
第32回
飯倉のキャンティで田中康夫をインタビューした。
昭和57年(1982年)
[ 更新 ] 2022.11.15
開くと、最初の見開きが東芝のビデオデッキ、その次がTDKのビデオテープ、パイオニアのレーザーディスク、マクセルのビデオカセット(テープと同じだが、こちらはカセットと称している)……と、大手のグラビア広告が続き、裏表紙はビクターのビデオテープだから、いわゆる“創刊号の御祝儀”を考慮しても、ニューメディアの時代の幕開けを感じさせる。ちなみに、以前“アイドルの歌シーンを録り集めた120分のビデオテープが4000円台”と書いたけれど、この最初の見開きに広告が載った東芝の〈ビュースターD5〉というベータ方式のビデオデッキの価格は21万5千円だ。
さて、本編の頭はホンダの小型車「シティ」のCMでブレイクしたマッドネスのインタビュー。これは本誌独占の生取材というわけではなく、現地(イギリス)の記事を買いつけたもののようだが、“構成・萩原健太”とある。僕はこのページの担当者ではなかったけれど、原稿の受け取りを頼まれて、青山3丁目のVANの先(千駄ヶ谷方向)のマンションに出向いたのが、彼との初対面だった気がする。
そんなマッドネスの記事の後に「E.T.」などのSF系ビデオゲームの紹介があって、山本益博がビクターのVHS式カメラを持って築地市場のセリをルポする、というタイアップっぽいページがある。山本氏は「東京 味のグランプリ」のヒットで演芸評論よりもグルメの辛口評論家として注目されはじめた頃だろう。
そして、〈VIDEO PEOPLE TALK〉と題した、勝新太郎のインタビューが載っている。こちらはライブ感漂う生取材モノだが、文末に記された会場の“六本木・東風”というのがあの時代らしい。
冒頭にドラマ「警視‐K」の話題がもち出されている(放送は2年前の1980年秋冬)けれど、勝新自らメガホンを取ったアナーキーな刑事モノで、山下達郎の曲(MY SUGAR BABE)がエンディングテーマ曲に使われているのも斬新だった。もっともこれは演出に凝りすぎて「セリフが聞きとれない」とか「ストーリーが無茶」とか、悪評が先行したドラマで、僕もオンタイムではほとんど観ていなかった。
「この3時間はよどみなく流れる言葉によって、勝新太郎のいろいろな情景が飛び出してきた。眼の前にある灰皿やビールは小道具に早がわりし、カメラマンはエキストラになり、インタビューの場所は勝新演出の現場になっていった──」と、取材・構成の清水俊夫氏は書いているが、酒に酔っていい調子で一人語りする、80年代初頭の勝新の暴走感が記録されている。

「ビデオコレクション」創刊号。背表紙の〈総合ビデオ情報誌〉の文字が目立つ。
カラーグラビアのページが終わって、モノクロのページの中心を占めるのが市販ビデオソフトのカタログである。インデックスに載っているのは「日本映画」が約30作、「外国映画」はまだ7作で、「歌謡曲」「カラオケ」などの音楽モノが続き、「ゴルフ」「スキー」などのスポーツモノのなかには「ニュースポーツ」の項目で「アントニオ猪木 血戦十番勝負」という10巻のプロレスビデオが紹介されている。
が、ラストに正統の映画作品を上回るような数でリストアップされているのが「ポルノ」だ。アから順に「愛染恭子・華麗なる追憶」「藍ともこ・グッバイストーリー」「荒木経惟の『ビデオLove宣言』」……発売元で目につく「宇宙企画」の名が懐かしい。ビデオの世界もエロなポルノ(当時まだAV=アダルトビデオの呼称は普及していなかった)から広がっていった、といわれているが、ソフトの主流は30分モノで1万2千円、愛染恭子の90分モノなどは2万円の値を付けている。レンタルビデオ店が普及するのは80年代の後半だから、こういう初期のタイトルはどれも“お宝”だったのだ。
マッドネスや勝新太郎のインタビューの他にもう1つ、巻末の方に僕が自ら取材して原稿にまとめる〈Play-Back Interview〉という連載インタビューページがあった。見開きで3000字ほどのボリュームだったが、これは人選の段階から力が入っていた。第1回目のゲストは田中康夫。当時「笑っていいとも!」で山本コウタローと時事放談のコーナーをもっていたので、こういうカルチャー(軽チャー、という造語もあった)なセンを狙った新しいTV情報誌の初回ゲストにはぴったりだった。とはいえ、アンチ田中派もけっこう多く、会議で彼の名を挙げたとき「えっ、田中康夫ぉ?」と副編のFさんに露骨に嫌な顔をされたのをおぼえている。
そんな状況も踏まえて、僕はこんなリード文を付けている。
「江川卓、タモリ、ビートたけし……。ダーティーヒーローの時代と言われている。“クリスタル作家”として世間を騒がせ、その後“変態”とののしられた田中康夫も一種のダーティーヒーローかも知れない。東京は飯倉のレストラン・キャンティで、ペリエを飲みながら、田中康夫はなぜ嫌われるか悩んだ。」
以下、書き出し(語り出し)部分もちょっと紹介しておこう(VCというのはビデコレ側の僕だ)。
VC ところで最近は嫌われてますか?
