で分類したオフザケモノ)を下敷きにしたもので、祥伝社のノン・ブック・シリーズから『大学・解体新書』のタイトルで9月に刊行され、共著ながらこれが最初の書籍となった。
短いコラムの連載ならばともかく、書下ろし本の執筆となると、日々通勤するサラリーマンとの二足のわらじはきびしくなるなぁ……と、僕はいよいよ退社を決意する。