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第33回

ワンレンもカリアゲもいた霞町のカフェバー
昭和58年(1983年)

[ 更新 ] 2022.12.01
 手元の資料に雑誌「JJ」が89年6月(平成元年)に創刊15年を記念して付録にした“歴代の記事や表紙”を集めた冊子があるのだが、これを何気なくめくっていたら女性のヘアスタイルの変遷を紹介するページがあった。この年(昭和58年)にワンレングスが登場している。
 「流行の震源地、関西から、また生まれたお嬢さんらしいスタイル」と解説がある。髪の片側を少しロングにして、顔の隅を隠すように垂らしたヘアスタイルは「柔道一直線」の頃の近藤正臣を連想させるものもあったが、やがてワンレンの略称が定着、リニューアルされながらバブル期のダブル浅野(温子とゆう子)のブームの頃までハヤッていた。震源地の関西というのは神戸・三宮界隈だろう。
 そんなワンレンっぽい髪型をしていたこともある小林麻美が3月集計のアンケート(JJでとりあげてほしい人物)の女性部門で1位になっている。ちなみに2位・松田聖子、3位・松任谷由実、4位が夏目雅子と中森明菜、5位・楠田枝里子(確かにブレイクしていた時期があった)と続いているが、小林の日常ファッションの歴史を辿った特集もあって、この年の9月号では、ビバリーヒルズのポロで買ったというコットンセーターに白いパンツ、というマリン風アメカジ(JJ誌は“ニューベーシック”と謳っている)のコーデが披露されている。当時あまりテレビや映画に露出していなかった彼女は、こういうファッション系女性誌(ananなども)でセンスの良い私服やスポットを紹介する水先案内人のようなポジションにいて、それが翌年(59年)の「雨音はショパンの調べ」のヒット(曲はガゼボだが、日本語詞はユーミン)にじわwじわと効いたのかもしれない。
 そして、表紙はこの年の初めからしばらく樫本知永子(後の黒田知永子)が務めている。「JJ」ではその後、僕も原稿をよく書くようになったけれど、当時お世話になっていた女性誌というと、まず「Olive」(オリーブ)だ。「POPEYE」の兄誌として創刊されたのは前年(昭和57年)の6月だったが、僕はその3号目(隔週発売)からオカシ屋ケン太の名義で「おやつストーリー」というのを連載していた。
 町の菓子屋で買える製菓メーカーのチョコやキャラメルを中心に“おやつ的なモノ”を紹介していくエッセーで、文末にネタに似合うBGMを2、3曲入れる、というスタイルだった。年の初めあたりからのネタを見ていくと、「ブルーベリーヨーグルトスコッチ」(ロッテ)、「カレーキャラメル」(古谷製菓)、「おひるだよ」(ロンド)……もはや消えてしまった商品も多々あるが、「都こんぶ」とか「アーモンドグリコ」とか、あの頃すでに息の長い定番になりつつあったものを取りあげた回も見られる。
 横浜中華街で細々と売られていた「椰子糖」という飴を「松任谷由実さんから間接的に頂戴した」という前振りで紹介しているが、ユーミンはこのコラムを愛読していて、編集者を通じてコレを受け取ったとき、舞いあがるような心地になった。秋にリニューアルした「週刊平凡」のインタビュー企画で彼女と初めて会ったのが、この年の暮れの頃ではなかったろうか。
 その「椰子糖」を僕に受け渡した担当編集者のS氏は、オヤジさんが東宝の娯楽映画の監督さんと聞いて、改めて見直した「駅前」シリーズのクレジットにその名前を確認してヘーッと思った。S氏が僕に読者からの興味深い手紙を見せてくれたのは、ユーミンの「椰子糖」より少し前の春先の頃だったように思う。それは手紙というよりも、便せん7、8枚に及ぶ一種の投稿文で、東京周辺の女子高生の生態・・をシニカルなタッチで分析したものだった。僕が「ポパイ」に書いた〈間違いだらけの大学受験要覧〉(前回紹介)を明らかに意識した内容だったが、一読しておもしろかった。手紙の主は、ユーミンと同じ立教女学院の高校に通う酒井順子さん。ただの女子高生の“おもしろ投稿”を超えた文才を感じた。
 ちょうどそれを読んだ頃、編集をしていたビデコレのTV映画番組インデックスのページ脇に小コラムを設けることになって、コラム執筆陣の1人として彼女に声をかけた。肩書は「女子高生」、筆名は本名を少しいじった「赤井旬子」というのを彼女が提案してきた。10回くらいは書いてもらったコラムの掲載号がいま手元になくて、原稿の内容はよくわからない(映画そのものより場内の客観察のような話を注文した気がする)が、渋谷のスペイン坂の中腹あたりの喫茶店(サムタイムといったか?)で何度か原稿を受け取った記憶がある。
 僕は当時の「オリーブ」で、オカシ屋ケン太の他にも「ミナモト教授」やら「アボワール徳川」やらの別名を使って、オリーブ少女向けの“笑える恋愛マニュアル講座”みたいなページ(当初は「愛のハイスクール課外授業」、後に「オリーブ少女の面接時間」)をもっていたのだが、こちらの方でも酒井さんに「アシカガ助手」なんていうふざけた名を付けて、手伝ってもらうようになった。やがて彼女は「マーガレット酒井」の名義でこの企画をより充実した読みものにしていった。


