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第17回

三田の学生街のことも書いておこう。
昭和54年(1979年)

[ 更新 ] 2022.04.01
 この年(昭和54年)の春が大学卒業だったので、もうぎりぎりになってしまったが、通っていた三田の学生街のことを書いておきたい。慶応大学の場合、僕が所属していた商学部のような一般教養学部の多くは前半の1、2年が日吉、後半の3、4年が三田のキャンパスで学ぶ。とはいえ、僕が初めて慶応入り・・・・した付属中学の中等部というのは、三田の大学キャンパス西裏にあったので、この街に通学するのはおよそ5年ぶりのことであった。
 その間の大きな街並の変貌というと、まず都電の消失だ。東門(正門)の前の通りを行く都電は僕が中等部に入学したときにはすでに廃止されていたが、近くの三ノ橋や魚籃坂のあたりには中2の頃まで都電が走っていた。
 田町の駅前の森永本社が新しいビルに建て替わったり、中学時代の放課後にこっそり寄り道した喫茶や食堂が何軒か消えたものの、ガラリと変わったという印象はなかった。以前、別の原稿執筆のために複写した、ちょうど昭和54年当時の住宅地図があるので、これを眺めながら三田の街の景色と思い出の店を回想していこう。


昭和54年当時の三田・慶応仲通り周辺の住宅地図。右下が田町、左上が慶応キャンパス

 僕は田町の駅からアプローチすることが多かったが、三田側に出ると左手(森永の対面)に戦後バラック街から発展したような飲み屋横丁がまだあった。そして、第一京浜国道を渡った正面から〈慶応仲通り〉の看板を出した商店街が始まる(細かいことだが、この通りは「慶応仲通り」から一度「慶応通り」になって、またもとに戻った)。刃物屋(尚秀刃物店)の所でL字形に屈折するこの狭い筋が、慶応義塾門前のメインストリートといった感じだった。とはいえ、学帽や学生服を扱う洋服店はこの時代すでに乏しくなって、目につくのはほとんど飲食店だ(「佐藤繊維洋服部」という慶応学生服の専門店が1軒、いまも昔ながらの姿でがんばっている)。通りの右側にある「養老の滝」(養老乃瀧)はおなじみの居酒屋チェーンだが、その後の80年代のブームの中心になる「北の家族」や「村さ来」や「庄や」……より先行してハヤっていた印象がある。サークル仲間と何度か立ち寄ったはずだが、ここで思い出されるメニューはモツ煮こみくらいである。この学生街に行きつけの飲み屋というのはなかったが、桜田通りの交差点も近くなったこの道の左側の「馬酔木」というのはスナック系飲み屋で、結局入らぬうちに消えてしまったが、中等部時代にここの看板に小さく記されたフリガナを見て、へー、馬酔木はアシビと読むのだ……と、サッカー部の友人と感心しあったことを妙におぼえている。
 「馬酔木」のちょっと手前の「大雅たいが」という店は三色弁当(肉そぼろ、玉子、青ノリがメシにまぶされている)が名物の大衆食堂で、「ペナント」は現役学生時代にはあまり入らなかったけれど、数年前まで1軒だけがんばっていた学生街らしい喫茶店(KEIOのペナント各種が壁に張り出されている)だった。
 その「ペナント」の斜向かいあたりの「いろは」や横道にある「大三元」「ロン」といった所はもちろんマージャン屋、いわゆる雀荘で、飲み屋や喫茶店より以上になじみ深い場所だった。1、2年の日吉時代の方が盛りだったとはいえ、目当ての授業が休講になったりするとメンツを探して雀荘にしけこんだ。この当時、木之内みどりによく詞を提供していた松本隆の作品に「学生通り」という、雀荘で麻雀をやる彼氏に待たされる女の子……の歌があったけれど、松本氏は付属校からの慶応出身者だから、シチュエーションは三田か日吉(まぁ大学にはあまり行っていないだろうけど)だろう。つまり、この時代は飲食店の狭間に見える三元牌(白・發・中)などを描いた雀荘の看板が、学生街特有の景色を作り出していた。
 しかし、学生街とはいえ、本屋は早稲田や東大門前の本郷と比べて、当時から少なかった。まぁそれは僕が雑誌はともかく“文学”には無縁の日々を送っていたので、目につかなかったせいもあるのだろうが、実際この地図を見ても慶応仲通りにはまるで本屋はなく、桜田通りに数軒あるくらいだった。
 三田二丁目交差点角の「平山書店」は、学校の講義で使う本が置いてあるのでたまに立ち寄った(ここの2階に確か、クサい匂いのする初期ゼロックスのコピー機があり、試験前にはよく行った)。東門(正門)寄りの方の「金文堂」は古い本屋で、いま店はないけれど、ネットで検索するとこの書店が戦前に発行していた慶応義塾の図書館などを撮った絵葉書──がヒットする。その先に「清水書店」というのもあるが、桜田通りのこちら側のサイドの店は90年代後半あたりの拡幅工事で一掃された。
 店というわけではないけれど、慶応仲通りのこちら側の入り口角にある「昭和電線商事」という会社のビルはクラシックな佇まいで、夕刻に西門の方(白金、魚籃坂方向)から歩いてくると、突きあたりのこのビルの外壁にちょっと古臭いタッチで“昭和電線”と描かれた赤や緑のネオン看板が灯っている。
