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第16回

翔んでる女はディスコでフィーバー
昭和53年(1978年)

[ 更新 ] 2022.03.15
 通っていた「宣伝会議」の講座会場からも近い銀座1丁目の端っこに映画館「テアトル東京」があった。いわゆる京橋本体・・の銀座側の一角、大昔は大根河岸と呼ばれた場所で、映画館の跡地にバブルの頃は「西洋銀座」という西武セゾンの高級ホテル(セゾン劇場もあった)が建っていた。
 この年の夏(6月末)、「スター・ウォーズ」のロードショーが鳴り物入りで行われたのがテアトル東京だった。これより10年前(昭和43年)に「2001年宇宙の旅」のハコとして話題になった、横長の大型シネスコープ画面がウリモノのこの劇場で「スター・ウォーズ」を観たのかどうかはもう一つハッキリしない(結局新宿あたりで観たような気もする)のだが、その興行看板が玄関に掲げられていた景色はよくおぼえている。銀座通りの歩道からちょっと奥に入った所に、せいぜい横の首都高と同じくらいの高さの四角い劇場がぽつんと建っている感じは、SF映画の劇場としてふさわしかった。先行して春に日本公開された「未知との遭遇」もここでやっていたはずだが、まさに“宇宙への入り口”のような気配が漂っていた。
 昭和53年はそんなスピルバーグとルーカスの2本の宇宙モノとピンク・レディーの「UFO」(レコード発売は前年暮れだったが、この年の暮れのレコード大賞を取って1年余りのロングセラーとなった)、さらにゲームの「スペースインベーダー」と、アポロの月着陸をピークにしばらく盛り下がっていた宇宙ブームが久しぶりに復活したような年(「宇宙からのメッセージ」という和製の怪作も公開された)だったが、邦画で気を吐く角川映画とともにもう1本、ジョン・トラボルタ主演の「サタデー・ナイト・フィーバー」を忘れてはならない。“ディスコ”という風俗や“フィーバーする”なんていう、いまもしぶとく生き残っている新語を産み出したという点では、「スター・ウォーズ」や「未知との遭遇」以上にこの年の重要な風俗映画といえるだろう。
 ブルックリン橋の向こうにマンハッタンのビル群(ワールドトレードセンターのツインビルも健在)が見える、橋のこちら側の下町を安っぽい黒革ジャンの下からイタリアンカラーの赤シャツの衿をガバッと外に出し、意気がって歩くトラボルタ……バックに流れるのはビージーズが歌うテーマ曲の「ステイン・アライブ」。そんな冒頭シーンでトラボルタは片手にペンキ缶をぶら下げているが、日中はペンキ屋で働きながら、土曜の夜になると橋の向こうのディスコに繰り出して、ナイスなダンスパフォーマンスを見せる“夜の帝王”に変身する……という青年の日常が描かれていく。
 「スター・ウォーズ」より少し遅れて、夏の盛りを過ぎる頃からじわじわとヒットしていったこの映画、僕も当時観た(秋の頃だろう)記憶はあるけれど、ストーリーのディテールなどに興味をもったのはトラボルタが「パルプ・フィクション」で復活した頃にビデオで再見してからのことで、オンタイムでは音楽の方にばかり興味が行っていた。前年秋の全米公開時からベストセラーになっていたサウンドトラック盤を持っていたが、「ステイン・アライブ」と「ナイト・フィーバー」をはじめとしてビージーズがメインのアルバムだった。
 この10年前にタイガースと共演したり、大橋巨泉司会の「ビートポップス」で「マサチューセッツ」がよく流れていたり、英国ソフトロックの代表グループだったビージーズがいきなりディスコ音楽にイッてしまったというのは意外であり、多少の幻滅感をもったのも確かである(ラジオ関東の「湯川れい子の全米トップ40」を愛聴していたから、「ステイン・アライブ」は映画より先に聴いていたはずだ)。
 ビージーズの劇中歌のなかで一番好きだったのは、ロマンチックなシーンで流れる「ハウ・ディープ・イズ・ユア・ラブ」。これはまぁソフトロックのビージーズのムードも感じられた。ちなみに「愛はきらめきの中に」という邦題が付いていたが、このタイトルで呼んだことはたぶん1度もない(全米チャートではこの曲が最も長くヒットしていたのではなかったか……)。
