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第30回

ビデオデッキを買った頃、TV誌戦争が始まった。
昭和57年(1982年)

[ 更新 ] 2022.10.17
 残業代がたんまりと付くTVガイドの整理の仕事に加え、社外の原稿執筆も増えてきて、しかも親もとに暮らしていたので僕の経済は潤っていた。そんなわけで、大きな買物をした。家庭用のビデオデッキである。当時、ソニーが推し進める「ベータ(マックス)」型にするか、ビクターやシャープなど数社が採用した「VHS」型にするか……迷うところがあり、映画好きの編集者なんかからは「ベータにしろよ、圧倒的に画質がいい」と勧められたが、昔から贔屓ひいきの電気屋の関係でビクターのVHS型にした。ビデオデッキは80年代に入る頃から20万円を切るような価格になっていたから、まぁ値引きしてもらって15万円かそこらだったのではないだろうか……。
 70年代初めの中学生の頃から、好みのCMやテレビ番組の主題歌をカセットテープデッキで録音していた僕にとって、そこに画像も付くビデオデッキはまさに夢のマシーンであった。
 さぁ、これからは歌番もドラマもCMも、って録って録って録りまくるぞ! とは思ったものの、あの当時はテープ自体けっこういい値段がした(120分用が4000円台)から、大切に使わなくてはならなかった。が、保存用に録画したものも何本か残っている。
 「ザ・アイドル」とタイトルをシールに記した、ビクターの120分テープ(T-120E)は、デッキを入手して、確か最初に保存用として作成したものだと思われる。「レッツゴーヤング」や「夜のヒットスタジオ」に出演したアイドル(でない感じの人もいるが)たちの歌シーンをダイジェスト式に録画していったもので、「渚のバルコニー」を歌う松田聖子から始まっている。黄色いフレンチスリーブシャツ+ハーレムパンツの聖子の脇でヤング・メイツの面々が踊るこのステージは、NHKホールの「レッツゴーヤング」だろう。
 榊原郁恵の「愛と風のララバイ」、坂上とし恵の「き・い・て MY LOVE」、水野きみこの「私のモナミ」……というあたりが続いていく時期から察して、昭和57年の春から夏の頃に録られたテープだろう。画面を見ながら「よし、コレいこう」「こいつはいらねーな」なんて感じで、まだけっこう重い録画ボタンを押したり止めたりしながら、録りためていった光景が思い出される。
 小泉今日子(素敵なラブリーボーイ)があり、松本伊代(オトナじゃないの)があり、石川秀美(ゆ・れ・て湘南)が現われ、ちょっと先輩ながら三原順子センセエ(だって・フォーリンラブ・突然)も登場して、まさに「82年組」の時代という感じだが、そうそうそう……コレを待ち構えて録ったのだ、と強く記憶に残っているのが「夜のヒットスタジオ」の伊藤さやかのパフォーマンス。背後の座席に五木ひろしや松田聖子ら大物の姿が見えるおなじみのスタジオで「天使と悪魔(ナンパされたい編)」というロックンロール調のデビュー曲を、時折ヤザワっぽいアクションも付けて、勝気なカメラ目線で歌っている。例のごとく、視界の井上順だけが軽快に踊るシルエットが見えるけれど、出演者のなかにいるヒゲ面の外国人が気になってネットにアップされているデータを調べると、郷ひろみがカバーした「哀愁のカサブランカ」の原曲を歌っていたバーティ・ヒギンズ(7月19日の放送)と判明した。
 同じく古いビクターの120分テープに、「陽あたり良好!」の最終回(57・9・19と日付がある)を録画したものがある。竹本孝之と伊藤さやかの主演のコメディータッチの青春ドラマ(原作は少女マンガ)で、なかなか良くできていた。この時期、もう1人「伊藤つかさ」という近似名のアイドルがいて、ロリータ系の彼女の方が世間ではウケていた印象があるけれど、僕は断然「さやか」の方をオシていた。忘れがたい82年組の1人、である。