 その並び(1軒おいた)の「吉野屋」は、この大学時代にオープンした牛丼の吉野家で、例の劇団サークルのケイコを三田の教室を借りてやっているときなんかに、ここの牛丼をテイクアウトしてくると「パパ、明日はホームランだ!」という当時の吉野家CMのセリフを誰かが口にしたものだ。
 その吉野家のあたりに映画館、あるいはストリップ劇場があった……という話をかなり上世代のOBから伺ったことがあった。手元に古本屋で安く買った「近代沿革図集 芝・三田・芝浦」という港区立三田図書館発行(昭和46年3月)の地図集がある。地図集といっても、江戸末期から明治、大正、昭和にかけて20年間隔くらいで各地区の地図を収めたものなのだが、ここに収録された昭和16年の地図の該当地に「日活館」というのが点表示されている。
 日活館というのは麻布十番にも存在した日活映画の封切館だが、ネットを検索していたら1930年代からの全国の映画館の名を4、5年間隔で記録したサイト「消えた映画館の記憶」に出会った。このデータの1960年の港区の項に「三田映画座」(三田同朋町6)とあるが、これは「日活館」の地とも一致するから同じハコだろう。さらに「SMpedia」というSM系のウェブにストリップ劇場の歴史名鑑のような項目があって、これによると1963年の4月に映画館を改装してストリップショーの劇場としてオープンしたが、同年9月に警察の手入れを受けたそうだ。これで閉館したのだとすると、ストリップをやっていた期間はわずか半年ばかりということになる。
 三田二丁目交差点南角の「小林ローソク店」というのも桜田通りの拡幅で消えてしまった店だが、ここは90年代初めに著書『散歩のススメ』の取材でぶらっと店を覗いたときに「すぐ向こうが海だった600年前からやってるんだよウチは……」と、老齢のおかみさんから味のある江戸弁で歴史を伺ったことが忘れられない。
 しかし、この交差点といったら、なんといっても北角の「ラーメン二郎」だ。いまや全国的に知れわたる“ボリューミー系ラーメンの老舗”となったが、当時は三田の御当地ラーメン店(創業は都立大学前と聞いた)とされていた。小豚ダブルというのが定番メニュー(なぜ小豚なのにダブルなのか? 大豚もあったが小豚で充分ボリューミーだった)で、何度か注文したが、メニュー以上に記憶に残るのは、この「二郎」のオヤジが熱烈な近鉄ファンだったことだ。前回、流行語の“フィーバー”に絡めてセリーグで優勝したヤクルトにふれたが、その昭和53年のパリーグは阪急と近鉄がペナントレースを争っていた。近鉄は西本監督で鈴木啓示投手の黄金時代。オヤジさん「近鉄が優勝したら値上げする!」とシャレ半分で豪語していたが、結局9月の最終戦で阪急にひっくり返されて優勝を逃がし、価格は据え置きになった。ちなみに、ここも道路の拡幅で立ち退いて、もう長らく西門の先の店舗で営業している。
 ラーメン二郎、平山書店、その向こうの慶応キャンパスの崖に張り付くようにあった芝生花市場というのもなつかしい。ここは都の卸売市場の管轄だったはずだが、この生花市場の家の子(この一角に住んでいたんじゃなかったかな?)というのが慶応の同窓生にいた。また、学校を卒業してから知ったことだが、「銀座二十四帖」という昭和30年の川島雄三監督の映画のなかで、銀座で花屋を営む主人公の三橋達也がオート三輪でこの生花市場に買い出しにやってくるシーンがある。「銀座二十四帖」は日活映画(先の日活映画館がすぐそばにあった時代だ)であるが、生花市場の向かい側あたりには「東宝チェリー」という喫茶店があった。ここは日比谷映画街の「東宝パーラー」と同じく東宝が経営する若者狙いのカフェで、外階段を上った2階の玄関口のあたりに内藤洋子をモデルにした大きな肖像画が飾られていた。例のTVガイドのパロディーCMが話題になっていた頃(昭和52年)に「週刊プレイボーイ」の挑発的な記者からの取材をこの店で受けたことを、僕は機関誌「三田広研」に記している。
 「東宝チェリー」は小綺麗で静かな店だったので、こういう取材のときに指定したのかもしれないが、僕らの時代は学生の溜り場のような感じではなかった。キャンパスの離れ・・みたいな感じで、客の大方が学生だったのが西門の目の前、渋谷行きの都バスが進んでくる分かれ道の三角形の角地に立つ「ピープル」という喫茶(というより、いまどきのカフェ調)店。ここは授業の合い間にふらりと入ると、誰かしら顔見知りに会う……というような場所だった。
 前年(53年)の晩秋の頃だったろうか、この店の大テーブルで隣り合った“親友”というほどでもないY君から何かのきっかけでアメリカ旅行の話をもちかけられた。
 「OとMも行くんだけど、おまえも一緒に来ない?」
 いわゆる“卒業旅行”の誘いである。まだ就職も決まっていない僕は躊躇したが、結局この旅は実現することになる。
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