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第19回

入社した「TVガイド」は霞ケ関にあった。
昭和54年(1979年)

[ 更新 ] 2022.05.02
 この春から「週刊TVガイド」を発行している東京ニュース通信社の社員となった。前回の原稿でも活用したカレンダー型のスケジュール帳には、アメリカ旅行に出た2月、3月の後、4月の頭まで予定が記されているのだが、これによると4月2日(月曜)が入社式で、3日間の研修を経た後、6日の欄に“TVガイド編集部所属決定”と書かれている。
 この年の新入社員は男子6名だったが、TVガイドの編集部に配属されたのは僕1人だった。会社の業務として世間によく知られていたのはTV番組情報誌の「TVガイド」だったが、終戦まもない昭和22年に設立された会社(昭和8年に奥山サービスという日刊英文通信紙から立ちあがった)の屋台骨となったのは「シッピング&トレード・ニュース」という貿易船舶の出入港のタイムテーブルを軸にした業界新聞で、この部署には「新聞本部」という社の中核的な名称が付けられていた。“タイムテーブル”にヒントを得て、アメリカに存在する「TVガイド」の日本版をやろう……と、2代目社長(奥山忠)が週刊TVガイドを創刊したのが昭和37年の夏のことだった。
 僕の入社のきっかけは、例の“パロディーCM制作”の縁が大きかったが、テレビっ子の僕は子供の頃からたまにこの雑誌を買っていた。昔のを10冊ほど取りおいているが、一番古いのはワイルドワンズの渡辺茂樹と植田芳暁が表紙になった昭和43年4月5日号。GSブームさかりの小6のときに購入したものだ。
 そんな昭和40年代、50年代初めくらいのバックナンバー巻末の会社住所は銀座(西)8丁目……となっているが、ここは外堀通りの京都新聞社のビルで、確か面接か何かでこのビルに行った記憶がある。が、多くの部署は入社の2、3年前に竣工した内幸町のプレスセンタービルに入っていた。日比谷公園の南側、頂きがカマボコ形に切られた特徴的なビルディング。いまやもう古参ビルの趣きが漂っているけれど、当時はまだピカピカの状態の頃で、通勤のモチベーションは上がった。通勤で使う最寄り駅は千代田線の霞ケ関。ラフな雑誌編集者の世界を思い描いてきた若者にとって、霞ケ関という官庁っぽい出勤地はちょっと重苦しかったが、千代田線は開通して10年足らずの新しい地下鉄で、原宿(明治神宮前)から乗ると表参道、乃木坂と、アソビ気分の地名の駅を通っていくのが気に入っていた。


