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第24回

NHKの愉快な人たち②──レッツゴーヤングの女王様
昭和55年(1980年)

[ 更新 ] 2022.07.15
 担当局のNHKへ行くときは千代田線の代々木公園駅からアプローチしていた、と前回書いたけれど、たまに渋谷あるいは原宿から歩くこともあった。とくに原宿の明治神宮側の口から向かっていくとき、代々木競技場前の広々とした道で輪になって踊るタケノコ族やロックンロール族の集団をよく見掛けた。
 といっても車道がホコテンになっていなけりゃダメだから、あれは日曜や夏休みの特別な期間に取材で出向いたときだったのかもしれない。タケノコ族の面々がまとう“ニュー巫女みこファッション”みたいな洋服を販売するブティックの「竹の子」は、竹下通りの横道にあったが、ロックンロール族の方の若者が憧れたアメリカの’50s(フィフティーズ)カジュアルファッションの総本山「クリームソーダ」も原宿の渋谷(穏田おんでん)川の跡道に存在した(いまも健在)。僕は例の「スタジオボイス」誌の連載で、渋谷川の跡道を歩いて、知られざる原宿の裏町をルポルタージュしている(8月号)が、まだ“キャットストリート”という呼び名は使っていない。
 さて、ロックンロール族のグループがラジカセで流していたのは、「アメリカン・グラフィティ」の冒頭の曲としてポピュラーになった「ロック・アラウンド・ザ・クロック」や「アット・ザ・ホップ」……といった、リーゼント頭でツイスト映えする類のナンバーだったが、タケノコ族の連中のBGMはアラベスクの「ハロー・ミスターモンキー」やらジンギスカンの「ジンギスカン」やら、西ドイツのヘンテコなグループが歌う、俗にミュンヘン・サウンドと呼ばれたディスコ音楽だった。
 なぜ、この種の音楽がタケノコ族に愛好されたのか……よくわからないけれど、アラベスクやジンギスカンやノーランズ、といった面々の曲は、取材にかこつけてよく収録を眺めに行ったNHKの「レッツゴーヤング」でも、レギュラーメンバーのサンデーズのダンスナンバーによく使われていた(ここで踊っていた沖田浩之はやがてレッツヤンのレギュラーとなった)。
 地理的な因果関係はなかろうが、タケノコ族が踊っていた場所と「レッツゴーヤング」の収録が行われていたNHKホールとは、距離も近い。せいぜい200~300メートルくらいだろう。
 昭和49年春にスタートした「レッツゴーヤング」の司会者は何代か変わったが、僕がよく行っていたこの時期は太川陽介と榊原郁恵で、平尾昌晃が総合司会のような感じで付いていたと思う。レコードデビュー寸前のアイドルを中心に編成されるサンデーズのメンバーには、以前(第20回)紹介した佐藤恵利の他、この年の大型新人として加わったのが、田原俊彦、松田聖子、浜田朱里、といったあたり。とくに浜田朱里は、引退した山口百恵の後継を狙ってCBSソニーが大プッシュしていたニューフェースで、当初の扱いは同じCBSソニーの聖子を上回っていた。スクラップ帳に貼りつけられた新人紹介の小コラム「出番です」(4月18日号)でも扱っている。
 「十七歳、いまケーキに夢中。一日に四個ずつ、三日間食べ続けたのが最高記録とか。」
 なんてことが書かれているけれど、確かこの文章は僕ではなく、彼女がヒロインに抜擢されたTBSドラマ(「赤い魂」)の関係で、先に取材したTBS担当のYさんが執筆したのだ。先を越されて悔しい思いをした記憶が残る。
 このコメントに関しては無邪気な感じだが、浜田朱里のウリは“陰のある繊細な少女”というセンで、結局中森明菜にポジションを奪われるような格好で一線を退いていった。
 「レッツヤン」を眺めたのは収録というより、ゲネリハ(ーサル)の段階が多かった。がらーんとしたNHKホールの前列で指示を出しているのは、だいたい小口おぐちさんというスラッとした美貌の女性ディレクターだった。
 レッツヤンの台本はないけれど、手元に残るその関連特番「たのきんコンサート」(昭和56年5月4日放送)の台本に、演出・小口比菜子と記されている。


