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第34回

浦安のディズニーランドとラブホテル「1983」
昭和58年(1983年)

[ 更新 ] 2022.12.15
 この連載エッセーに使えそうな古い写真をぶちこんだ缶箱の中から、「ビデオコレクション」誌の編集部一同で撮った集合写真が1点見つかった。背景にライトアップされたシンデレラ城が映ったこの場所は「東京ディズニーランド」に違いない。この年(昭和58年)の4月15日が開業日だが、始まって割と早くに行った記憶があるし、ほぼみんな半袖にベストなどを羽織るくらいの夏服だから、5月、6月頃か……。写真を撮影したのは帰り際の夕刻と思われるが、前日は確か雑誌の校了日で、徹夜明けにそのまま車に分乗して繰り出した……という記憶がある。開園時間まで車中で仮眠なんかしてツブしていたのだろうが、そんな寝不足状態も手伝って、時差のあるアメリカの本場のディズニーランドにやってきたような気分になった。


シンデレラ城をバックに記念撮影。中央左が著者。

 ネットにアップされていたオープン当初の園内マップを参照すると、シンデレラ城の周囲に、スペース・マウンテン、イッツ・ア・スモールワールド、ホーンテッドマンション、カリブの海賊、といった大物アトラクションはすでに存在している。実は僕、昭和54年の項(第18回)で書いた“アメリカ卒業旅行”の折にフロリダ(オーランド)のディズニー・ワールド(マジック・キングダム)にも立ち寄っていたが、そのときはブエナビスタ湖と名づけられた人工湖の畔で、柵に座ってハシャいでいたお調子者の友人が湖に転落する(幸い浅い所だったので無事だった)事件があったので、アトラクションの記憶はすっ飛んでしまった。
 おそらく東京で初乗りしたスペース・マウンテンは、どこまで暗闇の底に落ちていくのかわからない……インドアのジェットコースターならではの構造に驚かされた。まだ日本のアナログなお化け屋敷しか体験していなかった者にとって、ホーンテッドマンションの3D的な幽霊は刺激的かつロマンチックだった。仄暗い水路の奥から絶妙な感じで海賊たちの歌や銃声が漂ってくる、カリブの海賊の世界にも魅了されたが、ヘンに印象に残っているのが、イッツ・ア・スモールワールド。たぶんこの最初の来場のときだったはずだが、途中で音声装置が故障したのだ。あの可愛らしいメロディーは聞こえず、ただ人形たちが無音で口をパクパクやっている光景は、ホーンテッドマンション以上にホラーだった。
 ちなみに、JR京葉線の開通に伴って舞浜の駅が開業したのはこれより5年後の昭和63年の12月のことだから、開園当初は車で行くか、あるいは公共交通の場合は東西線の浦安で降りて、京成の路線バスでとろとろと埋立地の方まで南下していく、しかなかったのだ。
 ドライブに燃えていた27、28の僕は首都高の湾岸線を愛車の初代ホンダ・クイントで走っていくことが多かったが、土日や夏休みは葛西の出口あたりから大渋滞するのが常だった。そこで「少し先の浦安出口まで行って、鉄鋼団地のなかを通りぬけていくのがいい」みたいな裏道ルート情報が出回った。この進路がけっこうわかりにくくて、メルヘンなミッキーやドナルドの世界に行きつく前に「鉄鋼団地」の道路表示の出た、殺伐とした倉庫街をぐるぐる迷走したことを思い出す。鉄鋼団地もディズニーランドも、この20年も前まではノリ養殖のひびなんかが浮かぶ、漁村・浦安の海の沖だった一帯なのである。
 東京ディズニーランドの登場によって、それまでの遊園地は刺激の乏しい、時代おくれの遊び場となり、どこも新種の“絶叫マシン”の導入に頼らざるを得なくなった。まぁ、ノスタルジックな場所として愛好するようなマニアは出てきたものの、バブル景気を過ぎた頃には閉業する遊園地も増えてきた。
 この数年後くらいから「としまえん」の奇抜な広告が人気を呼んだが、ディズニーランドが来なければ「史上最低の遊園地」みたいな、ああいう逆説的な宣伝は生まれなかったのだろう。
 そして、遊園地の世界に留まらず、ディズニーランド化したスポットがいろいろと現われる。たとえば、スカシたオトナが夜更けに酒(カクテル)を飲みにいく場所だったカフェバーも、この年に表参道に出現した「キーウエストクラブ」によって、その概念が大きく変わった。
 7月に写真週刊誌風にリニューアルされた「週刊HEIBON(平凡)」で任された巻頭コラム(CELEBRITY WATCHING 有名人間大好き!)で、僕はこんなことを書いている。

原宿の表参道にある「キーウエストクラブ」というカフェレストランに猛暑のさなか、長蛇の列ができている。この列は、3年前、青山の『ボートハウス』というファッションブティックに発生した列と同種のものだ。列が長いほど、人々は興奮する。火事場におけるヤジ馬群集の心理である。ヤジ馬に加わったときに、本編である“火”のほうは消えかかっていてもいい。中身はそれほどでなくても、とりあえずその場には参加しておきたい。
(昭和58年9月1日号)

