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第23回

NHKの愉快な人たち①──和田勉の笑い声が聞こえていた。
昭和55年(1980年)

[ 更新 ] 2022.07.01
 NHKへ出向くときにはだいたい千代田線を使った。編集部が入っていたプレスセンタービルから千代田線の霞ケ関は近かったし、代々木公園の駅で降りて代々木深町の方へ200~300メートルも歩けばNHKの西口玄関に着く。
 「TVガイド」の取材で14階の番組広報室へ立ち寄った後、階段を降りてよく行ったフロアーが8階だ。ここには、ドラマ番組班、演芸番組班、古典番組班が配置されていた。歌舞伎の中継などを受け持つ古典番組班はともかくとして、前の2班はエンタメの主軸でもあるドラマとバラエティーの各番組を担当する班だから、これといった取材はなくても“顔見せ”は欠かせない。NHKの局担(番記者)として2年目にもなると、顔見知りのディレクターやプロデューサーも増えていた。
 まずはドラマ番組班。僕は翌年の社内報「四季」(56年4月発行)にNHKドラマ班の人々の名を少しいじって・・・・、おもしろエッセー調の文を寄稿しているので、それを糸口に案内していこう。

エレベーターは八階で止まった。浅田は最近気に入っている菱屋のレジメンタルタイをプレーンノットに締めて、NHKドラマ部の室に入っていった。(中略)
「ガッハ、ガハガハ、いやーどーしたんだね今日は?」賀田勉は、窓際の席にふんぞり返りながら、岩のような顔をクシャクシャにして、浅田を出迎えた。

 浅田=僕のことだが、賀田勉とはお察しのとおり、和田勉。実際このとおり、部屋の一方の端っこの窓際の席にいて、ガッハガハ……という豪快な笑い声がかなり離れたところにいても聞こえてきた。
 当時、和田氏は土曜ドラマの枠やスペシャルモノを手掛けていたが、とくに前年からの「阿修羅のごとく」は向田邦子の脚本も良く、評判を呼んでいた。夏目雅子を女優として開花させた「ザ・商社」(松本清張原作)も、この年の和田作品だ。
 そして、先の社内報に賀田のライバルとして「深道」という男が登場するのだが、この人は同じく向田脚本の「あ・うん」や翌年には吉永小百合の「夢千代日記」を手掛ける深町幸男。“ドラマ人間模様”という枠のエースディレクターだった。
 剛の和田に対する、静の深町って感じだったが、深町氏自身は静かな人ではなく、カン高い声でていねいに自作の解説をしてくれる、記者にはありがたいディレクターだった。この後で詳しく書く“フーちゃん”と呼ばれていたプロデューサーのF氏が、深町の風貌を「下町のパン屋のオヤジ」と秀逸な表現で語っていたのを思い出す。
 フーちゃんのF氏は和田勉のドラマのプロデューサーをやっていた時期もあったはずだが、僕が親しくなったのは、この春から秋にかけての朝ドラ「なっちゃんの写真館」がきっかけだった。先に前年の朝ドラ「マー姉ちゃん」で母親役の藤田弓子が語るコラムの担当をしていた話を書いたけれど、この番組でも主演ヒロインの星野知子が語る収録裏話をテープ録音して、毎週短いコラムにまとめていた。
 なっちゃん──は、カメラマン・立木義浩の母上をモデルにした物語で、ヒロインに抜擢された星野知子は確か法政大学を出たばかりの新人だった。藤田さんのときと同じように、100番台のスタジオ近くの楽屋(よりもメイクコーナーの空いた一角、みたいな場所が多かった)でお話を伺っていたが、星野さんは同世代(調べ直したら1学年下)ということもあって、番組以外の巷の話題もはずんだ。シレッとした感じで時事ネタも語る才女、という雰囲気だった。


星野知子が表紙を飾った「週刊TVガイド」昭和55年5月2日号(『表紙で振り返るTVガイド50年』東京ニュース通信社より)

