
第29回
麴町の泉屋で田原総一朗の原稿を受け取った。
昭和57年(1982年)
[ 更新 ] 2022.10.03
4人ほどのレギュラー執筆者のなかで印象に残っているのは、まず田原総一朗氏。田原さんは僕の前任者の頃からの執筆者だったが、原稿受け取りのパターンは決まっていた。文藝春秋に仕事で行かれることが多かったのか、だいたい麴町の泉屋(クッキーでおなじみ)に呼び出される。いまも1階に売店はあるけれど、改築前の当時は2階になかなかいい感じの喫茶室があった。
だいたい指定の時間よりかなり遅れて現われる田原氏は「ハイコレネ」なんて感じで原稿入りの封筒を僕にサッと手渡すや否や席にも着かず足早に去っていく。というのが常で、レジに原稿が預けられていることもあった。が、会話がなかったわけではない。以前、大学時代の達筆な教授の話を書いたことがあったけれど(第15回)、田原氏も相当な達筆(失礼ながら、乱筆といった方がいいかもしれない)で、簡単には読解できない。その辺を御本人も弁えていたようで、「読めなかったら夜電話して」と去り際に言い捨てていかれる(「朝まで生テレビ」のCM前のように)ことが多かった。そんなわけで、夜更けの10時、11時頃に原稿を手に「えー、ではさっそく1行目の漢字ですが……」なんて調子で電話越しにやりとりした記憶が残っている。しかし、田原氏の手元に原稿の複写などはおそらくなく、「読めない字を“予想”を立てつつ伺う」というこの解読作業はけっこう時間を要した。
新しい女性の書き手を入れようということになって、僕が選んだのがコピーライターの脇田直枝さんだった。女性コピーライターの先駆者のような感じでよく広告業界誌に紹介されていた彼女は、僕より10年余り上世代の人だったが、ハヤリのボブカットがよく似合っていた。脇田さんの場合も、“原稿受け取りの店”の印象が強く残っている。
あそこは最初僕が提案したのか、彼女から指示されたのか……六本木の星条旗通りにあった「エスト」というカフェ。星条旗通りとは防衛庁(いまの東京ミッドタウン)の門前から青山墓地の方へぬける道で、現在も赤坂プレスセンター(在日米軍施設)内に存在する星条旗新聞社に由来する俗称だ。外壁に〈EST! EST! EST!〉というイタリアンな看板を出したシャレた店で、赤坂のカプチーノや乃木坂のカプッチョと同じタイプのチョコレートケーキが評判だった。
2階の広いガラス窓の際の席で待っていると、脇田さんは下の道を黄色いワーゲンビートルに乗ってやってくる。まぁ、いつも窓際の席が空いていたわけではないだろうが、このポパイ少年的なシーンは妙によくおぼえている。こちらも“憧れの広告クリエーター”になったような気分だった。
ポパイといえば、雑多なコラムがレイアウトされた〈Popeye Forum〉のページで、本領の音楽にとどまらずアニメや雑誌の評論を展開していたロッキングオンの渋谷陽一氏のコラムを読んで、連載をお願いしにいったのもこの年あたりではなかったか……。僕も当時、同じ〈Forum〉内で「ああ、ナミダの懐古物」(手持ちの古いオモチャやオマケなどを紹介する)という連載をもっていた(スタートは55年11月)ので、勝手に同士のような親しみも抱いていた。渋谷さんがレギュラー番組(NHK・FMの「サウンドストリート」)の収録で入るNHKのラジオスタジオでお会いしたこともあったが、原稿受け取りや打ち合わせで何度かおじゃました、六本木の交差点から溜池の方にちょっと坂を下ったあたりのビル上階の仕事場(窓の向こうに高架の首都高を走る車が見える)の印象が強い。窓辺の首都高景色ともう1つ、このビルは玄関ロビーにいつも、清掃のクレンザーと思しきマツタケをケミカルにしたような独特の匂いが漂っていた……。
整理の仕事になってからは、欲求不満に加えて、昼の時間に余裕ができたこともあって、このテレビ評の奇抜な執筆者探しによりいっそうエネルギーを費した。レギュラー陣に加えて、月1くらいのペースで旬の人や好みの作家に単発のテレビ評を依頼するようになった。
そんな書き手選びの手本にしていた雑誌というと、おなじみの「POPEYE」「宝島」「ビックリハウス」の他、前年(56年)あたりに創刊した「モノンクル(mon oncle)」というのが思い浮かぶ。“伊丹十三・責任編集”の謳い文句で立ちあがったこの雑誌、実際に伊丹氏自身かなり編集に関わっていたようだが、糸井重里、南伸坊……といった僕好みの“おもしろサブカル勢”の他、岸田秀や福島章といった心理学系の学者さんが登場していたのが特徴だった。栗本慎一郎や浅田彰、中沢新一のニューアカ・ブームの下敷きになったメディア、ともいえるかもしれない。そして、この「モノンクル」をちょっと意識して、下世話に作ったような嵐山光三郎(編集長)の「ドリブ(DoLive)」や天野祐吉の「広告批評」も、当時“目力”を入れてチェックしていた雑誌だった。
執筆を断わられた人も何人かいた(こういうのはよくおぼえている)が、この連載でしばしば登場する近田春夫さんに「演歌の花道」(テレビ東京)について書いてもらったことがあった。「愛のコリーダ」をTBSラジオのスタジオで聴いた(前回)のはこの原稿を頼みにいったときだったかもしれない。マネージャーのような感じで付いていたタマちゃんという軽い調子の男に「近田の原稿は松、竹、梅のランクがあるんですけど」と冗談を言われ、「じゃ、竹の上くらいで……」と返したおぼえがある。
