
第36回
「スリラー」のPVがクリスマスイヴに流れた。
昭和58年(1983年)
[ 更新 ] 2023.01.17
たこさんのインタビューが掲載された号がいま手元にないので、細かい年月はハッキリしないのだが、おそらくこの年(昭和58年)の夏から秋の頃だと思う。「笑っていいとも!」の水曜レギュラーに決まったのが58年4月からで、『たこでーす。』(アス出版)という自叙伝的な本(表紙のタコの絵は渡辺和博さんだろう)の発売が9月なのだ。それに合わせたのか、新聞の番組表の「笑っていいとも!」の欄にも〈たこ八郎の珍体操〉というコーナー名が記されていて、ブレイク感が伝わってくる。「いいとも!」を中継する新宿アルタの楽屋におじゃましたことをおぼえているが、たこさんはタヨッとしたステテコシャツ一丁の姿だったはずだ。
こういう芸能人の取材の場合、だいたいはマネージャーを介して後日ギャラを振り込むことになるのだが、たこさんの場合は窓口になっているような人から事前に「当日、本人に現金で渡してやってください」と言われて、確か経理部から前借りした2万円くらいを持参していったのだ。
そして、アルタの楽屋まで伺ったものの、「新大久保の飲み屋で話したいんだよねぇ」みたいなことをたこさんから提案されて、そちらに場所を替えた。そこは、当時山手線の車窓からも見えた「彦左小路」というアーチ看板の出た横丁で、ゴールデン街のような2階建てバラック調の建物が2本の筋に数軒ばかり並んでいた。その1つにたこさん、ひょこひょこと入っていって、立ち飲み屋の2階の6畳くらいの空き部屋でインタビューは行われた。
たこさんはカップ酒(ワンカップ大関だったか)と、大袋に入ったツナピコ(小さな固形の味付けツナを銀紙で包んだ乾物)をのべつまくなし口に放りこんでいた。ともかくツナピコが大好物だったらしい。
たこ八郎が真鶴の海で溺死するのはこの2年後、昭和60年の夏のこと。このとき、「週刊文春」で糸井重里が主宰していた「萬流コピー塾」の特別版みたいな企画で熱海に行っていて、旅館でコピー審査座談会みたいなのを終えた翌日、糸井さんたちと入った熱海のラーメン屋のテレビでそのニュースを知ったのだ。僕は帰路、新幹線が真鶴付近を通りがかったあたりで「ツナピコ」を思い浮かべて黙禱した。
たこ八郎の関連記事を探す目的もあって、国会図書館で手にとった朝日新聞の昭和58年4月の縮刷版に“ノーパン喫茶の名に「ニナ・リッチ」 イメージ壊された本家が訴え”なんていう記事(4月7日夕刊)を見つけて、にんまりした。
ノーパン喫茶の最初のブームは2年ほど前のことで、一旦下火になったもののこの年の後半あたりから高級感のある“個室ノーパン”として再燃する。そんな第2次ブームの中心にいたのが歌舞伎町の「USA」という店の「イヴちゃん」というアイドル嬢で、「トゥナイト」の山本晋也レポートなんかで紹介されて、やがてロマンポルノにも主演した。翌年(昭和59年)のビデコレをめくっていると、イヴちゃんのビデオ広告がよく載っている。もう少し時期がズレれば、僕が構成していたインタビューページにイヴちゃんのゲストもアリだったかもしれない。「時の人」でいうと、この年の5月号のビデオカメラ商品のタイアップ企画で「林真理子のルンルン・ビデオ術」というのをやっている。
そう、先の4月の縮刷版に「戦場のメリークリスマス」の広告が載っていたが、大島渚のこの映画はクリスマス・シーズンではなく、5月だったのだ。坂本龍一の音楽はその後すっかり“スタンダード”になったが、「メリークリスマス、ミスター・ローレンス」の一言が決まったビートたけしは、これ以降、オシャレな文化人のイメージが付いた。
ところで、当時僕がビデオまわりのネタで最も興味をもっていたのがアメリカのMTV局から火が付いた、音楽PV(プロモーションビデオ)の世界。全米ビルボードチャートの人気PVを毎回紹介するような連載企画は会議で通らなかったが、話題のPVを何作か集めた特集をやったことがあった。ブライアン・ギブソンが演出したスティクス「ミスター・ロボット」のSF短編調のPVを柱にしたはずだから、この曲がビルボードの上位にいた春頃だろうか。
ロボットがロックオペラを展開する「ミスター・ロボット」のPVは「ドモアリガト」(どうもありがとう)と彼らの口から繰り返される日本語も話題になったが、日本語ネタのPVといえば、なんといってもカルチャークラブの「ミス・ミー・ブラインド」だ。のっけから、欧米人が誤解したファー・イースト……といった風なセット(書割に富士山や城が描かれている)の前に舞妓さんが現われたり、タイの仏像みたいな踊り子たちが出てきたり、路地のような所には「江戸」とか「甘酒」とかの習字紙が貼り出され、さらに「恋の盲目」なんていう奇妙な日本語が表示される。どうやら舞妓のような女は八百屋お七がモデルらしく、火のついた城の模型をギターを抱えたロッカーと一緒に叩き壊しながら「メラメラと燃えている」というフレーズを唱えながらPVは終わる。まぁ、これは明らかに「ブレードランナー」の「強力わかもと」看板の世界に触発されたものだろう。
