
第37回
東京によく雪が降った冬、三浦君と出会った。
昭和59年(1984年)
[ 更新 ] 2023.02.01
僕は“ワンダー・シビック”のニックネームで前年に売り出されたニュー・シビック(ルイ・アームストロングが「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」を歌うCMが流れていた)の新車に乗り始めた頃(先代の愛車クイントは、前年夏、修善寺の川で転落事故をおこして半壊してしまったのだ)で、常に路端に凍結した雪が残る東京の街路を、慎重に運転していた。

著者の手元に残る、59年1、2月頃の残雪の東京写真。
三浦和義とは違う、もう1人の「三浦君」と知り合ったのもそんな厳寒の冬だった。三浦君とはイラストレーター、マンガ家、というより、いまや“サブカル王”といった方がいいかもしれない「みうらじゅん」のことだが、当時は漢字表記も使っていたので、ここでは「三浦純」と書くことにする。高円寺の彼の家(仕事場)に初めて行ったとき、凍結した雪の路面でコケたことをよくおぼえている。それは訪問する寸前の出来事で、しかも僕は友人の結婚式帰りでタキシードを着ていた。あの頃は結婚式(披露宴)というと、新郎でもないのにわざわざタキシードでビシッとキメる(蝶タイの結び方なんかもおぼえた)のが、妙にハヤッていたのである。
この“タキシードの訪問”は、「ビデオコレクション」の僕の担当でもあった〈VIDEO LIBRARY〉(放送される映画や特別番組のタイトルを記したシール集)のページで特集した、怪獣映画の解説に使った彼のイラスト(ゴジラや映画出演俳優などが描かれた)を返却しにいったとき、のことではなかったか……。あいにく掲載誌が手元になく、内容は確かめられないが、国会図書館で検索した各号目次のデータに「カラーラベル 怪獣特集」(昭和58年12月号)というのがあった。コレだろう。
イラストを返しに伺ったのは、年をまたいだ大雪の頃として、この「怪獣特集」のプランが固まったのは前年の晩秋の頃だろう。よく会っていた渡辺和博さんに企画を相談したところ、「みうらって怪獣キチガイがいるから会ってみたら~」と、例のぶっきら棒な調子で勧められた。彼は「ガロ」の編集長をしていた当時の渡辺さんのもとに、よくマンガの持ちこみをしていたらしい。電話で意図を説明して、初めて対面した場所は、新宿の靖国通りのビル地下にいまも健在なジャズ喫茶「DUG」だった。
ロールキャベツで知られる「アカシア」の上の「DIG」の兄弟店としてオープンした店で、アドホック新宿ビルと新宿ピカデリーの間の小ビルに「DUG」の看板はよく目にしていたが、ジャズ喫茶世代より下の僕はほとんど入ったことがなかった。この店を指定したのは三浦君だったのか、あるいはビデコレ関係の取材か打ち合わせで、僕は1、2度使っていたような気もする。
薄暗い階段を下りていった地階の店に僕は早く着いて、ひとりでジントニックを飲んでいた。ジャズがあまりうるさく流れていた記憶はないが、そのうち長髪の細長い顔にサングラスをかけた男が、そろりとした感じで現われた。手に大きなヒモ付きの紙袋をさげているのが目にとまった。
その段階で三浦純という人の姿は知らなかったはずだが、すぐに「彼だ」という気配を感じた気がする。僕がそれとなく目配せすると、「あ~、三浦純と申しますぅ」と、サングラスの見てくれとは違った、腰の低い、申し訳なさそうな調子のあいさつが返ってきた。
「泉さん、あのときもう真っ赤な顔して、すでに酔っぱらっていた感じでしたよ」
その後の彼の話によると、面会前から“出来あがっていた”ような様子なのだが、確かにある種緊張していた僕は、先にジントニックのグラスを2杯くらい空けていたかもしれない。
話が怪獣映画ラベル特集の本題に入ると、「手持ちの資料を持ってきたんですよ」なんて感じで、大きな紙袋のなかからスクラップブックを2、3冊取り出した。ゴジラやキングギドラ、ラドン、ガメラ、ギララ、ガッパ……さらに「ウルトラマン」の怪獣……ブロマイドや雑誌の切りぬきなどが映画会社や時代別にきちんとレイアウトされた、怪獣スクラップ帳というものだった。
