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第22回

『なんとなく、クリスタル』と初めての連載コラム
昭和55年(1980年)

[ 更新 ] 2022.06.15
 田中康夫の『なんとなく、クリスタル』がベストセラーになって“クリスタル”のフレーズも含めて大ブームになったのは翌年(56年)に入ってからのことだったが、河出書房主催の「文藝賞」を取って「文藝」誌に作品が掲載されたのはこの年の暮れの頃であり、文庫本の“あとがき”によると小説は5月頃に一橋大学の図書館で執筆されたものらしい。
 「順調にいけば、その年の三月に法学部を卒業して、長期信用系銀行である日本興業銀行に勤務することになっていた僕は、卒業直前に停学処分を受けて、留年することになった」
 停学の事情(聞いたことがあるけれど、ここでは省く)はともかく、それでいわゆるモラトリアムの期間が延びたことが作品の発想へつながったのだろう。国立くにたちの一橋キャンパスの芝生の中の通路にコカ・コーラの空き缶を並べて仲間とローラースケートに興じる、ポパイ少年らしいライフスタイルが記されている。
 「ローラー・スケートをすると、また、図書館に戻って、本を読む。四月の中旬から新学期が始まって、半月くらいの間、そんな毎日を過ごしていた僕は、ゴールデン・ウィークが過ぎると、八〇年代の東京に生きる大学生を主人公にした小説を、無性に書いてみたくなった」
 小説は3週間ほどかかって5月末日に完成、応募〆切ギリギリに郵送された。
 そんな経緯が書かれた〈あとがき〉を最近読み直して、そうか……僕が「スタジオボイス」誌で初めての連載をもったのと同じ頃だったのか、と感慨をおぼえた。田中氏は留年などしたのでまだ大学にいたけれど、僕と彼とは確か生年月日も3、4日違いくらいの同い年なのである。
 森英恵(ハナエ・モリ)主宰の流行通信が発行していた月刊誌「スタジオボイス」は平成年間、90年代の頃はファッション系サブカル誌としてけっこう知られていたが、80年代初頭の当時は紀伊國屋あたりに行かないとなかなか見られないミニコミっぽい時代で、タブロイド判の表紙に〈Interview Maper〉〈Andy Warhol’s Interview紙独占〉などと銘打たれていた。
 当時の「スタジオボイス」の編集部は、表参道のハナエ・モリの本社ビルと少し離れた、スーパーの方の紀ノ国屋・・・・手前の横道を入ったあたりの三河屋という古い酒屋の2階にあった。


