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第21回

深夜のTBSラジオで〈泉麻人〉は誕生した。
昭和55年(1980年)

[ 更新 ] 2022.06.01
 昭和55年は1980年代の幕明けの年だ。あの頃はまだ正月の朝の光景に根づいていた、ぶ厚い新年の新聞朝刊をうきうきしながら手にしたときに目に入った〈1980年〉の年号に新鮮なものを感じたことをおぼえている。
 前日の大晦日の夜に決まったレコード大賞はジュディ・オングが純白ゴージャスドレスを纏い歌うリゾート気分のラブソング「魅せられて」(阿木燿子作詞・筒美京平作曲・編曲)、最優秀新人賞は桑江知子の「私のハートはストップモーション」(竜真知子作詞・都倉俊一作曲・萩田光雄編曲)で、いずれもAORやシティポップの時代のムードが漂っていた。
 そして、この時期人気もピークだったジュリー=沢田研二の新曲(1月1日発売)「TOKIO」の作詞者が前年までの常連・阿久悠から糸井重里にチェンジしたのも象徴的な出来事だった。
 この80年代の初年、昭和55年が〈泉麻人いずみあさと〉の名で連載コラムをスタートさせた“実質的デビュー”の年なのだが、この筆名が初めて雑誌に載ったのは前年(昭和54年)の暮れ、学生時代から愛読していた「ポパイ」の79年12月25日号と思われる。〈from 60’s on〉と題された1960年代特集の1冊のなかで、僕は〈泉麻人〉の名を記して60年代のアメリカのTVドラマの話を書いている。この連載で以前に取りあげた「宝島」(ぼくたちの世代)のノスタルジーTVのコラムに触発されたような文章だった。
 椎根和『POPEYE物語』には、編集部の松川哲夫氏(この人は広研キャンプストアーのプロモーションで学生時代に会った方だ)が僕を連れてきたように書かれているが、仲立ちのもとになったのは慶応の同窓生・松尾多一郎という男だ。彼については後に詳しく書くことになると思うが、ともかくこの「ポパイ」の原稿では、勤務している「TVガイド」の資料室に保管された古いプレス資料(この当時、管理が甘かったので、番組写真も拝借して使ったかもしれない)が大いに役立った。
 ところで、〈泉麻人〉の名を初めて使ったマスメディアは雑誌ではなく、ラジオだった。「TVガイド」で働き始めてまだまもない頃(54年の夏頃ではなかったか?)、腰山一生いっせいという男と知り合った。僕より2学年かそこら上の彼は大学(法政だったと思う)時代から始めた放送作家の仕事が本領だったが、わが編集部にもフリーライターとして出入りしていた。営業や広告部の人たちが中心メンバーになっていた野球チームに助っ人でやってきたのが発端と聞いたが、そちらの面々とランチに行ったとき、何かのきっかけで僕が披露したマニアックな歌謡曲のウンチクやイントロの口マネ……なんかが同席していた腰山氏に妙にウケたのだ。
 彼はNHKの青少年番組班(「若い広場」や「ヤング・ミュージック・ショー」、「少年ドラマシリーズ」など若者ターゲットの番組を受け持つ)にも、よく企画の持ちこみをしていたので、そこで会うこともあった。たんさん、という変わった名前のプロデューサーに可愛がられていた。
 「オレ、TBSラジオの番組もやってるからさ、こんどアソビに来いよ、土曜の深夜」
 なんて感じで誘われて行ったのが、「ヤングプラザ午前3時」という、タイトルのとおり土曜の深夜というか、日曜午前3時スタートの生ワイド番組で、「とまどいトワイライト」という曲がヒットして売り出し中の女性シンガー・豊島たづみがDJ(パーソナリティー)を務めていた。
 彼女も「飛んでイスタンブール」の庄野真代や「異邦人」の久保田早紀、「みずいろの雨」の八神純子、「真夜中のドア」の松原みき……竹内まりや、杏里、越美晴らとともにこの時期に台頭してきた女性ニューミュージック(シティポップ)勢の1人といっていいだろう。この「とまどい──」という曲はTBSテレビの「たとえば、愛」という倉本聰脚本のドラマの主題歌で、大原麗子が夜更けのラジオDJを演じるストーリー(三田村邦彦がカルい調子のディレクターをやっていた……)にもよくなじんでいた。


