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第31回

新雑誌ビデコレと築地小田原町の風景
昭和57年(1982年)

[ 更新 ] 2022.11.01
 新雑誌「月刊TVガイド ビデオコレクション」(通称ビデコレ)の編集部に配属されたのは9月頃だった。Y編集長を筆頭にスタッフは7、8人くらい。社員はY編集長と僕、それから嘱託のような扱いで在籍していた副編のFさんと、彼が連れてきたフリーの編集者や経理の仕事をする女性がいた。いやもう1人、整理班時代の僕の上司だったベテラン社員のNさんを“番組インデックスページの校正責任者”として、編集長が引っぱってきた。
 さらに、F氏の知人の男が率いる神保町の編集プロダクションがビデオソフトのデータページを受け持っていた。外の編プロやフリーの人たちとの仕事は新鮮だったが、何より開放的な気分になったのは、社の本拠から離れた別ビルの一室に編集部が置かれたことだ。
 当時、社の本拠は以前に書いた内幸町のプレスセンタービルから、築地に新築された朝日新聞社に隣接する浜離宮ビルに移っていたのだが、新雑誌ビデコレの編集部は町名こそ同じ築地とはいえ、晴海通り北側の6丁目、本願寺の真裏あたりの「小田貳おだに」と名の付く小ビルの一室だった。小田貳とは、この辺の旧町名・小田原町(2丁目)に由来するもので、当時まだ本願寺との間に築地川の流れが健在だった。2階の編集部の窓越しに川と本願寺のエキゾチックな堂宇が望める。
 そこに入ってまもない頃だったと思ったが、この雑誌でも原稿を頼むことになった渡辺和博さんがふらーっと編集部にやってきて、
「東南アジアみたいだね、ここ」
 と、窓外の景色を表したことをよくおぼえている。
 そんな編集部の周辺は、築地のなかでも古い町屋がよく残っている界隈で、散歩するのがおもしろかった。とくにその頃、赤瀬川原平や藤森照信ら路上観察学会の面々が称していた、「看板建築」と呼ばれるファサード(正面)の部分だけを銅板やコンクリで洋風に仕立てた商家の建物が目についた。戦前の町大工の仕事らしいが、眺め歩くと戸袋なんかに施された飾り模様がなかなか凝っている。
 その辺はいまも4、5軒の看板建築の2階屋が軒をつらねているような一角があるけれど、40年前の当時は路地の至る所に密集していた。看板建築系ではなかったが、編集部の前の通りをちょっと奥へ行った川際に銀座木村屋の素朴なパン工場があって、時折香ばしい匂いが鼻をついた(アンパンを直売していたような気もするが、結局ここで買ったことはなかった)。


