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第2回

「宝島」も〈city boys〉がキーワードだった。
昭和50年(1975年)

[ 更新 ] 2021.08.17
 バチヘビみたいな格好をしたリーバイス501、その後どうなったのだ……と気になっている方もいるだろう。
「クタクタに洗うことによって縮み、はじめてからだにフィットする“シュリンク・トゥ・フィット”」
 という、バイブル「Made in U.S.A catalog」の解説にならって、さっそくクタクタに洗うことにした。
「しかし、ただ洗えばこうなるというものでもないのだ。ジーンズを最もジーンズらしくするための洗い方は、まず、熱い湯で洗うこと。間違っても水などで洗ってはいけない。洗濯機に熱い湯、新品ジーンズと洗剤をたたき込んでガンガン洗う。そして次に大事なことは、陽にさらして乾すのではなく、熱風が噴出する乾燥機で乾すのがコツなのだ」。
 クタクタでもガンガンでもいいけれど、この最初の501のときは、わが家の風呂場の傍らの洗濯機を使ったと思う。それまでに自ら洗濯機を使ったことなどなかったから、母に怪訝そうな顔をされたシーンをぼんやりおぼえている。1回目、2回目の洗濯くらいまでは、インディゴの濃い青の水がおびただしく排出されたはずだ。
「こういう設備をそなえたコイン・ラウンドリーは少ないけれど、なんとしてでも捜しあててやるのがジーンズ党である」
 と、USAカタログはかなり命令調で書いているが、翌年に「ポパイ」が創刊された頃からだろうか、銭湯の一角なんかにコインランドリーがぽつぽつとできて、わが家から近いタバコ屋の跡の狭いスペースがコインランドリーになった。それからしばらくの間は、色落ちさせたいジーンズと洗剤を入れた小袋をもってコインランドリーによく行った。そう、コロナウイルス対策も関係しているのか、最近またコインランドリーが増えているけれど、当時は自動的に洗剤が出てきてウォッシュしてくれるようなスグレモノのマシーンを備えたコインランドリーはあまりなかった。
 タバコ屋の跡の狭っこいコインランドリーは、読み古しの少年ジャンプがほったらかしになっているような、非ポパイ的環境ではあったけれど、物珍しい乾燥機で仕上げたホカホカのジーンズから漂うインディゴの香りにまだ行ったことのないアメリカを感じた。
 そういえば、このときよりちょっと後だったかもしれないが、草刈正雄がコインランドリーでジーンズやスニーカーをワイルドに洗うCMがあった。ラングラーあたりのイメージを思い浮かべてYouTubeをチェックしていたら、これはアメリカ屋靴店のCMで洗濯するのは白いスニーカーと白いソックス。実際、ドラム式洗濯機に両者をぶっこむカットはないのだが、このCM以来コインランドリーで仕上がりを待つ間、なんとなく草刈正雄気分になったものだ。
 さて、件の501はワンウォッシュでグッとシュリンクしてバチヘビ感は薄れたものの、2度3度と洗濯した後のスタイルも、当時主流のタイトなジーンズの中ではやはりかなり太く見えて、サークルの女子学生たちの評判は芳しくなかった。このサークルは広告学研究会というのだが、後々多くのエピソードを語ることになると思われるので、ここでは省略する。