著者がいくつかの筆名で書いていた「オリーブ」のコラム。

 酒井さんのような書き手とは別に、女子高生まわりのハヤリとか恋愛のエピソードとかのネタを提供してくれる、いわゆる読者モニターの女の子たちが何人かいた。S氏がどこからか集めてきて、何度か会議室でティーパーティーのような感じで彼女たちの雑談を聴取したおぼえがあるけれど、そのうち直接電話をかけて話を聞くようになった(当時はみな家の固定電話だったので、親御さんが最初に出るとそれなりにドキッとした)。雑誌の性格柄“ミッション系お嬢さん校”の女子が主体だったが、多摩川の向こうの川崎や横浜局番の常連の子が2、3人いて、僕は漠然とニュータウンの時代を感じた。二子玉川あたりの店(「チーズケーキファクトリー」とか)の話題がよくもち出され、ニコタマという省略語を耳にしたのは、彼女たちとの座談が最初だった気がする。そう、いまやすっかり普及した「何気なにげなく」を「何気に」と略する話法も、彼女たちはすでに使っていたはずだ。
 ポパイの妹分ゆえ、当初のオリーブ少女のファッションはアメカジ(プレッピーといってもいいか……)系だったが、この年の秋あたりから「リセエンヌ」のキーワードのもと、オフランスな上品少女の路線に変わって、それっぽいDCブランドがオリーブ少女の定番服として広まっていく。金子功のピンクハウス、大西厚樹のアツキオオニシ……いわゆる「82年組」あたりからはこういうスタイリッシュなDCブランド服がアイドルたちの重要なアイテムになっていくのだ。
 DC──はデザイナーズ&キャラクターズの略語らしいが、当時はC無しのデザイナーズ・ブランドの呼び名の方が主流で、その筆頭はなんといっても川久保玲のコムデ・ギャルソンだった。80年代初頭のパリコレから火が付いたという“黒づくめの服”がトレードマークとなって、マハラジャ系のディスコがハヤるまでは“黒服”といえばコムデ(もしくはコムデっぽい服)を着て表参道あたりをアンニュイな感じで往来するカリアゲ女……を意味していた。カリアゲ、というのは、コムデ服を愛好する女性には、うなじをバリカンなどで刈りあげたショートヘアのタイプが多かったからで、親しくなったイラストレーターの渡辺和博さんは、「JJ」のニュートラ系とは相対する、「anan」のスタイリストなんかを刈りあげてなくても「カリアゲ」と総称していた。
 そう、そんな畏友・渡辺(通称ナベゾ)氏と、よく立ち寄って、人間観察を楽しんだ場所にカフェバーというスポットがあった。
 ──あ、カリアゲが来たね
 ──ピテカン(トロプス)から流れてきた
 ──向こうのワンレンは?
 ──電通バイトでしょ
 なんて調子でボソボソと、お客のプロファイリングに興じていた。
 カフェバーの呼称がどういった経緯で定着していったのか……ハッキリしないが、その草分けとされる西麻布交差点近くの「レッドシューズ」という店は、珈琲も飲めるカフェではなく、夜更けにカウンター席でカクテル系の酒を楽しむ“ショットバー”に近い形態だった。入るとU字形(けっこう奥に長い)のカウンターがあり、ナベゾ氏に導かれて初めて行ったとき、奥の方に井上順の姿が見えたことをまだおぼえている。この年あたりによく聴いていたスクーターズという女性ボーカルバンド(マーサ&ザ・ヴァンデラスの「ヒートウェイヴ」を日本語で歌っていた……)のライブの告知を見て、仕事で行けず悔しい思いをしたことも記憶する。
 この店が発端だったのかどうかは定かでないが、BOSEのスピーカーを壁のコーナーに設置して、英米ミュージシャンのPV(カルチャー・クラブの「タイム」をよく見た気がする)がTVモニターから流れている……なんていうのがカフェバーの様式になった。
 地階の「レッドシューズ」と同じビル(いや隣りだったか?)の中2階のようなフロアーに、その後支店を増やす「ラ・ボエム」があったが、こちらはカフェバーのもう1つの神器ともいえる天井扇(シーリングファン)がコロニアルに回っていた。ここの名物メニューとしてブレイクしたのがイカスミのスパゲッティー。とんねるずが売り出し中の頃に「ラ・ボエムでイカスミのスパゲッティーを食べるワンレンの女」という形態模写ネタを、よく木梨憲武がやっていた。
 この年の11月に発売されてベストセラーになったホイチョイ・プロダクションの『見栄講座』にもカフェバー(ビデオバーとも分類されている)の法則のようなことが書かれた項目がある。
 「ビデオ・バーが最もたくさん集まっているのは、霞町の交差点(港区民は、間違っても西麻布の交差点と呼んだりはしません)の周辺でしょう。」
 片ページに周辺の案内地図が載っているが、トミーズ・ハウス、クーリーズ・クリーク、タクシー・レーン……と、その名になじみのある店がいくつかある。
 そう、とんねるずの「雨の西麻布」がヒット(昭和60年)して西麻布の地名がより俗化するまでは、わざわざ「霞町」という昭和40年代初頭までの旧町名にこだわる傾向が東京人にはあった。秋元康もベタに「雨の西麻布」にしようか、ちょっとシブく「雨の霞町」にしようか、多少迷ったのではないだろうか……。
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