田中 いや、そうでもないみたい。テレビに出てから、あたたかい目で見てくれる人の数は増えたみたいね。特に中学生とか主婦……。
VC クリスタルとか知らない人たち。
田中 いわゆる普通のニュートラって、いるでしょ。ディスコで言えば、ナバーナなんかに来てるコって相変わらず冷たいんだよね、視線が。アソビ人になろうとして背伸びしてる年頃のコって、田中康夫を認めちゃいけないみたいね。
VC 村上春樹ならいい。
田中 うん、村上春樹なら井の頭線の中で堂々と読めるじゃない。となりの人にのぞかれても平気なの。どうしてかね……。
VC あれはブランドっぽいものが小出しに出てくるからいいんでしょ。田中康夫ってのは、そういう、みんなが細々とあたためていたものを一気に出しちゃったからいけない。嫌われた。
田中 うん、それは言えるんだよね。30代前半の作家とかライターがボクを最も嫌ってるんだけどさ。ああいう人たちって、小出しが好きなんだよね。たとえば、ちょっとお金入ると、ハンチング・ワールドのショルダーバッグ買ったりしちゃう。さりげなくね。だけど、外じゃ“ブランド志向はいけない”みたいな発言する。あれはキタないと思うね。変態なのに、よい子ってのは、どうも好きになれないねボクは。
VC そういう発言をするから、また嫌われる。
インタビュアー(VC)がけっこうズケズケと語っているが、こういったスタイルは「スタジオボイス」や「ポパイ」(ガーニング・インタビュー)などにも見られる一種のハヤリであった。もっとも、泉麻人名義の署名原稿を外で書いていた僕は、田中康夫を相手にして持論を語りたかったのだろう。ハンチング・ワールド(ハンティング──と表記するのが一般的だったが、田中氏が茶化し気味に「チ」と発言したのかもしれない)とかナバーナとかの固有名詞(ブランド)にたとえて風俗事象を論じるのは当時の田中の得意手だったが、ここでヤリ玉に挙げられている“30代前半”というのはいわゆる団塊の世代であり、「変態なのに、よい子」って表現は糸井重里が「ビックリハウス」で連載していた「ヘンタイよいこ新聞」を揶揄したものだろう。
「ヘンタイよいこ」は団塊よりもむしろ下世代の若者(僕も愛読していた)をターゲットにした、“サブカルな欽ドン”的な娯楽投稿ページだったから、攻撃の的としては少しズレているが、田中が「ヘンタイよいこ」をチェックしていたとは意外だった。
いや、そういえば田中康夫は「ビックリハウス」が出したコミカルなカセットテープで「ブリリアントなクリスタルカクテル」というふざけた歌を編集長の高橋章子とデュエットしていたから、雑誌にも目を配っていたのかもしれない。
先のリード文にあるように、取材の場所は飯倉のキャンティの個室だったと思うが、この店は田中氏の指定で、僕は実際飯倉のキャンティ本店に入ったのはこのときが初めてだった。ペリエを飲みながら……と書かれているように、田中康夫はおなじみの愛車アウディ(当時は「80」だったか……)でやってきていて、インタビューが終わった後「送っていきますよ」と“自慢の裏道ルート”を使って中落合の僕の自宅まで送ってくれたのだ。玄関に出てきた母に「田中康夫です」とあいさつをして、母がびっくりしていた場面まで記憶に残る。
意気投合するきっかけは、僕がこのインタビューの少し前に「ポパイ」に寄稿した〈間違いだらけの大学受験要覧〉という企画モノだった。有名大学を“アソビの偏差値”によってA群、B群、C群……と分類、そのライフスタイルをユーモラスに評論する、というもので、知り合ってまもない渡辺和博が絶妙のイラストを添えている(この年の12月10日号だから、時期も符合する)。
僕が「泉」のペンネームでこれを書いたと告げたとき、読んでいたという田中氏から「へー、あれはサイコーだったよ」と、細かい指摘もまじえた好評をいただいた。帰りのアウディの車中だったか……いや、取材交渉の段階で「泉」の正体を明かしていたような気もする。
そして、この企画がもとになって、2年後(昭和59年)、『大学・解体新書』という田中氏との共著書で僕は書籍デビューを果した。