著者初の連載コラムが掲載された「スタジオボイス」1980年6月号

 さて、僕の連載コラムが初出したのはこの年(55年)の6月号──6月1日発行、と記されているが、おそらくゴールデンウィーク前の発売だろう。
 ちなみにこの号の表紙は、戦前の小学教科書風の新聞配達少年の絵に〈躍進雄飛號〉と旧字が記されているが、いつもこういうレトロ調というわけではなく、モデルの山口小夜子や外国人の俳優が表紙を飾ることもあった。
 具体的な内容は後述することにして、連載が決まった打ち合わせの場面は強く記憶されている。東銀座のマガジンハウス──といってもまだ「平凡出版」の名称だった頃、黒塗りの地味な社屋(奥の方に存在した料亭・万安楼の黒塀をちょっと連想させた)の対面にあった「フロリダ」という平凡出版御用達の喫茶店。当時、溜池交差点近くに健在だったフロリダ・ダンスホールの関係店だったかどうかは定かでないが、広い窓の傍らにソテツみたいな南洋樹が置かれたコロニアルムードのシャレた感じの店で、街の喫茶店にしては妙に細い麵を使ったスパゲッティー・ミートソースがうまかった。
 ここで僕は学生時代から知り合いの松尾多一郎の紹介で「スタジオボイス」の編集長と対面した。
 松尾は慶応の付属中(中等部)からの同窓生だったが、同じクラスになったことはなく、大学も僕は商学部、彼は文学部に進んだので、お互い知ってはいたが、懇知の友人というわけではなかった。もっとも彼が、大学時代から「ポパイ」で署名のコラムを書いていたことは把握していた。椎根和の『POPEYE物語』(2008年)より少し先に出た「ポパイ」の歴史本、赤田祐一の『「ポパイ」の時代』(2002年・太田出版)に松尾氏のインタビューが掲載されているが、これによると彼は第2号に載った〈POPEYEは才能を捜しています〉というスタッフ公募の告知に触発されて、自作のイラスト・ルポを編集部に郵送、第5号から本格的に編集に関わっていたという。
 彼との距離が近くなったのは、例の「TVガイド」のパロディーCMが話題になった頃だろう。松尾君が「平凡パンチ」の方で担当していた2色刷りのページで、パロディー系のオアソビ企画を一緒にやらないか……と、もう1人の共通の友人(映画サークルのH君ではなかったか?)とともに誘われたのが発端だった気がする。まぁそんなわけで、大学時代の終盤からはなんとなくのつきあいが続いていて、僕が「TVガイド」の編集部に勤務するようになってからも、単発の仕事(前回ふれた「ポパイ」の1960年代TVのコラムなど)を頼まれていた。
 誌面をリニューアルする「スタジオボイス」で新たにコラムを書く人を探している……と、松尾から連絡を受けたのは、年月を逆算して春先の2月か3月くらいではないだろうか。編集長を務めるのは「ポパイ」の映画コラムでもおなじみの映画評論家・稲田隆紀。僕らより7、8年上の団塊世代の人だったが、松尾とはタメぐちでやりとりするような仲だった。「イナダさん、興味示してるんでさ、ナニか書いたもの持ってきて」ってことで、雑誌に載ったコラムの切りぬきも持参したのだろうが、ハッキリおぼえているのは、広研の機関誌「三田広告研究」に書いた「現代ケイオーボーイ考」という流行評論的な一文のコピー。「マイケルフランクスを聴いて、エストで珈琲を飲めば、シティーボーイになれるだろうか。」という、ポパイ文体のクサいサブタイトルが付いている。ハヤリのディスコや喫茶店、ソフト&メロウな曲の名が詰めこまれた、いま読むと切り口の甘いトレンド論考だが、まだ『なんとなく、クリスタル』も世に出る前、稲田氏には新鮮に映ったようだった。
 そして、初めての連載「ミーハーチックな夜が好き」はスタートした。この連載エッセーのほとんどは先頃刊行した『泉麻人自選 黄金の1980年代コラム』という、自選コレクション的な著書に掲載しているが、第1回は「あずきヌガーと竹内まりやの関係──なぜ今60sなのか?」と題して、この春の資生堂の化粧品キャンペーンCMにも使われた竹内の「不思議なピーチパイ」を糸口に、個人的に好みの1960年代風俗について論じている。ちなみに「あずきヌガー」というのは、かつて雪印が発売していた“あずき入りのヌガー菓子”で、以前「大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ」の話のなかでふれた「SBモナカカレー」とともに手持ちの新聞縮刷版(1960年頃の読売新聞)で見つけた広告を欄外に掲載している。
 竹内の「ピーチパイ」は安井かずみ(詞)と加藤和彦(曲)のコンビによる楽曲だったが、往年の森山加代子あたりを思わせる60s(シックスティーズ)のカバーポップス調で、「ザ・ヒットパレード」の頃の坂本九や森山加代子、パラダイスキングが洋楽の入り口だった僕はいたく・・・気に入っていた。ともかく、この連載は以降こういう“レトロネタを引きあいにしたナウ評論”みたいなセンで進むのだが、初回冒頭のリード的文章が“時代と若さ”を露骨に表わしていて、恥ずかしい。
 「紺のハイソックスが大好きなハマトラちゃん、ボタンダウンがお気に入りのプレッピーくん、これから、キミたちの好きなミーハー話が始まるよ! だけど、このミーハー話は、いつもとちょっと違うんだ。サーフィンやニューヨークの話は、あんまり出てこないんだ。ごめんね。でも、これさえ読めば真のハイテック人間になれるぜ。さーリバティーのダウンを脱ぎ捨てて、本の前に集まれ!」
 自らの“ポパイ少年性”を茶化しているような文章だが、世相全般に「カルくしよう、カルくしよう」という空気が漂っていた。これも“昭和ケーハク体”と呼ばれた文章の1種といえるかもしれない。
 ところで、この「スタジオボイス」(55年6月号)、目次の頭に〈特集 80ways to live our 80’s〉と打たれていて、80年代の初頭らしいコラムやインタビューが集まっている。トップは提携している「アンディ・ウォーホル・インタビュー」誌が出元のロン・ダグウェイ(アイスホッケーのスター選手にしてサスーンのモデル)のインタビューだが、その後に「ブルータス」を創刊しようとしている「ポパイ」元編集長・木滑良久のインタビューがある。聞き手は松尾多一郎。この時期「ポパイ」で本領のアメコミや洋書のコラムの他に、「ガーニング・インタビュー」という新進芸人のインタビュー構成をやっていた松尾の切りこみは鋭く、永遠の少年というか、オシャレマッチョな木滑の思考をうまく引き出している。
 「男は死ぬまで同じ年っていうぼくの考えから、“ポパイ”の先にもうひとつレールが敷けるんじゃないか、そんな感じにしたいと思ってるんですよ。あとね、アメリカ人もEC諸国のひともある年代をつかまえてみると、年収はだいたい日本人と同じくらい、物価なんかは、フランスの方が高いくらいでしょ、それなのに日本人のライフスタイルはちょっと貧困すぎるんじゃないか……その辺を刺激してみたいっていうのがある」
 「TOKIO」で作詞家としても注目され始めた糸井重里のインタビューもある。新作の「恋のバッド・チューニング」のコンセプトの話に始まって、最後の方では空手道場に通っていることを明かしている。糸井氏の話題はこの後も何かと出てくるかと思うのでこのくらいにして、インタビュアーの都竹千穂という女性エッセイストは名前の記憶がある。4年後に「週刊文春」で連載コラム(ナウのしくみ)をもったとき、同じ号で彼女も新連載をスタートさせたのだ。
 他にも征木高司、松木直也……と「ポパイ」でなじみの執筆者の名が見えるが、当時雑誌「流行通信」の敏腕編集者として知られた川村容子(その後、文藝春秋に移った)が僕のコラムと同じく竹内まりやを取りあげている。こちらは短いインタビューコラムだが、まだアイドルっぽい風貌のまりやがバケツをいくつも手にもった、「アンアン」っぽい写真が載っている。
 アイドル的なノリの頃とはいえ、バケツにたとえてユーミンを語っているのが興味深い。
 「ポリバケツの方がバケツより、進歩的で、ファッショナブル。ユーミンがポリバケツだって言ったのは、それなのよね。彼女は非日常に向かいたがってるし。私のやり方は、どれだけ普通っぽい所でやるかということなんだ。平凡さの中にも、ハッとさせるような瞬間をねらってね」
 まぁこういう活字化されたコメントは、どこまで本人の生の言葉かは定かでないが、その後のユーミンと竹内まりやの立ち位置の差異のようなものがこの時点で語られている、というのにちょっと驚いた。
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