この年(昭和55年)6月発売の豊島たづみのシングル「パジャマ・ゲーム」。
ちあき哲也作詞、筒美京平作曲、萩田光男編曲という黄金チームでの制作

 出元のドラマの話はさておき、この豊島たづみの番組はいくつかのコーナーから構成される、深夜のラジオバラエティーらしいつくりだった。当時のディレクター・梅本満氏にメールで番組内容について確認したところ、彼女がどっぷりハマッていた千代の富士を応援するコーナーや阪神タイガースの田淵選手に関するおもしろ投稿を紹介する「がんばれタブチ」のコーナー(「タモリ倶楽部」の“空耳アワー”に先駈けて「キラー・クイーン」の“がんば~れタブチ”と聞こえるパートをテーマ曲に使っていた)などがあった(僕もメールを読んで思い出した)ようだが、千代の富士はまだ前頭で番付を上げて注目され始めた頃だろう。
 そんな番組に僕は「チャラチャラ歌謡評論家」と称して出演することになった。ミーハー歌謡評論……だったような気もするが、ともかくチャラチャラしたアイドルの曲の知る人ぞ知るB面の名曲なんかを紹介しつつ、いいかげんなことをくっちゃべるような内容だった、と思う。出演する際、とりあえずそれっぽい芸名を作ろうと、腰山氏とやりとりして、結局本名(朝井泉)をひっくり返して、さらにちょっと詩人っぽい趣きも加えて、泉麻人(イズミアサト)としたのだった。まぁ、番組表に名前が掲載されることもなかったから、「麻人」の字を宛てたのは「ポパイ」の原稿を仕上げた段階だったかもしれないが、豊島たづみの番組は54年10月にスタートしたという。件の「ポパイ」は12月25日号だから、およそひと月前の発売として、せいぜい11月頃には泉麻人の芸(筆)名は生まれていたことになるだろう。
 豊島たづみの番組には何度か通ったが、土曜の深夜だったので、だいたい車を運転していった。現在のTBSに建てかえる以前、乃木坂の方からくる通り(いまは赤坂通りというらしい)に寂しい門があった。そこを守衛さんに開けてもらって、電波塔の方へ上っていく坂の入り口によく車(中古のコロナ)を停めた。すぐ脇の場末めいた棟に入っていくと、TBSラジオの番組を中心に制作する「総合放送」という会社のフロアーがあって、その一角にスタジオがあった。
 僕が楽しみにしていたのは、打ち合わせをして生本番までに時間の余裕があるときに入るレコード資料室だった。当時はアナログなシステムの頃だったが、図書館にあるような所蔵作品カードをチェックして、奥のロッカーにぎっしりと収納されたレアな歌謡曲のシングル盤を探す作業に没頭した。
 そう、この当時、新宿西口の青梅街道の大歩道橋のたもとにある「トガワ」という古レコード屋(横道を挟んだ向かいに大学イモ屋があり、裏手に「西口トルコ」というしょぼいネオン看板を掲げたソープがあった)によく歌謡曲のシングル盤をあさりにいっていたが、このレコード室にはトガワでも見つからないようなレアなやつが所蔵されていて、好みのを選んで持参したカセットテープに録音した。古いものばかりではなく、林美雄がパックインミュージックの「ユアヒットしないパレード」で紹介するようなカルトな新譜もここでチェックした。
 谷口雅洋の「ああ無情」とか川口雅代の「やさしいAffair」とかを録音したテープをこのレコード室で作成したおぼえがあるけれど、調べるとこの辺は昭和56年の曲だから、林美雄はもう「パック」を降りて、馬場こずえをアシスタントに「パノラマワイド ヨーイドン!」を始めた頃だったかもしれない。この番組は土曜深夜の日曜午前3時スタートの、つまり先の「ヤングプラザ」の後継番組で、スタッフも同じだったから、僕もよくアソビに行った。
 アソビに行った……というより、この番組内の2つの番組(短いのでコーナーといってもいいが)に僕は関わっていた。
 1つは野田秀樹の「三時のあなたに会いましょう」。サブカル目利きの林は野田の劇団「夢の遊眠社」にも早くから注目していて、これはおそらく彼の初ラジオ番組だろう。作家の腰山氏だったか、ディレクターの梅本氏だったか、スタジオにいるときに「何かテーマ曲に使える曲ないかな?」と相談されて、例の「トガワ」で手に入れたばかりの不二家トプシーチョコレートの宣材ソノシート(ボブ・マグラスという歌手のアンディ・ウィリアムス調のバラード)を聴かせたところ、ぴったりだということになって、すぐに採用された。
 そして、もう1つは椎名誠の「拍手パチパチ人生」という番組で、こちらもたぶん椎名氏の初ラジオ番組であろう(ちょい前に東海ラジオで番組をやっていた、と梅本氏から後日聞いた)。椎名さんが「ブルータス」なんかに書いていたエッセーの調子で巷の流行を茶化したり、苦言を呈したり……といったひとり語りの内容だったが、冒頭に“時事ネタを織りこんだナレーション”を入れようということになって、その役を僕が任されたのだ。
 「石原裕次郎が解離性大動脈瘤で入院……」みたいなニュースをまくし立てるように語ったことをおぼえているが、そういった時事ネタの見出しフレーズを2つ3つ紹介した後に「出てこいシーナ、椎名誠!」と張り気味の声で呼びこむと、主役の椎名氏がぼそぼそと語り始める。もちろん、頭で僕が嚙んだら台無しだから、冒頭のナレは予め別録りしていた。
 当時椎名氏と言葉を交す機会はなかったが、1、2度エレベーターで乗り合わせたことがあった。軽く会釈をしたとき、椎名さんも、「そうか、こいつが頭のナレーションをやってる泉ナンタラ」と気づいたのか、微妙に照れたような表情をした……記憶があるのだが、僕の思いこみかもしれない。
 この林さんの番組でも僕は“チャラチャラ歌謡評論”のコーナーをもつようになったはずだが、確か前にモノマネのコーナーをやっていた山田邦子がテレビ(「笑ってる場合ですよ!」だったか)の仕事が忙しくなるとかで、空きができ、僕が穴埋めすることになったのである。
 山田邦子を連れてきた腰山さんは、自身も芸達者で田中角栄の声帯模写を十八番にしていた。新宿の伊勢丹裏にあった「酔胡すいこ」という中華料理の酒場が腰山さんや林さんたちの溜り場(映画関係者や編集者もよく来た)で、ここでの宴会で腰山氏の角栄ネタを何度か見聞した。そういえば当時、田中角栄の声マネをやる者は大学のサークルレベルでもいたものだが、腰山氏のは首の曲げ具合、言葉の選び方などのディティールが格別だった。彼はこの「酔胡」の常連客だった男とともに古舘伊知郎を独立させて、古舘プロジェクトを立ちあげた。僕が出演した「テレビ探偵団」(昭和61年からの放送なので、この昭和50年代の連載からは外れるが)の企画、構成作家でもあったが、21世紀幕明けの2001年の初めに50代を前に早逝してしまった。林美雄さんも、翌年の夏にこの世を去った。
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