 昭和50年発行の手元の雑誌をチェックしていたら、「Made in U.S.A catalog」や「JJ」創刊号と同日の「昭和50年6月1日発行」(実際は4月下旬の発売)の奥付を記したのがもう1冊あった。
「宝島」の6月号、背に〈ぼくたちの世代〉と特集名が記されたコレは、ヘビーローテーション気味に熟読した記憶がある。
 植草甚一編集のもと、この2年前に「Wonder Land」の誌名で立ちあがった「宝島」、この時期はアメリカのペーパーバック風のB6サイズの判型で、〈植草甚一編集〉と表紙に記されてはいるが、巻末の編集長の名はその後放送作家として大成する高平哲郎。
 当時「宝島」という雑誌の存在は知っていたはずだが、この号は1960年代のTV番組のことがたっぷり書かれた「ぼくたちの世代」という特集に魅かれて買ったのだ。
 60年代のムードに合わせたのか、表紙は「平凡パンチ」の創刊号を飾った大橋歩のイラストレーション(アイビー調の若者とスポーツカーを描いた)で、スポーツカーのドアの所に〈The Manual for Cityboys〉と記されている。
 コレ、ネタモトの「平凡パンチ」に付いていたものではなく、この年頭から「宝島」が使っているキャッチフレーズなのだ。シティーボーイのフレーズは「ポパイ」の「Magazine for City Boys」が元祖と思っていたが、こちら「宝島」の方が早かったのである。そして、同じターゲットと見たのか、目次裏ページに植草甚一のエッセイ集(番町書房)とともに「Made in U.S.A. catalog」の広告が入っている。
 さて、この「宝島」6月号は、ニューヨークに滞在する植草甚一の現地報告記事が冒頭に掲載されて、映画や音楽などのサブカル情報のコラムページがしばらく続く。ちなみにこのコラムページには、後に“街角のヘンテコ看板”や“笑える誤植”ネタで人気を呼ぶ〈VOW!〉の名がすでに付けられている。
 大特集「ぼくたちの世代」は、編集部からのこんな前口上とともに始まる。
「六〇年代を振り返ってみるまえに、あらかじめここではっきりとさせておかなくてはいけないことがあります。
 何人かの協力者を得てこの企画をつくっているのですが、まず、この『宝島』を実際に作っているぼくたちが、すべて、一九四六年から一九五五年までのあいだに生まれているということです。このことは、六〇年代という時代がぼくたちをつくりあげている、ということなのです。おそらく、いま、これを読みはじめたあなたもまた、六〇年代に育ってきたのではないかと、考えています。……」
 名前こそないけれど、これは編集長の高平氏が書いたものかもしれない。そう、当時、「チェッ」と思ったような気もするが、僕はここに「宝島」スタッフの年齢枠として記されている“一九四六年から一九五五年”より1つ下の五六年生まれだったのだ。つまり、「ぼくたちの世代」の補欠のようなポジションにいた。
 次のページ、特集の巻頭ライターとして北山耕平が登場する。フォーク・クルセダーズの北山修ではないこの北山さんは、初期のポパイでも常連だったアメリカ若者風俗の水先案内人だった。
「ぼくはこれから、ぼくの人生について、といっても、たかだかまだ二五年ぐらいのものなのだけれども、語ろうと思うのだ。しかし、ぼくだって、あのホールデン・コールフィールドとおなじように、《デーヴィッド・カパーフィールド》式の、いつ、どこで生まれて、両親はなにをやっていて、などというくだらない身のうえ話をするつもりなはないし、そんなことをはじめたら、だいいち紙がいくらあってもたりないだろう。……」
 と、『ライ麦畑でつかまえて』を意識した書き出しで主にテレビジョンを中心にした北山の1960年代文化論が語られる。
 なじみのTV番組がランダムに羅列されている一節があるけれど、『デズニー・アワー』『ドビーの青春』『ルーシー・ショー』『マイティ・ハーキュリー』『ヘッケルとジャッケル』『トムとジェリー』『マイティ・マウス』『ウッド・ペッカー』『バックス・バニー』『三バカ大将』『拳銃無宿』『ララミー牧場』……といった感じで、大方が外国(アメリカ)モノなのが、僕より5、6年上の世代らしい(「デズニー」とは誤植かもしれないが、実際初期の邦題は「ィ」がヌケ落ちていた可能性はある)。
 多くの番組は僕も再放送、新シリーズなどで観ているが、国産ドラマを制作する力が乏しかった60年代初め頃まではアメリカから輸入したドラマやアニメ(当時的にはマンガ映画)が番組表を占領していた。
「朝食に食べるオートミール、巨大な冷蔵庫と、そこからなにげなくとりだしてガラスのコップにつぐ牛乳、その牛乳びんの大きく立派なこと、クッキーをオーブンで焼く母親の姿、へんてこな袋のついた電気掃除機……」
 と、ドラマで観たアメリカ文化への憧れが綴られている。
 北山の文章を改めて読んでみて、こんな一節が印象に残った。
「ぼくがいま書いているような、『ぼく』あるいは『ぼくたち』といった言葉使いに生理的な嫌悪感を抱く人たちがいることはぼくも知っている。しかし、ぼくには、『ぼく』あるいは『ぼくたち』という単語をつかわずにそれらを表現する手腕がないのだ。許してもらいたい」
 ちょっとこれ、から見ると理屈っぽい感じではあるのだが、ポパイのコラムへとつながっていく昭和50年代初めの空気感が伝わってくるし、僕が「私」ではなく「僕」人称で文章を書いてきたのもこの時代にシロートエッセー(サークルの会報などに)を書き始めたせいかもしれない。
 ところで、この「宝島」の巻末の「letters to the editor」(読者のお便り紹介)の最後にこんな投稿を見つけた。
「アメ横でミッキーマウスのTシャツを買った。すごくかんじいいの。でも大学へ着ていったら、仲間に『慶応はあっちいけ』といわれた。でもフクちゃんのTシャツなんて聞いたことない。」
(神田・あおきまみ・19・早大生)

 いまやピンとこないかもしれないが、横山隆一の戦前のヒット漫画『フクちゃん』は早稲田の定番マスコット、慶応はディズニーのミッキーマウスをおそらく勝手に・・・早慶戦の応援看板なんかに使っていたのだ。
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