今も手元に残る「ザ・アイドル」と「陽あたり良好!」最終回のVHSテープ。

 僕がビデオ録画に熱中しはじめた初夏の頃から、TV情報誌の世界も騒がしくなってくる。角川書店の「ザ テレビジョン」の創刊は10月新番組に合わせた9月のことだが、その半年くらい前から、わがTVガイドのスタッフのヘッドハンティングが始まった。グアムや香港旅行をともにしたA先輩もこのとき声を掛けられてあちらへ行ってしまうのだが、そういう動きが活発になってきた頃、当時の編集長(僕を買っていたY編集長の後を引き継いだ小心そうな男)に人気ひとけのない応接室に呼ばれて、「キミは大丈夫なのかね?」と、周辺の状況を探るような感じで問われたことをおぼえている。
 Aさんが後年書きおこした“創刊騒動記”的な手記を参考にすると、角川書店のTV情報誌のプランがもちあがったのがこの年の春というから、大手の週刊誌にしては本当に矢継ぎ早な作業だったのだ。発案者は最近また“時の人”になってしまった角川歴彦。氏はかなり以前から“アメリカの「TV GUIDE」のような情報誌”に興味をもっていたという。
 角川氏から新雑誌の編集長の話をもちかけられた井川浩という人は、小学館のコミック畑で活躍した編集者だった。井川氏から最初に声を掛けられた、わが「TVガイド」のスタッフがN氏。僕より7、8年上のNさんは特集記事の柱を任されていた編集部のエースで、社員だったがラフな革ジャケットやサファリシャツを着て、フリー記者のように飛び回っていたのがカッコよかった。
 そんなN氏が担当した「トキワ荘」の記事取材が井川氏との接点になったのだという。前年(56年)の5月25日に放送されたNHK特集「わが青春のトキワ荘~現代マンガ家立志伝~」という番組については記憶がある。これは老朽化に伴って取り壊しが決まった椎名町のトキワ荘(実際の取り壊しは57年11月)とそこに暮らしたマンガ家たち(手塚治虫や藤子不二雄、赤塚不二夫、石森章太郎……)にスポットを当てたドキュメンタリーで、トキワ荘を扱った番組としては初期のものだろう。
 僕はNHK担当記者を退く頃だったはずだが、Nさんに頼まれて番宣写真をもらってきたおぼえがある(ディレクターはなじみのある青少年番組班のマンガ通の男で、確かこの人が早世のマンガ家・楠勝平のドキュメンタリー番組を作ったときに、渋谷・大盛堂の青林堂コミックスのコーナーを教えてもらったのである)。
 取材熱心なN氏はトキワ荘の中心人物でもある寺田ヒロオ(番組ではあまり扱われていなかった)のエピソードを訊くべく、資料本に名を見つけた井川氏とコンタクトを取る。この取材時のN氏の印象(デキる奴、と思ったのだろう)が井川氏の頭の中に残っていたらしい。
 角川新雑誌編集の話を受けたNさんは、Fさん、Tさん、Kさん……と、「七人の侍」探しのように声を掛け、実際、初期メンバーとして引きぬかれたわが社の人員は7人だったという。実は僕もAさんからこんな調子で軽く打診されたことがあった。
 「まぁ、キミもその気があったら……ただし、外のバイト原稿はしばらく御法度って話だから」
 「泉麻人」名義の仕事のことはもうかなり周囲にも知れ渡っていたので、「無理には誘わないよ」というニュアンスではあったが、あれはちょっとうれしかった。年契約だったと思ったが、一応提示された確か4ケタの金額にも心がゆれた。
 Aさんの文章に、辞表を出したときに「おまえも仏教美術の本を作るのか?」と問われたとあるけれど、そうだ、競合誌への集団移籍をカモフラージュしようと思ったのか、当初“彼らは仏教美術の写真集を出す会社へ行く”という奇妙な噂が流れていた。
 「ザ テレビジョン」の創刊号の表紙は、角川映画から出たアイドル・薬師丸ひろ子が、前年暮れに大ヒットした「セーラー服と機関銃」の名フレーズ「カイカーン!」のときのような顔をしてレモンをかじる……というもので、撮影は篠山紀信。9月22日が創刊日だったというが、♬ザ テレビジョ~ンと、字で書くだけでは伝わらないかもしれないが、タイトルを強調したジングルのCMがさかんに流れていた。「週刊カドカワ」というサブタイの前に付いた“テレビと遊ぶ本”というキャッチは、まさに僕のようなビデオデッキでアイドル画像などを録って遊ぶオタクな若者を狙ったものだろう。
 話は少し戻るが、Aさんたちが退社していったちょっと後だろう。僕に目を掛けてくれていた前任編集長のY氏と人気ひとけのないオフィスの通路でバッタリ会ったとき、こんなことをいわれた。
 「もう少し待ってたら、新しい雑誌立ちあげるから。辞めんなよ!」
 Y氏はその時期“アメリカの雑誌メディア事情を研究する”みたいな名目で、単身〈新事業企画室〉なんて感じの部署にいた。いったい毎日ナニをやっているのだろう……と思っていたら、やがて僕も辞令が出て「整理」からそこに異動することになった。
 そして、「月刊TVガイド ビデオコレクション」の創刊が決まる。
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