原稿受け取りのシーンが映画の1コマのように記憶されているのが、村松友視さんだ。椎名誠の『さらば国分寺書店のオババ』で当てた情報センター出版局から出た『私、プロレスの味方です』をはじめとするプロレスエッセーで鳴らしていた頃である。
となるとテーマはプロレス、と思われるかもしれないが、ブレイク中の山田邦子の話だった。依頼の電話をかけたとき、村松氏の方から「山田邦子はどうですかね?」と提案されたのではなかったか。
ともかく、やがて原稿は仕上がり、吉祥寺の方の御自宅に受け取りに伺うことになった。
「吉祥寺の駅に着いたら1本電話ください」
ぼんやりと村松さんの声の調子まで耳の奥に残っている。吉祥寺駅のおそらく北口のどこかの電話ボックスから電話をかけると、目に入る建物や番地などを確認された後、こんな感じの指示をされた。
「その先の道を曲がってまっすぐ歩いてきてください。私もいま家を出ますから」
成蹊の方に向かう住宅街のなかの道の途中だったと思うが、ドテラのようなのを羽織った軽装の村松友視が向こうの方からゆっくりと歩いてきた。道端であいさつをして、玉稿を拝受した。ケータイ電話はもちろんない時代だが、ファックスはこの2、3年後には作家の間に普及するから、アナログ編集時代末期の“幸福な体験”といえるだろう。
やがて、フリーになった僕の重要なパートナーになるイラストレーターの渡辺和博(通称ナベゾ)さんと知り合ったのも、このテレビ評の依頼が発端だった。
書き手選びの参考にした雑誌を先にいくつか挙げたが、渡辺さんに寄稿してもらおうと思ったきっかけは、書店(赤坂TBS近くの金松堂だった気がする)の店頭ラックで立ち読みしたエロ&サブカル情報誌の「ウイークエンドスーパー」だったはずだ。その後、「写真時代」やパチンコ攻略誌の諸々で当てる高田馬場の伝説的編集者・末井昭が立ちあげたセルフ出版(現・白夜書房)の雑誌である。
渡辺さんのページは、ピンクレディーのシングル盤ジャケットを順に眺めながらその歴史をふりかえる……という、前年の解散(56年3月31日=雨の後楽園球場でのライブはTVガイドのカメラマンにくっついて入った)にちなんだ企画だったと思われるが、彼女たちの楽曲にはほとんどふれず、「より勃起するジャケはどれか……」という基準だけで書いている文章が痛快だった。
依頼テーマの番組はよくおぼえている。松本伊代と柏原よしえが宇宙人コスチュームで活躍するバラエティー・ドラマ「ピンキーパンチ大逆転」。アイドルが主演する歌ありコントありの構成は、この時代のTBS7時台のお得意路線のものだった。放送期間はこの年の4月から9月までだから、まぁ始まって少し経った初夏の頃だろうか……(すると先のピンクレディー解散とは1年のタイムラグがあるけれど)。
当時渡辺氏は「ガロ」の編集部を去って、自作マンガを集めたコミックスが青林堂から出始めた頃だろう。NHKの行き帰りによく立ち寄った渋谷・大盛堂の2階の一角にガロ作家勢のコミックスを集めた棚があって、ここで蛭子能収や花輪和一……らとともに渡辺和博の『熊猫人民公社』とか『タラコクリーム』とかを購入したはずだ。
おそらく、「ウイークエンドスーパー」編集部の電話番の女性……のような人から聞きつけた渡辺氏の連絡先に電話をすると、「……はい」「……はい」と覇気のない暗い声の反応が続いて、こりゃダメだな……と思っていたら、「……いいですよ……やりますよ」と、自棄になったような感じで了承された。
原稿の受け取り場所は、当時の仕事場から近い五反田の山手線線路端の喫茶店。五反田といっても山手線外側の工場街や“大崎三業地”の看板が出ていたラブホ街の方ではなく、内側の池田山の麓にあたる一角で、その店も入り口のショーケースに“清泉女子御用達”といった風の上品なケーキが陳列された瀟洒な雰囲気だった。

翌年、渡辺和博氏から著者に届いた年賀状。
山手線の築堤が見える窓そばの席で待っていると、脇田さんは黄色いワーゲンだったが、渡辺さんは新聞配達員が乗るような黒い自転車に乗ってやってきた。姿は、白いYシャツにGパン。足もとまではよくおぼえていないが、これはファッションに無頓着なのではなく、自転車まで含めて、この当時ナベゾ氏が熱中していた中国・北京あたりの街角の人のスタイルを模写していたのだろう……と後に思った。
「ピンキーパンチ」の原稿は期待どおりにおもしろかった。“松本伊代の太モモと柏原よしえの上腕の寸法が同じ”というような彼独特の指摘、ユーモラスな表現に僕は大いに満足したが、確かこの原稿は編集デスクからダメ出しされたのだ。書き直してもらったか……いやボツになって謝ったら、「別にいいよ」と、あっさりした反応が返ってきたような気もする。
原稿がどうなったか、というのも重要なことではあるけれど、この初対面の喫茶店のシーンはより鮮烈に記憶される。
原稿は受け取ったものの、電話の感じで危惧していたとおり寡黙な人で、一向に会話ははずまない。ぶ厚い眼鏡の底の目は下を向いたままだ。
気まずい空気のなか、向こうのテーブルにいる女子大生の姿がきっかけだったか、僕が知りあいのニュートラやハマトラ系ファッションの女子のエピソードを語り始めたとき、眼鏡の底で死んでいた渡辺氏の目がキラッと光った。
「いいね、ソレ!」
高い、ノリのいい声が返ってきた。そこから渡辺和博との長いつきあいが始まった。