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第25回

いたいけな「ぼんちシート」騒動
昭和56年(1981年)

[ 更新 ] 2022.08.01
 田原俊彦と妙なデュエットをした会社忘年会(前回)を終えて、正月休みに入った28日とか29日あたりからだったと思うが、若手社員5、6人で関西方面へ遊びに行った。
 京都と神戸に泊まったはずだが、ちょうど西日本寒波にぶつかって、車(1年後輩の男が運転するフェアレディZ)で来た連中が関ケ原か彦根あたりで大雪に見舞われて、ひどく遅れてきたことを記憶する。新幹線組の僕は、車窓の冬景色を眺めながらウォークマンで、テープに仕込んできた山口美央子の「夢飛行」のアルバムを繰り返し聴いていたのを思い出す。山口美央子はセールス的にはふるわなかったけれど、「スタジオボイス」誌によく広告が載っていた。ちょっと矢野顕子と、いしだあゆみっぽいムードもある彼女の楽曲は「金鳥」の琺瑯看板を貼った納屋などが散見される、日本の田園風景との相性も良かった。
 京阪神の町をこごえながら歩いていて、よく目についたのが、紳助・竜介、のりお・よしお、いくよ・くるよ……などの名を黄や赤の地色に大きく記した花月(吉本)劇場の興行看板。ほろ酔いかげんで宿に帰ってきて点けたテレビでも、関西ローカルのディープなお笑い番組をやっていた。関西芸人を中心にした“お笑いブーム”のピークを実感した年末年始だった。
 80年代初頭のお笑いブームの火付け役となった「花王名人劇場」とそこから派生した「火曜ワイドスペシャル THE MANZAI」は前年の夏あたりから30%近くの視聴率を取る人気特番になっていたけれど、同じくフジテレビ系列の昼帯番組「笑ってる場合ですよ!」も、このブームの核になった番組だった。
 そのタイトルから察せられるとおり、「笑っていいとも!」の前身番組であり、新宿東口に完成してまもないショッピングビル「アルタ」のスタジオから連日生中継されていた。「アルタ」の場所にはそれまで「二幸」という食品専門の小デパートがあって、ここの1階で食べた、ヒイラギみたいな硬い葉っぱが大量に入ったカレーが忘れられない。「笑ってる」がスタートしたのは55年10月だが、これを書くにあたって当時の番組表や解説を調べ直したとき、それより前に「日本全国ひる休み」というNHKっぽい・・・・・・タイトルで、アルタからの中継番組を半年ばかりやっていた……ことを思い出した。司会は押阪忍と栗原アヤ子のアナウンサー夫妻だったが、ツービート、B&B、紳助・竜介、ザ・ぼんち……といった面々は、この番組からすでに顔を出していたのである。
 「笑ってる場合ですよ!」はランチタイムの番組だったから、連日じっくりと観ることはできなかったけれど、画期的だったのはそれまでテレビにはほとんど登場しなかった劇団・東京乾電池を起用した往年の「おとなの漫画」調の時事コントのコーナーで、毒気はヌカれていたが、テレビ向きの高田純次だけイキイキしていた。そしてこれもテレビ対応ということだったのか、割と好意をもっていたアイドルの大橋恵里子がレギュラーとしてコントに絡んでいるのもうれしかった。
 山田邦子や春風亭小朝もこの番組で大いに顔を売ったが、ツービートや紳竜を押しのけて、圧倒的な人気を誇っていたのは「もみじまんじゅう」(のフレーズが当たった)のB&B。登場したと同時にキャーッと若い女性たちの歓声があがる感じは、小6の給食の時間に教室のテレビで観た「お昼のゴールデンショー」(やはりフジ系)のコント55号を思い出させた。
 そんな感じでやってきた56年の正月のテレビは、朝っぱらから笑芸番組(早朝からフジが延々生中継する「初詣!爆笑ヒットパレード」はもう放送していた)が並んでいたが、伝説の深夜ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」がスタートするのも、この1月1日の夜中(明けて2日)のことだ。
 僕はその初回を聴き逃しているが、小林信彦氏はこの年の2月24日から夕刊フジで連載を始める「笑学百科」の第5回から3回にわたって、ビートたけしのこの番組を取りあげている。ちなみに101回完結のこれは夕刊フジの名物コラムで、僕も「地下鉄の友」というのをここで書かせてもらったが、連日(月~金、土曜もあったかも)の掲載なのだ。つまり、「第5回から3回」というのは、2月末から3月頭という計算になる。
 この「笑学百科」の第1回に書かれているのは、ビートたけしの深夜ラジオの回でもふれられているザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」の話だ。
 「正月過ぎに、レコードを買いに街へ出た。のちに大ヒットとなった『恋のぼんちシート』であるが、そのときは、もちろん、知る由もない。」
 書き出しはそんな感じだが、その後、レコード屋の店員とのチグハグになるであろう・・・・・・やりとりを想像しながら、レコードを探し回るくだりがおかしい。