「へー、すごいな。実は私も……」
そう、僕も怪獣写真などを貼り付けたスクラップ帳を1冊持参していた。それなりにマニアックな編集者、であることを主張しておこうと思ったわけだが、「怪獣写真など」と書いたのは、怪獣モノばかりではなく、「森永トップスターガム」の当たり券でゲットした王、長嶋、野村……相撲の大鵬や柏戸のブロマイドを貼り付けたページなどもあったからだ。
「あの、時代がごった煮になったような感じが、まさに泉麻人でしたよ」
と、後に三浦君から微妙なフォローをされたけれど、ともかく僕らは「DUG」のテーブルに広げたお互いのスクラップ帳を肴に大いに盛りあがった。
そんな初対面から2、3か月経った厳冬の頃、丸ノ内線の東高円寺駅から近い三浦君のマンションへ向かう道すがら、路面の残雪で滑って転倒したのだ。結婚式帰りでホロ酔いかげんだったのと、タキシード用の履きなれない革靴(さすがにオペラシューズではなかったものの)のせいもあっただろう。
部屋は道路に面した1階だった気がするが、ベルを押して出てきた彼は、ぐしょぐしょのタキシード姿の僕を見て、ぽかんとした顔をした。事前に電話連絡はしていたはずだが、まさかこういう格好で来るとは思わないだろう。書くうちに思い出してきたが、そうだ、泥雪にまみれた引出物の袋もさげていたのだ。
ところで、この訪問が印象に強く残っているのは、大雪やタキシードで転んだせいばかりではない。彼のこの部屋には、もう1人、奇妙な住人がいた。
玄関口のすぐ向こうにまずその男の部屋があって、そこを通らないと奥の三浦君の部屋にいけないつくりになっていたのだが、そんな玄関先の部屋にいた、確か山陰の方の県名と同じ名の男は6畳ほどの間に置いた四角い卓のコタツにうつぶせ姿勢で潜りこみ、客人には目もくれず本を読んでいた。この光景はやがて浦君のマンガによって、よりいっそう印象づけられたのかもしれないが、それは始終コタツに浸っている同居人がガメラのような怪獣と化して空を飛ぶ──「コタツガメラ」という作品だった。
三浦君との交流も深まった春の頃から、三浦和義のロス疑惑に続いて世間を騒がせたのが「グリコ森永事件」だった。
3月に起こった江崎グリコ社長の誘拐に端を発するこの事件は、その後「青酸(ソーダ)」入りの菓子と「かい人21面相」を名乗る犯行グループが菓子メーカーやマスコミに向けた脅迫文に焦点が当たり、いわゆる「劇場型犯罪」の原点として語られるようになった。
青酸系薬物を使った謎めいた事件は、終戦直後の「帝銀事件」を想起させるようなところもあり、現金の受け取り方法などは黒澤明の昭和38年の映画「天国と地獄」を、さらに言葉遊びめいた脅迫怪文は同じ頃に世間を震撼させた「草加次郎事件」を思わせた。
「かい人21面相」というのは、もちろん江戸川乱歩「少年探偵団」(怪人20面相)のもじりだろうが、なんといっても「警察はアホや」調の文章が、京阪神舞台の事件ならではのとぼけたコメディー感を醸し出していた。
そういうムードに乗ったのか、現金受け渡し時に現われた男は、似顔絵をもとに「キツネ目の男」というキャラっぽい名で呼ばれるようになり、グリコ社長宅からも近いファミリーマート甲子園口店に青酸入り菓子と思しきものを置く様子が防犯カメラに映りこんだ男には「ビデオの男」の俗称が付いた。
いま、ああいう装置に録画された男を「ビデオの男」と呼んでもピンと来ないだろうが、あの当時はビデオというのを一種のトレンド語として、マスコミは使いたかったのだろう。ファミリーマートのようなコンビニエンスストアーもようやく増え始めた頃で、いまどきの事件資料には「コンビニ」と記されているが、まだそんな省略系は通じなかった頃である。
防犯ビデオカメラやコンビニエンスストアー、ファミリーレストランなど、トレンディーな装置や場所も登場したが、どことなく昭和20、30年代のアナクロ感が漂う事件だった。
そういえば、背広姿に野球帽を被った「ビデオの男」は、一見「街かどテレビ11:00」で静かな人気を呼んでいた大木凡人に似ていた。