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第18回

新空港の成田から憧れのUSAへ旅発った。
昭和54年(1979年)

[ 更新 ] 2022.04.15
 件のアメリカへの卒業旅行に旅発ったのは2月の9日だった。帰国が3月8日という丸々1か月の旅。単純に考えて、相当の旅費が要ったのではないだろうか……。当時僕は、あのパロディーCMのヒット以来、サークル(広研)に舞いこんでくるようになった雑誌の若者向け企画の類いを一手に引き受けて、原稿料をちゃっかり自分の銀行口座に振りこんでもらっていたりした(部の会計もずさんだった)から、そういうのを多少使ったような気もするが、ほとんど親のスネかじりである。「50万円くらい用意したんだから……」と、母から聞いたおぼえがある。
 以前、父は慶応付属高校の数学教諭をしていた、と書いた。まぁ慶応なら高校教師としては給料も良い方だったのかもしれないけれど、大学の教授と違って高は知れている。けっこう無理をしたに違いない。
 当時、クレジットカードなんてものはまだ学生の間には浸透しておらず、こういう日数のある海外旅行の場合、〈トラベラーズチェック〉という小切手帳を携帯するのが主流だった。どこの金融機関のものかは忘れてしまったが、20万か30万円くらいをTCにして持っていったのではなかったか。手元に〈米国旅中会計控〉と記したノートがあって、旅行者4名(僕とY、M、O君)の日々の精算状況が麻雀のプラマイ表のように記録されているのだが、この最後の所に「1253.36」(ドル)と、1人あたりの総出費額が記されている。79年初めの当時、確か1ドルは200円をちょっと割りこんだくらいだったから、25万円弱。もっともこれ以外に各々勝手に買った服やレコード……なんかがある。
 金の問題はこのくらいにしておいて、旅そのものの話に移ろう。先の〈米国旅中会計控〉とは別に〈DAILY PLAN BOOK〉というアメリカ製のカレンダー型のスケジュール帳が残されていて、ここに2月、3月のアメリカ旅の行程が簡単にメモされている。
 ところでコレ、てっきりアメリカで買ったものかと思っていたら、裏面に〈TOKYU HANDS ¥380〉の値札シールが貼られている。渋谷の東急ハンズ(たぶん渋谷店だろう)はオープンしてまだ半年ほどの時期だ。2月1日(3日までゼミの合宿に出ている)からスケジュールが記されているが、出発前日の8日夜に「6:30PM 西武劇場」とある。ここは前年、つかこうへいの「サロメ」を観た渋谷パルコの劇場だが、このときは何を観たのだろう。
 2月9日 10:00AM 成田渡米──とあるが、成田空港も渋谷のハンズと同じく前年に開港したばかりのホヤホヤの頃。確か、旅行には同行しない友人の1人が車で成田まで送ってくれたはずだ。15時間かそこら乗って到着したニューヨークは搭乗前の情報通り厳寒の雪模様だった。街角の電光掲示板に表示された14とか15度の気温は華氏で、日本の摂氏にするとマイナス10度かそこら……と聞いていっそう寒気が増した。このノートに「ABBEY VICTORIA」と宿泊ホテルの名が記されているが、夜中にケンカの罵声が聞こえてくるような物騒なホテルだった。
 時差呆けの寝不足の目で見たマンハッタンの景色は刺激的だった。4人のなかで1番金回りのいいY君(料亭のせがれ。つまり若大将的ボンボン)が「姉さんに頼まれた」とかいうハンティングワールドのトラベルバッグを物色するために入った老舗百貨店メイシーズのフロアーの一角に、「ポパイ」で紹介されたばかりのアイゾッド・ラコステ(ラコステのUSA版)のポロシャツやセーターが何種も陳列されている風景に目が点になった。
 試着しようと入った向こうのフィッティングルームは、うっかり戸をパタッと閉めるとオートロックされる……ということを学んだ(が、クセが直るまでにはかなり時間を要した)。ニューヨーク最後の日の12日夜に「コーラスライン」(ミュージカル)、すぐ下に「オバケハンバーグ」と記されているが、これはブロードウェイで観劇でもしようとシャレこんで、その直前に入ったステーキレストランで最も値頃のハンバーグらしきものを注文したところ、とんでもないサイズのが運ばれてきて、おなかパンパンで「コーラスライン」を観た(大方眠っていた)のである。そして、観劇後に寄り道したタイムズスクエアーの外れのあたりには、Xマークを3つ4つ並べたぎらぎらネオン看板のエロっぽい店が“歌舞伎町”のように並んでいた。
 ニューヨークの次に行った都市はワシントンだったが、この間はレンタカーで移動した。この旅でともかく大活躍したのがハーツやエイビスのレンタカー。空港のわかりやすい所にカウンターがある。そして、給油で立ち寄るエクソンのGSにほぼ常備されている、無料の道路地図も大いに活用した。
 男4人で交替しながら運転していくのだが、車種はだいたいフォードかシボレーの四角い70年代らしいセダンで、つまり「刑事コロンボ」なんかによく出てくる車だ。
 それより思い浮かんでくるのは、カーラジオを点けるや否や流れてくるヒットソング。旅の始めのニューヨークの頃から、ともかく頻繁に流れていたのがロッド・スチュワートの「アイム・セクシー」。ドゥ・ダ・ダ、ドゥ・ダ・ダ……というインベーダーゲームの音にも似たイントロが耳に付いて離れない。これもロッドがディスコ音楽を意識した1曲といえるだろうが、ナイル・ロジャース率いるシックの「ル・フリーク」「アイ・ウォント・ユア・ラブ」やシスター・スレッジ「グレイテスト・ダンサー」、シェリル・リン「ガット・トゥ・ビー・リアル」、フィーバー・ブームの主・ビージーズの「トラジディー」……おもわずハンドルから手を離して踊り出したくなるようなディスコサウンドが全米チャートを席捲していた。
 まぁ日本でFENを聞いていてもそうだったが、アメリカのラジオDJは大ヒットしている曲を割としつこくかける傾向がある。ウエストコーストの香りがする息の長いヒット曲、TOTOの「ホールド・ザ・ライン」あたりに続いて、もう1曲、タイトルや歌手名はわからない曲が時折カーラジオから流れてきた。気に入った僕はその曲をワシントンの小さなレコード屋の店番の女の前でハミングして、ゲットすることに成功した。
 ニコレット・ラーソンの「ロッタ・ラブ」。中学生の頃から愛聴していたニール・ヤングの作品と知ったのは、あちら特有のジャケットも無い半裸・・のシングル盤のクレジットを見たときのことで、よりいっそうありがたい気分になった。しかし、鼻歌で伝えてレコードを買ったのは、国内外含めてこのワシントンのレコード店のみである。