 これは、大ヒット中のNHKの朝ドラ「おしん」について言及した文章の一節なのだが、ここで論じている行列心理のようなものは、ディズニーランドのアトラクション待ちの人の列にもいえることだった。この文章にキーウエストクラブの外観や店内の様子は書かれていないけれど、表参道交差点から少し原宿寄りの神宮前五丁目の信号脇に存在した店は、アメリカ西海岸のリゾートビーチにあるような純白の建物で、入り口の看板灯や高い天井にシンボルの飛行船の模型が設置されていた。
 夜もライトアップされて営業していたが、「猛暑に長蛇の列」と書いているように、むしろ日中にオチャするファミレス気分のスポットで、カフェバーの1つとして語られていたものの、「レッドシューズ」なんかのムードとはかなり異なるので、僕は“カフェレストラン”と表現したのだろう。翌年(59年3月)に封切られた映画「パンツの穴」で、中学生役の菊池桃子がボーイフレンド(山本陽一)とここでデートする場面がちらっと出てくるけれど、実際こういうローティーンも訪れるような、ディズニーランド気分のカフェバーだった。よって、カフェバーはその言葉自体がオトナには恥ずかしくなってきて、ショットバーと呼んだり、インテリアとしてビリヤードを置いた(たまにやる人もいたが……)「プールバー」というタイプの店がトレンドになる。地方に行くと、「カフェバー」と冠したどうってことない飲み屋を見かけるようになったが、こういう店の俗化は昭和40年代のスナックと同じである。
 室内を可愛らしいヌイグルミで装飾したり、小さなプールを置いたり、ピンボール機を設置したり……ディズニーランドに刺激を受けたようなラブホテルも増えてくる。若い僕はそういった場所にも行ったけれど、思い出されるのは「ホテル1983」と、この年の西暦年号をそのまま店名に使った渋谷のラブホテルだ。ラブホ、といっても、確か田中康夫が“ブティックホテル”と称していた、ケバケバ感を取り除いた、洗練されたシティーホテル調の佇まいだった。
 その「ホテル1983」に初めて行ったときのことはよくおぼえている。いまの渋谷のラブホテル街というと、道玄坂裏から神泉にかけての円山町界隈が浮かぶだろうが、あの当時は公園通りの裏方あたりにも散在していた。とくに、渋谷の方から坂を上っていって、パルコの先の交差点の右奥。ちょうどこの頃、「スウェンセンズ」というゴージャスな感じのアイスクリームを出す店の横の坂道を上っていったあたりにラブホテルが何軒も並んでいた。
 そのラブホテル筋の入り口あたりに「ナンバー2」という、きれいめ・・・・のラブホがあると聞き、当時つきあっていたヒトと覗いたところ、なかは満室で「最近こういうのもオープンしたんですよ、ちょっと遠いですけど」なんて感じで受付の人から「ホテル1983」までの進路を記した略地図を渡されたのだ。
 場所は、道玄坂を坂上まで行って、旧山手通りの神泉町交差点を右折、すぐに淡島通りの方へ左折して、東京トヨペットの中古車センターの横道を入った奥だった。パルコあたりからけっこうな距離だったが、愛と青春の力はすごい(車を拾ったのかもしれないが)。そこは、デザイン事務所が入っているような白壁の小型ビルの頂きに〈HOTEL 1983〉と、淡いブルーのネオン管で記しただけの瀟洒な建物だったが、向かい側やその奥には♨(逆さクラゲ)の紅灯を淫靡にともした“連れ込み宿”時代の旅館とコンブみたいなノレンをくぐって車ごと入っていくモーテルが並んでいたはずだ。
 受付で人と入室のやりとりをすることなく、玄関に設置された各室の写真入りのキーボックスのパネルを操作して、好みの部屋のカギを手に入っていく──なんてアプローチにもまだハイテク感を覚えた。そして、室内に用意されたバスローブやティーカップの柄はブルーストライプに統一され、「1983」のロゴがブランド気分で刻まれていた。
 最も印象に残っているのは、料金精算の方法。壁の一隅に設置された懐中電灯みたいな格好のカプセルに万札を挿入してセットすると、壁の内部のパイプライン(いわゆるエアシューター)を通って受付へ届き、やがてオツリやレシートを入れたカプセルが戻ってくるのである。
 ここの支店なのか、亜流なのか……程なくして「1984」の看板のホテル(モーテルか)が第三京浜の港北インターのあたりに見られるようになったが、こういう年号モノのスポットというと、六本木通りの青山トンネルをくぐった先の青学裏の邸宅街の一角に、「ハウス・オブ・1999」という古い洋館を使ったフランス料理屋があった。
 古い洋館……という表現はよく使うが、ここのお屋敷は玄関先に立派な石造りの車寄せが突き出していて、戦前の映画に出てくる富豪の住まいを思わせる本格洋館だった。僕は、友人の結婚式の2次会と何かのパーティーで入ったことがあったが、レストランフロアーの下の地下室のような所に小さなプールがあって、酔っぱらったタキシード姿の男が飛びこんでハシャいでいた光景がぼんやり目に残る。
 最近調べたデータによると、明治中期にタバコ販売などで財をなした千葉直五郎(先代は天狗煙草の岩谷松平、村井商会の村井吉兵衛らと並ぶタバコ王の1人だったという)という男が子息の住居として昭和9年に建てたものらしいが、当時は確か「小佐野賢治の別宅、あるいは近親者の家」という説が出回っていた。その信憑性はともかく、僕が所持する1972年の渋谷区住宅地図には「ゼネラル石油渋谷寮」と記されているから、持ち主はいろいろと変わったのかもしれない。
 1999というのは、デカダンスな雰囲気のクラシック洋館をあえてあの当時から見た“世紀末の近未来”にイメージした……みたいなコンセプトだろうか。バブルの時代もノストラダムスの予言の1999年ももうとう・・に過ぎてしまったが、このお屋敷、いまも〈ミュージアム1999〉の表札を掲げて、貴族気分でフランス料理を愉しめるスポットとして健在のようだ。
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