
第28回
大日本印刷出張校正室と印刷工場の職人
昭和56年(1981年)
[ 更新 ] 2022.09.15
とくに後者の社内報の原稿──以前、和田勉を賀田勉ともじったりしてNHKの名物ディレクターのことをおもしろおかしく書いた一節を紹介(第23回)したけれど、その文章の後半は、社を挙げての一大イベント「テレビ大賞」のあり方などについて、かなり辛辣に批判している。
「もう一つの問題は、受賞作品がショーというものの存在をまったく無視して選ばれているという点……さらに審査員の基準が権威的なものにとらわれ、大衆にうけているものは何なのか? ということを見失っている。」
なんていったことを25かそこらの若手社員にいわれたら、上層部はカチンとくるだろう。いま読み直してみても、調子に乗っている感じがよくわかる。「コイツ、ちょっと冷や飯くわせてやった方がいいだろう」という意見が出てもおかしくない。この社内報は56年4月の発行だから、春頃から何らかの“制裁”が検討されていたのかもしれない。
僕の後任(NHK番記者)はKという男(学年は下だが、年齢は1つ上だった気がする)で、タケシという下の名前から当時ハヤリの“タケちゃんマン”と呼ばれていた。
優秀な彼はすぐに特集班へ移り、僕が辞めた後に編集長にもなったが、何かトラブルを起こして退社、その後「占い師」としてけっこう評判になっている、なんていう噂を聞いた。
さて「整理」の主な仕事は原稿の校正作業だから、これは番組班や特集班の記者が原稿を仕上げてくれないことには始まらない。よって、仕事時間は“後ろ倒し”になる。入稿量の少ない月曜日は8時くらいに退社できたが、火曜以降はほぼ深夜帰りになった。
こういう夜型の就業スタイルは行政からの通達と印刷のデジタル化によってやがて解消されるが、僕がいた当時は残業時間がそのまま給料に反映されたので、経済的には潤っていた。毎月の給料はまだ手渡しだったので、忙しい月は20枚余りの万札で袋がパンパンになっていた。
整理班を仕切っていたのは、Nさんというベテラン社員(当時もう50代くらいではなかったか?)で、もう1人の社員担当が僕。他に校閲専門のプロダクションの人が2、3人とレイアウト(割り付け、という言い方をしていた)を本領にしている、Nさんと同年代くらいの太った男がいた。ちょっと立花隆みたいな風体をしたその人は確か、横浜の奥の三ツ境のあたりに住んでいて、夜中のタクシー帰宅になったとき、会社の前に待機している運転手に喜ばれる。「三ツ境の人はどうしました?」と、彼を目当てにしていた運転手に何度か聞かれたことがあった。
なかなかクセのある人が多かったのだが、その辺は追い追い語ることにして、校正はプロの人がいたので、誤字を見落してもあまり問題はなかった。作業でよくおぼえているのは、見出しや写真のキャプションの活字Q数を指定すること。7ポ、8ポ、9ポ……などという大きさの単位(ポはポイントの略)を学んだ。もっとも、入稿のときに見出しや写真キャプを付けてこない記者もいて、そういうのをササッと文字数ぴったりで記す作業にはけっこう燃えた。
しかし、とりわけ神経を使ったのは、いわゆる“整理”の作業だ。アナログな編集工程の時代ゆえ、記者は使用する写真を生原稿にクリップなんかで留めて提出してくる。校正をしているうちに写真がどこかへ紛れたり、別の番組のものに入れ替わっていたり……。ただでさえ整理整頓が苦手なタイプの僕は、大いにストレスを感じた。
どういうふうに分類したか……細かいことは忘れてしまったが、まとまった原稿(と掲載写真)を詰めこんだ大袋を夜中、タクシーで大日本印刷の夜間受付にいるガードマンのような人に届ける、というのが火曜と水曜の夜の僕の任務だった。当時の僕の家は新宿西方の中落合だったから、会社(この時期は内幸町のプレスセンタービルから築地の朝日新聞社の隣接ビルに移っていた)から帰路途中にも寄りやすかった。
もしや、そんな居住地も“整理行き”に関係していたのかな……。
木曜と金曜は築地のオフィスへは行かず、ほぼ大日本印刷の出張校正室へ直行していた。前夜がおそいこともあったが、作業的にもゴゴイチ(2時頃だったかもしれない)くらいまでに到着すれば良い。わが社は編集部もスーツ、ネクタイ姿というのが規則になっていたが、会社のきびしい役員や総務の目も届かないので、11時くらいに起きてシャワーを浴びて、昼飯かっこんでラフな格好で出勤していく。この感じはモラトリアムな大学生に戻ったようで、わるくなかった。