ワシントンで買い求めたニコレット・ラーソン"Lotta Love"のシングル盤。曲名の下に「Neil Young」のクレジット

 カレンダー型ノートの記載によると、ワシントンに滞在したのは2月13日、14日、15日の昼までなのだが、日にちを見てピンと来た。先のレコード屋には、ポパイで“ソフト&メロウ”ミュージック……なんてキーワードのもと、ボズ・スキャッグスやマイケル・フランクス……に続いて紹介されていたボビー・コールドウェルの「風のシルエット」(この邦題は実際あまり使わなかったが原題は長ったらしいので……)のハート形のバレンタイン特別盤が置かれていて、その種の曲に目がないM君が狂喜して買っていた。
 そして、そんなバレンタインデーの夜、ワシントンに住むYの女友達に導かれて、ラウンジ風のレストランへ行った。ディスコというほどではないが、フロアーの一角で踊ることができる。バンドが入っていたような気もするが、ほろ酔いかげんになった僕とYが何の気迷いもなく日本と同じように向き合って踊っていたら、まわりのカップルたちから囃したてられた。いまどきと状況は異なるかもしれないが、彼らは明らかに僕とYを“東洋の奇妙なゲイ・カップル”、と見ていたようだった。
 その後オーランドまで飛行機に乗って、空港で脱いだ冬着をレンタカーのトランクにぶちこんでディズニー・ワールドを見物(調子に乗ったO君がカフェ横の湖に転落した)、マイアミからキーウエストに立ち寄って、ニューオーリンズにやってきた。
 ニューオーリンズは“南部の中継地”くらいの感じで行程に組みこんだ街だったのだが、横浜中華街のような狭い通りのそこらかしこの店際で、黒人バンドがオールドジャズを演奏している光景は目に焼きついた。気味の悪い仮面を付けた人をよく見掛けたが、ちょうどこの時期「マルディグラ」というカーニバルの季節だったのだ。
 ヒューストンのNASAでまだそれなりの話題性を保っていたアポロロケットの展示を眺めて、ラスベガスにやってきた。旅行中の宿の多くは男4人が2つのベッドに分かれて眠れるほどの部屋を備えたモーテルの類いだったが、ラスベガスはギャンブル好きのYのたっての希望でシーザース・パレスを予約していた。部屋はツインベッドルームを2つ取っていたはず(2人ずつ使う)だ。
 ここの1階のカジノのスロットマシーンで、どういうわけか「7」の3並びがたて続けに出た僕は、あっという間に100ドル余りを稼いだ。ひきあげようとしたとき、Yに「話題づくりにコールガール、呼んでみろよ」と、そそのかされた。勝ち金・・・は日本円にして2万かそこらだが、大丈夫だろうか……。旅も後半に入って、TCの資金も乏しくなってきている。
 迷ったものの、お調子者の僕は部屋の電話で受付係に「アイ・ウォナ・ガール」とアホな英語でコールガールを予約、やがて「チャーリーズ・エンジェル」の悪役で出てくるような、ともかく背の高い女がやってきた。
 よくおぼえているのは、女が映画のコールガールそのものの黒下着(コルセット式)を付けていたこと。僕はカジノでスコッチ&ウォーターを飲みすぎたのと緊張も手伝って丸っきり勃たなかったこと。さらに、100ドルでは足りず(行為がなかったとはいえ)、トランクの裏ポケットに仕込んでいた神社のお守り(海外でこういうことになったときに役に立つ、と聞いていた)を女に差しあげて、納得してもらったこと。この3点だ。
 ラスベガスからLAまでは、またレンタカーで移動した。「ルート66」や「バグダッド・カフェ」(このときはまだやっていない)に出てくるような砂漠の中の国道(この道はルート15になるらしい)。いま調べ直すとその距離はおよそ450キロというから、時速100キロで走って4時間半。視界が開けた所で向こうにLAのビル群が見えた……瞬間のショットが忘れられない。
 ノートのマス目にはこの後、ロス、サンフランシスコ、ハワイ、と記されていて、そちらウエストコーストの思い出もいろいろとあるのだが、ともかく3月8日に帰国した。
 そして、このノートを見て気づいたことなのだが、翌日の9日のところに「会社(TVガイド)顔合わせ会」とある。ご報告がおくれてしまったが、僕は例のCM制作の縁もあって、「週刊TVガイド」を編集発行する東京ニュース通信社に就職することが決まったのだ。
 しかし、それにしても「顔合わせ会」の前日に帰国とは……こいつホントにバカ学生だったのだ。
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