──あの……ぼんちのレコード、ありますか?
──ぼんち?
──漫才のザ・ぼんちですけど……。
と、たぶん、こんな会話になるのではないか、とおそれて、C地点に向った。

 筆者(小林氏)は晴れて、渋谷の紀伊國屋書店(いまはなき西口「東急プラザ」上階にあった)のレコード売り場でゲットするわけだが、近藤真彦の「スニーカーぶる~す」に次ぐ2位……と売上げ表示されているのに驚く。
 ところで、先の箇所を引用させてもらったのは、「C地点」というのがザ・ぼんちのネタのシャレでもあったからだ。
 ♬A地点からB地点まで~
 ロックンロールのリズムにのせて始まるこの歌は、ぼんちが定番にしていたテレビ朝日の昼のワイドショー「アフタヌーンショー」(「笑ってる場合ですよ!」の裏番組でもある)の“事件ルポ”のコーナーのパロディーをベースにしたものなのだ。彼らのネタや歌に出てくる“川崎さん”と“山本さん”は、司会の川崎敬三とレポーターの山本耕一のことで、始終険しい顔つきをして「そうなんですよ、川崎さん」「犯人はこのA地点からB地点へ移動して……」なんてことをボードの地図をペンで指しながら受け手の川崎に解説する山本の語り口が評判を呼んだ。
 ぼんちのボケ担当のオサムちゃんが、山本さんの挙動をデフォルメして演じることによって、他の物真似(たとえばコロッケの美川憲一)と同じように本家の方もいっそうブレイクした……という感じであった。大映の“気弱な二枚目俳優”として売れていた川崎敬三はともかく、それまで“小林千登勢のダンナ”の認識しかなかったバイプレーヤーの山本耕一は“お昼の顔”に定着したが、この番組はおよそ4年後、リンチ事件のヤラセ映像が発覚して、突然打ち切りになってしまった。
 「恋のぼんちシート」は、そのタイトルも1種のパロディー(言葉いじり)だった。元ネタはジューシィ・フルーツの「恋はベンチシート」で、両作とも作者は近田春夫(ベンチシートの作曲はメンバーの柴矢俊彦)。前年にデビュー曲の「ジェニーはご機嫌ななめ」がヒットしたジューシィ・フルーツを僕は愛聴していたから、初作のアルバム(「Drink!」)に入っていたこの曲はよく知っていた(「ベンチシート」はその後、続編、続々編が各アルバムにフィーチャーされる)。
 この元歌もとうたはちょっと古いアメ車と思しきクルマのベンチシートをネタにした、コメディー風味のラブソングで、原宿のモード系ギャルの教祖的存在だったボーカルのイリアのキャラにもよく合っていた。
 この“ベンチ”と“ぼんち”との言葉遊びとは関係のない、曲(サウンド)の方がパクリではないか……という話題が発火したのはビートたけしのオールナイトニッポンだった。ダーツというイギリスのロックグループの「ダディ・クール」って曲にそっくり、だというのだ。
 もっとも、この時点で「ダディ・クール」というと、タケノコ族が愛好するボニーMのディスコ曲の方が有名だったし、ダーツといえば「ケメ子の歌」のフォーク系GSバンドしか多くの人はイメージしなかったろうから、これは音楽通のリスナーの投稿、あるいは放送作家が出元のネタだろう。
 「〈頂き〉とか〈盗作〉というより、瓜二つなので、これでは逃げようがあるまいとぼくは思った。」