 コラムで番組を熱心に取りあげていたこともあって、プロデューサーのF氏に目を掛けられた。道向こうの渋谷公会堂側の一角にあった「ベラミ」という夜はスナックになるような店によく連れていかれて、コーヒーや軽食をごちそうになった。いや、ここでよくおぼえているのは、TVゲームである。以前、スペースインベーダーにハマッていた上司の話を書いたけれど、この時期のハヤリは「ギャラクシアン」というインベーダーの進化系のものに変わっていた。この店の卓にギャラクシアンが装備されているものがあって、僕より2回りくらい上の年代のF氏が子供のように熱中していた。
 とはいえ、F氏は連れを放っぽらかしにして、ただ黙々とゲームに没頭しているようなタイプではなく、ゲーム中も会話を切らさない。多趣味で饒舌、社交にも長けた人だった。
 ところで、和田勉や深町幸男を実名で書いてきて、この人をF氏とかフーちゃん……と、名前をぼかして表現したのは、ディレクターよりも“裏方”の印象が強いプロデューサー(エンドロールにも“制作”と記される)だからというわけではなく、TVゲーム以外の氏の趣味に配慮したところがある。
 ポルノ書といいますか、海外モノや古典も含めて“レアなエロ本”の蒐集家だったのだ。
 80年代初頭の当時は、ビニールにコーティングされて町角の自販機などにセットされた、いわゆる“ビニ本”の隆盛期だったが、なかに問題の部位がマジックインキなどで潰されていない“裏本”と呼ばれるものがあった。
 ドラマ班のF氏のもとに立ち寄ったとき、彼は周辺に人がいないのを見計らってから、すっと抽斗を開けて、「ねっ?」なんて念を押すようにニンマリと僕の目を見て、裏本のイチオシのページを開いてみせるのだ。こういう瞬間の顔がギャラクシアンをやっているときと同じように、無邪気なのだ。そういうお宝本をどこで手に入れるのかというと、歌舞伎町のコマの裏方あたりに行きつけのショップがあって、1度連れていってもらったことがあったけれど、F氏が奥にいる店主のところにいくと、向こうが「お客さん、いいの入りましたぜ」ってな感じで、無言で何冊か差し出してくるのだ。どれも表紙から露骨な写真が掲げられているわけではなく、白やグレーの地に「百合」とか「くちなし」とかの清楚な花の名が付けられていた。
 和田氏も深町氏もF氏を介して知り合ったのだったが、館内の通路の一角で山田太一と向田邦子の両作家を紹介された場面が忘れられない。あそこは西口から入っていって、T字に突きあたった、横の広い窓から陽が射しこむ通路のあたり。向こうの本館エレベーターの方からF氏が両者を伴って歩いてきて、目が合った瞬間に「TVガイドの有能記者」なんて感じで、傍らの2人に僕のことを紹介してくれた。
 まぁ、紹介というほどの時間でもなかったが、山田氏も向田氏も戸惑ったような、微妙な顔をされていた。程なくして台湾の飛行機事故で急逝する向田邦子という人をナマで見た唯一のシーン、として記憶される。
 向田邦子と似たタイプの顔だちをした、岡本由紀子という「銀河テレビ小説」(夜9時台のドラマ枠)の女性プロデューサーもF氏の仲立ちで親しくなって、ドラマ班の部屋へ行くたびに彼女が愛好していたショートホープを1本“もらいタバコ”したことを急に思い出したが、確かその並びの席に奇才ディレクターの佐々木昭一郎さんが座っていた。
 佐々木氏はたまに単発のスペシャルドラマしか撮らない“局内映画監督”のような人だった(もっとも社員だから、他の番組のサポートなどはしていたのかもしれない)。
 「四季・ユートピアノ」という90分モノのスペシャルドラマが55年の1月12日に放送されているが、知り合ったのはこの番組の取材をしたときだろう。ピアノ調律師の勉強をする音に敏感な少女の日常を描いたセミドキュメンタリー風のドラマで、中尾幸世というカルトな女優(東京キッドブラザースの舞台がデビューらしいが、当時は知らなかった)が主演していた。翌年にも同じ中尾を使って「川の流れはバイオリンの音」という続編的なドラマを作って、いくつかの国際賞を受賞した。
 ロマンチックな映像詩のような、ATGの寺山修司作品を思わせるアングラなムードも感じられる佐々木氏の作品、取材をしていて一段と興味をもったのは、中学生のときに観た「さすらい」という印象的な単発ドラマが彼の演出だった、と知ったからだ。
 僕が中3だった昭和46年の11月に放送された「さすらい」は、孤児院育ちのハタチ手前の少年が看板屋で働いたり、サーカス団の一員になったりしながら、いわゆる“自分探しの旅”をするロードムービー調の物語で、日比谷野音で遠藤賢司が「カレーライス」を歌っていたり、渋谷の看板屋の先輩が友川かずきだったり、当時のフォーク少年は思わず目が点になる番組だった。とくに、まだ漢字名義のシロートだった栗田裕美(ひろみ)が謎めいた美少女という感じで代官山の踏切あたりを歩いていくシーンに胸が高鳴った。
 栗田ひろみをスカウトするまでの興味深い経緯を伺ったのは、佐々木氏に誘われて入ったお好み焼の店ではなかったか……。渋谷のセンター街の中程だったはずだが、手元にある近い時代の住宅地図(昭和47年)に「お好み焼 梅よし」というのがあるから、ここかもしれない。
 関東式に客が各々卓上鉄板で作るタイプの店。よくおぼえているのは、溶いた粉や切りイカなどの具の一式が運ばれてきたのに、2人しばらくじっと鉄板を見つめていたことだ。お好み焼に誘ったのは佐々木さんの方だったので、てっきり通いつめた常連……と思っていたら「ぼく、お好み焼屋、初めてなんですよ。作れますぅ?」
 長い沈黙の後にそんな一言をぼそっと告白されて、ギャフンとなった。
 そして、栗田ひろみを起用するまでのエピソードはこんな感じ。
「池袋の西武の食堂でスパゲッティーか何かを食べていたのを目撃したんですよ。あの少女の役は彼女しかない、って思って、声をかけて連絡先まで聞き出したんだけど、なかなか返事をもらえなくてね。それで、通っていた中学校の校門の前でまちぶせして、何日か目にようやく承諾してくれたんです」
 いまどきはこういう露骨なスカウト、ちょっと難しいだろうが、ともかく純粋な人なのだ。
 そういえば、「アサイ(僕の本名)さんは、微熱少年だよね」なんてことを唐突にいわれたことがあった。
 僕も鈴木茂の「バンドワゴン」に入ったその曲は愛聴していたけれど、発言の意図はよくわからない。
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