今もところどころに古い建物が残る小田貳ビル界隈。右の建物が看板建築の例。

 食べ物屋でいうと、編集部のビルのすぐ向かいに小体の天ぷら屋があって、昼どきにゴマ油の風味の強い天丼を何度か食べた。その店の横の狭い路地を隅田川の方へアミダクジ状に進んでいくと、勝鬨かちどき橋の側から数えていくつ目かの袋小路のような所に「丸静」というウナギ屋があった。ネット検索すると、割と最近閉業してしまったようだが、ここのウナ重は、上から順に、仁、義、礼、智、信、とクラス分けされているのがすごかった。等級はウナギの質ではなく、ボリュームだった(仁、義あたりは大きなのが二段重ねになる)と思う。せいぜい上の方が2千円台で、ばか高い店ではなかったが、炭焼きの焦げたショウ油のいい香りが路地の奥から漂っていた。
 もちろん、晴海通りの向こうの築地市場の店にもよく行った。確か「ブルータス」が場内のメシ屋の特集を大々的にやったのがこの頃ではなかったか……。オムカレーとかオムハヤシとか、カツ丼の具とメシが別々になったアタマライスとか……河岸職人の符丁から定着したような独特のメニューが楽しかった。
 こういう河岸の店は早目のランチ(かつては12時くらいに閉めてしまう店も多かった)で行くときもあったが、入稿や校了で夜を明かしたときに朝イチで駈けこむこともあった。
 そう、新大橋通りの青果門と呼ばれる運送トラックの出入口の脇あたりに夜中、トラック運転手と朝日新聞の記者をターゲットにしたようなテント張りの飲み屋が出ていることがあって、ここのギトギトした厚身のクジラベーコンの味が忘れられない。ほろ酔い気分で外に出ると、ジャンジャンジャンと警報音が鳴って、すぐ向こうの新大橋通りの踏切を汐留から引き込まれた貨物線の列車が横切っていった。
 ビデコレ創刊号は〈1983年1月〉のクレジットだが、発売は年内(82年=昭和57年)12月の20日頃だったから、秋も深まる11月頃にはかなり忙しくなってきた。僕が担当したいくつかのページのなかで、草創期のビデオ時代らしいのが〈VIDEO LIBRARY〉と銘打ったカセットラベルの企画。
 雑誌の発売時期にTV放送される映画のタイトルと出演者、解説コラムをイラスト付きでレイアウトした、ビデオカセットに貼り付けるシール。いや、シールといっても創刊号の段階ではまだ裏ノリ式の構造になっていない。つまり、ハサミで短冊型のタイトルや解説の部分を切りぬいて、各々ノリでカセットの背や腹に貼り付けなさい……というものなのだが、あの当時らしく“VHS用”と“ベータ用”とに分かれている。
 創刊号の発売は12月の暮れだから、ラインナップされているのは年末年始に放送される映画が中心だ。八つ墓村、007・黄金銃を持つ男、ベニイ・グッドマン物語、惑星ソラリス、喜劇初詣列車、日本一の若大将……刑事コロンボ、第33回NHK紅白歌合戦、’83新春スターかくし芸大会……といったTVモノもいくつかある。TVモノは番宣写真を使っているが、映画のラベル用のイラストを描いているのは、僕をこの世界に引きこんだ才人・松尾多一郎だった。クセの強い彼のアメコミ調のイラストは邦画などにはなじまなかったが、各映画に付ける宇田川幸洋の250字ほどの解説コラムは評判がよかった。
 宇田川氏は名文で知られるカルトな映画評論家だったが、ともかく遅筆なのである。
 1本250字といっても40本くらいあるから、ちょちょいと仕上がるものではないだろうが、いま読み返してみて、どれも12×13くらいの枠にコピーライティングのようにきっちりと収まっているのは見事である。
 晴れて〆切前に原稿が入って、近くの店で飲み食いしたことも何度かあったが、原稿が仕上がらず、唐突に音信が途絶えることが多々ある。電話は確か大家さんからの呼び出しで、一向に通じないので電報を打ったこともあった。戸越銀座のあたりにひとり住まいしていたはずだが、押しかけていって、ポストから郵便がハミ出した玄関戸を叩いた記憶がある。
 風来坊のような人だったが、幼稚舎から慶応に進んで、僕が在籍していた8ミリ映画のサークルを創設した先輩、だと後に聞いてびっくりした。
 さて、このカセットラベルの音楽モノに、「矢沢永吉武道館ライブ(YOU)」などと並んで、「ホール&オーツ(ヤング・ミュージック・ショー)」というのがある。ちなみに、(YOU)というのは糸井重里の司会でこの年の春に始まったNHK教育テレビの番組のスペシャル版みたいな扱いだったのかもしれないが、(ヤング・ミュージック・ショー)はNHKで定期的に外国人ミュージシャンのライブなどを紹介する番組で、ホール&オーツは11月にNHKホールで3度目の来日公演が行われた。
 ビデコレ創刊号の入稿をしていたこの時期にビルボードのチャートを上げていたのは、「マンイーター」だ。ラジオのFENでも頻繁に流れていたはずだが、土曜の夜更けの番組としてすっかり定着した「ベストヒットUSA」で、小林克也が「マ、ニーター」とカッコイイ発音で紹介していたシーンも浮かんでくる。メン・アット・ワーク、ヒューマン・リーグ、カルチャー・クラブ、マイケル・ジャクソン……克也さんの「ベストヒットUSA」で流されるPV(プロモーション・ビデオ)というものが、やがてビデコレの重要な情報コンテンツになる。
 この創刊号の入稿の時期に、編集部のラジオや愛車(この頃はホンダの初代クイント)のカーラジオで聴いた、全米ヒットチャートの曲は耳に残る。ジョー・ジャクソンの「ステッピン・アウト」やアメリカの「風のマジック」(You can do magic)なんぞを久しぶりに聴くと、空が白み始めた築地界隈の景色が回想されて、しんみりした気分になる。
 渡辺和博氏が「東南アジアみたいだね」といった築地川越しに本願寺が見える編集部に入って早々の頃、こんなこともあった。まだほとんど机もロッカーも搬入されていない、がらんとした部屋のそうじをしているときにゴキブリが出現した。確か、そのとき室内にいたのは女性陣ばかりで、僕は経理担当のA女史に「早く始末してよ」とヒステリック気味に命じられ、そばにあったホウキかハタキかで叩きつぶしてティッシュで包みとった。
 窓際に以前の借り主の頃からそのまま置きざりにされていたような、ブリキのゴミ箱があって、ゴキブリを包んだ(まだ生きていたような気もする)ティッシュをそこに放りこんだ。そこまではよかったのだが、すぐ横の窓から、なかの“ゴキブリ包み紙”だけ川に捨てようと思いたち、うっかりゴミ箱ごと外に投げてしまったのだ。川、というより川岸のヘドロ溜りのような所にゴミ箱が落下したショットがいまも目の底に焼きついている。
 本願寺裏の築地川はこの4、5年後に暗渠化された。駐車場と遊歩道になったこのあたりにくるたび、あのゴキブリとゴミ箱のことを想う。ちなみに、小田貳ビルはいまも昔の姿のまま建っている。
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