入社当時の著者の社員証

 プレスセンタービルは11階建のようだが、わが社が入っていたのは、7、8階あたりの2フロアーだったか……編集部の部屋には3、4列くらいの机の並びがあって、ちょっとした空き間に背の低い応接セットのような卓とイスが配置されていた。
 編集部は特集班と番組班とに大別され、原稿全般の校正や割り付けをする整理係が何人かいたが、新入社員はまず番組班でキー局の担当記者をやることになる。僕が任されたのはNHKの担当記者だった。前任者が特集班に異動することになって、空きが出たのだ。ほぼ全日、渋谷のNHKに通いつめて取材していたので、NHKでのエピソードはたっぷりあるのだが、それは後回しにしよう。
 番組班の記者の仕事で最も重要なものとされていたのが、番組表の作成だった。番組紹介のコラムやグラビアもあったが、雑誌の柱となっているのは1週間分の番組表であり、ここでミスするわけにはいかない。NHKの場合は教育テレビ(3チャンネル)もあったので、Fさんというフリーの女性がサポートに付いていたが、民放と違って、タレント以外の学者や評論家が出演する番組や歌舞伎、クラシックコンサートなどの劇場中継が多いので、こういう出演者の名前や演目を確認するのに時間を要した。また、入稿や校正の〆切までに番組内容が決まらず、欄の空白を埋めるのに苦労することもあった(国会中継などが入って、急に番組が飛ぶ・・こともある)。
 この番組表は帯のように長い、専用の用紙に記述していたはずだ。番組タイトルの頭にまだわずかながら残っていた白黒放送(古い映画もそうだ)を表わすマークやその当時増えてきたステレオ放送の🅂や二か国語放送の🈔のマークを入れる欄があって、こういうのを書き落とすと、トヨさんという短気なデスクから雷が落ちる。
 「おい、『名曲アルバム』のSマーク、また落ちてるぞ」「この『N響アワー』の空欄もっと埋まんねぇのかっ」「4時半の『婦人百科』は再放送だろっ?」なんて感じで。回想すると、高校時代の授業のようでもあり、なつかしい。
 まだ残業時間にもうるさくない時代だったから、入稿作業ピークの火曜や水曜は10時、11時くらいまでの残業になることも多かった(確か11時を過ぎると日交の車券が使えたので、それを目当てにグダグダと油を売ることもあった……)。
 それはともかく、そういう残業の日は夕食の出前を取る。編集部唯一の新人の僕が各人から注文を伺って、3店くらいの決まった店に電話する係をやっていたが、先のトヨさんは一旦「カレー南蛮」にハマると10回くらい連続してカレー南蛮に固定する。一本気な感じが愉快だった。
 トヨさんの隣席にいたクスノキというサブデスクの男は、昔の無頼派作家みたいなモジャモジャ頭の物静かな人で、それほど交流があったわけではないのだが、入社して早々の頃のランチタイムの光景とともに思い出される。
 昼飯はイノマタというちょっと小倉一郎に似た30前後の先輩に率いられて、若手社員4、5人で近所のメシ屋へ繰り出すことが多かった。表通りは富国生命などの高層ビルの建設が始まっていたが、プレスセンターの裏手にはまだ、中華料理や定食屋と雀荘なんかが一緒に入った2、3階レベルの建物が並ぶ路地があり、そういうところを冗談言い合いながらフラフラ歩いた記憶がある。
 クスノキ氏もイノマタ氏と同年代の人だったが、あまりこういうランチの集団に加わることはなく、昼近くになるとだいたいスーッと1人でいなくなる。昼飯をすませた後に余裕があるときは喫茶店に流れることもあった。
 「クスノキがいるんじゃないかな……」
 イノマタ氏の予想・・を聞いて入った喫茶店の席に、テーブルのスペースインベーダーを黙々とやるクスノキ氏を見つけることがよくあった。
 前年の暮れあたりから流行し始めたスペースインベーダー、当初はジュークボックス型のアーケードゲームが主体だったが、やがて喫茶店のテーブルに埋めこまれるようになって、流行の規模は一段と広がった。
 ランチセットのスパゲティーの皿を端っこに追いやって、百円玉をいくつも積みあげて、卓中・・のインベーダー撃ちに励むサブデスクの姿が目に焼き付いている。
 千代田線の駅の出入り口のある交差点角の飯野ビルは、向こう側の官庁街の建物にもなじんだ、ちょっと年季の入ったコンクリートビルで、この中のレストランは割とよく利用した。
 とくに好きだったのは、「ケルン」という洋食の店。館内の1階通路に玄関口があるのだが、裏側は虎の門の方へ行く通りに面していて、外光がいい感じで射しこんでくる。好んで注文したのは、ポークソティー、ショウガ焼、メンチカツ、ホタテのフライ……といったところだったが、どれも古い洋食屋風の銀(ステンレス)の皿に盛られていて、コーンスープの小カップが付く。そう、各料理に添えられるコールスローサラダ(単品もある)も絶品だった。
 そして、もう1軒、地階の奥に入ったソバ屋によく行った。この店、何年か前になくなってしまったが、2000年代初めに書いた『なぞ食探偵』という著書で取材しているので、店名はわかる。「更科 川志満」という店で、ここはトヨさんが出前で取るカレー南蛮のソバ屋とは別だったと思う。
 この「更科」の独特名物は「桜そば」というもので、冷たいツユソバの上に、揚げた桜エビがどっさりと盛られている。桜エビはよくあるカキ揚げのような円型のものではなく、粉々になった天カス状のもので、パリパリしたエビセンのようでウマい。しかし、ある程度スピーディーに食べないと、桜エビのコロモがツユに浸ってドロドロに溶解し、胃にこたえるようになってくる。若い新入社員の時代ならではの、夏場の定番メニューだった。
 飯野ビルは、先のシップス&トレード・ニュースとも関係の深い「飯野海運」のビルで、館内のイイノホールは芸能の公演で知られた会場だった。昔のNHKに近かったせいもあるのかもしれないが、NHK主催の催しをよくやる。NHKの漫才新人コンクールだったか、それとは別の公開イベントだったか……NHKの担当記者になってまだまもない頃に取材にかこつけてここでツービートの漫才を観た。
 端の通路から立ち見するような感じだったが、何か倍速・・をかけたようなビートたけしの喋りと小刻みな動きは、Wけんじの頃の漫才とまるで違ったものだった。
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