 と、両曲を聴き比べて小林氏は書いている。が、いまユーチューブなんかにアップされているのを聴いてみると、確かに似てはいるものの、大滝詠一のドゥーワップ系の作品などを愛聴している者にとっては、漫才のザ・ぼんちにこういう通好みのUKロックンロールを当てがってコミックソングに仕上げる……というプロデューサー的センスの方をおもしろがりたくなる(編曲もそういうツボを心得ている鈴木慶一だ)。
 ところがこの話、当の近田が「パクりました、すいません」とあっさり告白、たけしに「盗作を簡単に認めるようじゃ作曲家としてダメ」と叩かれて、収束する。
 僕は当時、たけしの放送をナマで聴いていたわけではなかったが、その後の週刊誌の記事などを読んで、シャレになるはずがならなかった……という微妙な違和感をおぼえた。
 近田はたけし相手に本気でポピュラー音楽論(筒美京平の作曲術など)をぶつよりも、「パクッた」とリアクションした方がボケオチする、と考えたのではないか。しかし、たけしはそれにはノラなかった。おそらく、「ポパイ」で近田が書いている、毒の効いた歌謡評論の才などを認めつつ、小器用なインテリ人(近田が幼稚舎からの慶応ボーイ、というようなプロフィールもオサえていたかもしれない)みたいなスタンスが不愉快だったのではないだろうか。どうもこの一件は、麻布のお坊っちゃんが足立区の駄菓子屋に遊びにいって、不良になぐられた……ような景色が浮かぶ。僕自身、この5年後の新人類ブームの頃にたけしに叩かれて、こういう気分になった。
 「ぼんちシート」盗作騒動はともかくとして、ザ・ぼんち(いちいち“ザ”を付けるのは面倒くさいが、コレが“THE MANZAI”の時代らしかった)は、ハヤリのプレッピー・アイビー風のファッション(とくにオサムちゃん)が、ベタな浪花のしゃべくりの臭味を消す効果をもたらしていた。彼らは当時大流行していた青山のボートハウスのトレーナーをよく着ていたし、「ぼんちシート」も手元にある次のシングル「ラヂオ NEW MUSICに耳を塞いで」のジャケットも、「メンズクラブ」誌のパロディーである(同じく近田作のこちらの曲は“アリス風ニューミュージック”の茶化し)。


ザ・ぼんちのアイビールックが目を引くシングル「ラヂオ NEW MUSICに耳を塞いで」

 ところで、「ぼんちシート」の大当りが契機になったのだろう、続々とお笑い陣のレコードが発売されるようになった。僕の手元にNHKの演芸番組班のデスクで採集してきた試聴盤シングル(前回参照)が何枚かある。
 「邦子のかわい子ぶりっ子」(山田邦子)、「雨の権之助坂」(ビートきよし)、「いたいけな夏」(ビートたけし)、「ハートブレイクホテルは満員」(春やすこ・けいこ)……。たけしは前年からシングルを出していたが、この「いたいけな夏」は加瀬邦彦作曲の軽快な湘南ポップス。「いたいけ」はたけしがオールナイトニッポンで多発する口癖ともいえるフレーズだった(高平哲郎の『ぼくたちの七〇年代』によると、高平や赤塚不二夫、タモリらの「面白グループ」が52年頃から「いたいけ祭り」と題してイベントをやっていたようだ)。
 ちなみにこの「いたいけな夏」、顔を作ってアイビーモデルを演じている「ラヂオ」のザ・ぼんちとはまた違って、照れながらマリンルックでポーズをとるたけしのジャケ写がイカしている。
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