「戦メリ」に役者で出ていたデヴィッド・ボウイの「レッツ・ダンス」、メン・アット・ワークの「ダウン・アンダー」、デュラン・デュランにホール&オーツ、ヒューマン・リーグ、アイリーン・キャラ……目ぼしいヒットシンガーのPVのカットをもとめて、宮沢クンという若いカメラマンを連れて、いくつかのレコード会社を巡ったことを思い出す。プレス用に宣伝部がPVの代表的カットをポジフィルムにして用意してくれているところもあったが、VHSに収めたPVを会議室のテレビで流しながら、カメラマンに接写してもらうことが多かった。宮沢クンは適確なカットをオサえてくれる接写名人だったが、後に赤外線フィルムを使った女性モデルの写真集でブレイク、宮澤正明の名で知られる巨匠となった。
訪ねたレコード会社のなかで、記憶に強く残っているのがエピックソニーだ。青山のツインタワービル(23階建ての西館8階だったらしい)という“トレンド・スポット”だったのも関係しているかもしれない。以前、「宣伝会議」のコピーライター養成講座の話でふれた佐野元春がエピック邦楽勢の花形だったが、洋楽ではメン・アット・ワークがここの所属だった。オーストラリア出身のメンバーが砂漠で珍道中するような「ダウン・アンダー」のPVの接写は、ここの会議室で行ったのではなかったか……。
しかし、エピックといえばなんといってもマイケル・ジャクソンである。「オフ・ザ・ウォール」からエピック所属になったというが、この年は頭から「ビリー・ジーン」「ビート・イット」「スリラー」(すべてアルバム「スリラー」にフィーチャー)とシングルが大ヒット、どれも曲と同時にPVの画像が浮かぶMTV時代のポップスターの座を確立する。
ハードボイルド調の「ビリー・ジーン」、「ウエストサイド・ストーリー」を思わせる「ビート・イット」と、マイケルも徐々に芝居づいてきて、ジョン・ランディスがメガフォンを取った「スリラー」へと続く。

この年、日本でも大ヒットしたマイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」。
「スリラー」のシングル発売は前2作よりかなり遅れた11月で、ビルボードチャートで上位に入るのは翌年になってからだったが、12月10日にアメリカのMTV局で初公開された15分近くあるPVが大きな話題となって、わが日本の「ベストヒットUSA」でも12月24日のクリスマスイヴの夜にオンエアされた。
赤いスタジャンを着たマイケルがガールフレンドの前で狼男に変身する、1950、60年代アメリカン・スリラードラマの雰囲気で始まるこのPVは、録画まではしなかったが、待ち構えて観た記憶がしっかりと残っているから、放送前から話題になっていたのだろう。小林克也(番組VJ)が前々週くらいから宣伝していた記憶がある。「オレたちひょうきん族」が、ウガンダをマイケルに仕立ててコレをすぐにパロった話は以前にも書いた。
この「スリラー」以降、曲の前後に寸劇を入れたり、スタッフを記したエンドロールを付けたり、映画的なPVが流行し、最近もその種のものをTVKの「ビルボード・トップ40」なんかでたまに観る。このPVにメイキングシーンを加えたVHSやレーザーディスクもやがて発売されてベストセラーになった。
ビデコレの59年2月号に「MTVは日本に根づくか」というテーマの対談が載っている。対談者は僕もよく知る渋谷陽一とTVKで“日本版MTV”的な番組を始めたプロデューサーの住友利行。僕がこの対談に立ち合ったおぼえはあまりないのだが、2月号だから、対談自体はこの年(58年)の暮れ頃だろう。当然、マイケルの「スリラー」の話が所々に出てきているが、日本のミュージシャンのPVについても言及されている。住友氏が良い(カッコいい)PVが作れそうなミュージシャンみたいなニュアンスで、芝居のできるサザンの桑田佳祐とラッツ&スターの名を挙げているが、質はともかくとして、当時PV的な画像をよく観た印象が残っているのはチェッカーズだ。
画像トラブルで黒くなったようなチェッカーズがある種ロボット風の動きで「ギザギザハートの子守唄」をパフォーマンスするというシンプルなつくりだったが、デビュー(9月)からしばらく夜更けのテレ東なんかでこのPVがしつこく流れていた。
〈付記〉高橋幸宏さんの訃報(2023年1月11日死去 発表は15日)が反響を呼んでいるが、おもえばこの年の春にカネボウ化粧品CMのタイアップ曲にもなったYMOの「君に、胸キュン。」のPV──3人がアイドル風にスケーター・ダンスを踊る──は、こういう和製MTVを意識したものかもしれない。