そんなゆるゆる気分に好都合だったのは、中落合の家のすぐそばから目白通りを進んで、市谷の大日本印刷の近くまで行けるバスがあったこと。新宿駅西口まで牛込の方を迂回していくこの都バス(練馬車庫発)はいまも運行している路線だが、僕が出勤していた平日のお昼頃はだいたい空いていた。ウォークマンでボブ・マーリーのレゲエなんかを聴きながら、学習院や田中角栄邸の前のイチョウ並木を車窓に眺めて、のんびりと乗っていた(本女や川村の女子学生を眺める楽しみもあった)。牛込柳町の先の薬王寺町でバスを降りて、お屋敷が並ぶ横道を東へ歩いていくと大日本印刷の北口の門が見えてくる。
先日久しぶりに行ってみると、一帯は〈DNP〉のロゴマークを上層に記したタワービルを中心にした建物に変貌していたが、坂道の脇に往年の本館(大正15年竣工のコンクリート建築)の一部が“表参道ヒルズの端っこの同潤会アパート”みたいな感じで復元され「市谷の杜 本と活字館」というミュージアムになっていた。

かつての大日本印刷市谷工場の象徴だった時計台を復元したという「市谷の杜 本と活字館」。
復元された建物は美しすぎて、僕が通っていた当時の建物とあまりイメージが一致しないのだが、こういう時計台のある屋上のような所に行って、作業服の人たちがくつろぐ姿を眺めながらタバコを一服したことを妙におぼえている。その頃よく聴いていたRCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」のシーンが重なる光景だった。いくつかの出版社の表札が出た出張校正室が並んでいたのは、北側玄関に近い一角だったはずだが、いまのこのタワービルにはもちろん出張校正室なんてもんは配置されていないのだろう。
木曜、金曜の出張校正でやることは、まず写真コピーのチェックだった。各ページに掲載する写真(縮小されている)を並べたカタログのようなコピー紙が出稿されてくるのだが、それらがどの番組(あるいは特集)ページに使うものなのかを同定する。そして、別に出稿されてきた活字組みの初校ゲラの写真のスペースに、パズルのように貼りつけていく。
つまり、誤字や脱字を正すだけではなく、印刷のための見本誌のようなものを、毎週作っていたのである。とりわけ、わがTVガイド誌は当時、関東中心の本誌に加えて、関西版、中部版……と地方版があって、ちょうど僕が整理班にやってきた頃から、北海道、東北、中国四国、九州などと地方版を増やしていた。特集や定例の読みものページの内容は変わらないのだが、ローカル放送の番組解説の箇所などは異なるから、いちいちチェックしなくてはならない。地方の似通った祭り中継の写真なんかをよく貼りまちがえた。
キャップのNさんは実に几帳面な人で、見本のゲラに貼りつける細かい飾り罫のコピーの1つ1つを余白をほとんど残さずにハサミで器用に切りぬいていた。こんなもん大雑把でもいいだろう……と思ったが、指導されて従った。この作業、ウォークマンでテクノ系の速いビートの曲なんぞを聴きながらやると、まさにクラフトワークなロボットになったようで、ちょっとクセになる。
当時の活版の読みものページには、素朴なイラストを添えて“茶の間の茶”なんて感じのタイトルを記した飾り罫がページの上隅などに入っていた。この種のものを描くイラストレーターというより、ひと時代前の挿絵画家(ベレー帽を被っている)が校正室に出入りしていた。2人ほど常連さんがいたけれど、どちらの人も確か小石川のあたりに住んでいて、ページに空きができてしまったときに電話をすると、すぐに校正室にやってきて、ちょちょいと穴埋めのカット絵を描いてくれるのだ。
そういう職人さんというと、本社の坂下の横路地に、田舎の小学校の木造校舎のような印刷工場があった。大日本印刷の下請け的機関(確か日巧社といった)だったのかと思うが、ここには昔風の“活字を拾う”職工さんがいる。金曜日の校了間際になって番組内容が差しかわり、どうしても打ち直してもらわなくてはならないときに駈けこんで、新たに活字を組んでもらう。
毎週というわけではなかったが、そういう緊急の組版を作ってもらいに工場を訪ねた。
入った途端に床油や印刷工具のニオイがムッと漂ってくる。ウチの担当は20代の僕の目から見て、相当な老職人(といっても60代くらいだったのかも……)で、対応はいつも不愛想だった。
「すいません、また直し出ちゃいまして。ほんの百字かそこらなんですけど……」
横を向いたまま、しばらく話が聞こえないような振りをして、ようやく僕の差し出した新原稿を受け取ると、片手で三角パックのコーヒー牛乳なんかを飲みながら、すすっと手早く活字を集める。使いこんだ木箱にカシャッと活字を仕込む感じは、手馴れた大阪寿司の板前のようでもあった。