昭和56年に放送された「たのきんコンサート」の台本

 NHK本館の前回紹介したドラマ番組班と同じ8階の反対側にレッツヤンなどのバラエティー系音楽番組を制作する演芸番組班のデスクフロアーが置かれていたが、彼女はホールでもそちらでも、ほぼ黒の革ジャンに革パン──というスタイルをしていた。靴も、キンキーな編みあげ黒ブーツ、だった気がする。僕よりちょっと上の年代だったが、おそらく、ロンドン大好きロックガールだったのであろう。
 先に「美貌」と表現したけれど、その顔だちは安西マリアを彷彿とさせ、山猫っぽい切れ長目にかなり濃いめの黒シャドーが引かれている。一見とっつきにくい雰囲気ではあったけれど、アポなしで訪ねていっても快く番組の内容や裏話を語ってくれた。
「トシ(の奴)がね……」
 そういうとき、実際、「の奴」とまでは言わないものの、女王様が下僕をちょっと乱暴に呼び捨てるように、田原俊彦をトシ、川崎麻世をマヨ、と、ごくさりげなく語る感じがカッコよかった。
 何年か後にゲストとして小口さんの番組にんでいただいたこともあったが、数年前に「若くして他界された」と人づてに聞いて、ひどく残念な思いがした。
 演芸番組班の「レッツゴーヤング」の並びあたりに連日の昼帯番組「ひるのプレゼント」のデスクがあり、その向こうに「ばらえてぃ テレビファソラシド」のチームがいた。
 「テレビファ」は永六輔が番組を仕切る、いわば「夢であいましょう」の後継番組で、頼近美津子や加賀美幸子らの局(女子)アナをタレント化させた元祖番組ともいえる。深夜番組や小劇団のコアな人気者だったタモリや柄本明もこの8時台のNHK番組に起用されて、全国的に顔が売れた。
 チーフプロデューサーは末盛憲彦。番組の内容や出演者をいつもやさしい感じで教えてくれる初老の男が、あの「夢であいましょう」の骨組みを作って演出を指揮していた、バラエティー番組の重鎮……とはこの時点ではよく知らなかった。渥美清や坂本九ちゃんの“夢あい”時代の裏話をもっと伺っておくべきだった……と悔やまれる。
 ほとんど話す機会はなかったけれど、タモリや赤塚不二夫、東京ヴォードヴィルショーの関連記事なんかで顔と名前は知っていた滝大作ディレクターが、冬場でもTシャツ一丁のスタイルで「お笑いオンステージ」のデスクにおもしろくなさそうな顔をして座っていた。
 その列の端っこあたりに「脱線問答」というクイズ番組のデスクがあったはずだが、そこの池谷さん(下のお名前を失念してしまった)というディレクターには懇意にしてもらった。はかま満緒が司会をするこの番組は東京ローカルということもあって、解説記事で大きく扱うことはなかったが、親しくなるきっかけは“レコード”だった。
 演芸番組班へ行く楽しみの1つに、試聴盤採集があった。レッツヤンのような本格的な歌番組でなくても、「ナニかのきっかけで使ってもらおう」と、レコード会社の営業マンが置いていった歌謡曲のシングル盤が各番組のデスクに積みあげられていたりする。
 「コレ、もらっちゃっていいすか?」
 多少顔が知られるようになってからは、そういった葬り去られる・・・・・・ようなシングル盤(主にB級アイドルや奇妙なコミックソング)を僕が回収してまわっていた。
 なかでも池谷氏は「いいよ、いいよ、こっちのも持ってく?」なんて感じでホイホイ気前良くくれる人だった。NHKというより、民放のカルいディレクターのようで調子がいい。松本伊代(B級ではなくトップアイドルだったが)のデビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」をここでゲットしたことを妙におぼえている。
 演芸番組班の話はこのくらいにして、もう1箇所よくおじゃましたのが、10階の科学産業番組班(通称・科産)の「ウルトラアイ」のデスク。ウルトラ─は「ためしてガッテン」の源流にあたるような“科学バラエティー”の先駆的番組で、生活に根づいたテーマを山川静夫アナの進行で、わかりやすく検証していく。山川さんが身を挺して蚊に刺されまくる回をよくおぼえているけれど、解説原稿にしておもしろい番組なので、しばしば写真付きのトップ記事で扱っていた。
 中さんという、見るからに人の良さそうなプロデューサーと笹川さんというギョロ目のデスク(この場合は肩書としての)のお世話になったが、山川アナが割とよくこの部屋にあそびにきていて、番組内容を気さくに話してくれる。当時の「紅白」の定番アナウンサーじきじきの解説を伺いながら、ありがたい気分になった。
 そんな白組・山川静夫アナと紅組のタレント司会者(この年は黒柳徹子)が表紙を飾るTVガイド年末正月合併号の編集、入稿作業も終えて、もう雑誌が店頭に並んでいた12月の暮れも押しつまる頃、会社が入っていたプレスセンタービル上階のレストランホールで忘年会が催された。毎年、こういった全社忘年会があったわけではないから、何かのお祝いが絡んでいたのかもしれない。
 社の“宴会芸要員”だった僕はこの頃、田原俊彦の歌マネを持ちネタにしていた。9月に発売されたシングル第2弾の「ハッとして! Good」をこれより少し前の宴席で披露したところ、妙にウケがよく、この日も自前のスキーパンツをラメテープで装飾、トシちゃんっぽいサスペンダー(ズボン吊り)を白シャツの肩にひっかけて、パフォーマンスしていた。まだカラオケが広く普及する以前(スナックやクラブにムード歌謡や演歌のオケは入っていたが)だったから、バックはレコード(を録音したテープ)をそのまま流していたような気がする。


田原俊彦の歌マネをしていた頃の著者

 いい気分で1コーラス目を歌い終える頃、会場がにわかにザワついた。立食しながらステージを眺めていた客(他の社員)の意識が散らかったような、演者としてはいやな感じ。2コーラス目に入った頃だったか、バックに流れていたレコードの声をかき消すように傍らからホンモノの田原俊彦の歌声が聞こえてきた。
 数日後の大晦日に決定する、レコード大賞最優秀新人賞を前にしたあいさつ(TVガイド編集長が1票もっていたらしい)を兼ねてやってきた、と後で聞かされたが、ともかくトシ本人とデュエットするという、ハッとした年の瀬の出来事だった。
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