 サントラ盤には他にタバレスやイボンヌ・エリマン、クール&ザ・ギャングなどの曲が入っていたが、実際のディスコにおいて皆トラボルタのように踊っていたというわけではない。「ステイン・アライブ」や「ナイト・フィーバー」が流れたとき、ふざけて一瞬あのトラボルタのポーズ(右手をかざして腰のあたりをキュッと曲げる)をやる者はいたけれど、映画のトラボルタのダンスはちょっとマネのできるものではなく、多くの者がブナンな岩崎宏美風ステップで踊るわが日本のディスコのダンスフロアーになじむスタイルではなかった。もっとも、内輪のディスコパーティーのような場で、アメリカの「ソウルトレイン」を模したショータイム(ソロで踊る達人を皆で取り囲んで盛りたてる)が行われることはあったけれど、トラボルタのフィーバー踊りはそういうセンからもハズれていた。まぁ映画のストーリー的に、わざと田舎者っぽさを強調した振り付けだったのかもしれない。
 ところで、「サタデー・ナイト・フィーバー」によって、唐突にディスコのブームが訪れたわけではない。東京のディスコの原点は、この10年ほど前にオープンした赤坂の「ムゲン」あるいは「ビブロス」とされ、それ以前のゴーゴークラブ(喫茶)から発展した別の小店などを“真の元祖”と唱える人もいる。僕がディスコと呼ばれる店に初めて入ったのは、高校1年の夏(昭和47年。たぶん青山のパルスビートという店が最初)だったと思われるが、正直いってディスコに都会の不良世界の魅力を感じたのは高校時代までだった。70年代後半、昭和50年代に入る頃から、六本木や赤坂の横道にある怪しい雑居ビルの小店(稲川系のヒトがたまに脅しにやってきたりする)は廃れ、大箱のチェーン店や六本木スクエアビルのようなディスコビルもできて、若者のアソビ場として認知されてきた。以前書いた“和製ディスコ歌謡”(ソウルこれっきりですかetc)のヒット曲なんかもすでに生まれていたが、この「サタデー・ナイト・フィーバー」のヒットによって、全国レベルのブームに拡大した。
 家にいるときにはよく観ていた、久世光彦演出のTBSドラマ「ムー一族」のなかに、近田春夫がC調なDJを務めるヘンテコなディスコのシーンがあって、ここでレギュラーの郷ひろみと樹木希林が歌い踊る「林檎殺人事件」が大流行、「ザ・ベストテン」の定番ネタになっていた。郷がトラボルタ風のスーツを着て踊っていたこともあったが、そのイメージも関係したのか「サタデー・ナイト」の日本版吹替えのトラボルタの声は郷がやっていた。ちなみにこの場面で樹木が「フィーバーしちゃう」というフレーズを口にしていたというが、このフレーズはペナントレースで初優勝したヤクルトスワローズあたりにも“フィーバーするツバメファン”なんて感じでスポーツ新聞が使って、様々な場で流用されていく。解散したキャンディーズの妹的な3人組アイドルもフィーバーといったし(トライアングルというのもいましたが)、インベーダーゲーム人気に対抗してパチンコ業界が放った新機フィーバーはその後の時代を代表するマシンとなった。
 ディスコで流れる曲の話にもどると、この年、ビージーズ以上によくかかっていたのは一連の宇宙ブームにもあやかったアース・ウィンド&ファイアーの「ファンタジー」、「セプテンバー」。バリー・マニロウのラテン調の「コパカバーナ」ってのも六本木のディスコでよくかかったし、ドナ・サマーやサンタ・エスメラルダ、ボニーM、アラベスク……といった俗にミュンヘンサウンド(プロデューサーやアーチストの拠点に由来)と呼ばれる曲の諸々は新宿歌舞伎町あたりの店のダンスフロアーになじんでいた。そう、歌舞伎町の店ではピンクレディーの「UFO」や「渚のシンドバッド」もよくかかって、女の子たちが振りマネをしていた。
 マニアックなナンバーまで書き出していたらキリがないので、曲の話はこの辺に留めておくが、東京でディスコの街といえば、なんといっても六本木が筆頭で、2、3年前まで比肩していた赤坂は衰え始め、サタデー・ナイトのブーム以降は新宿歌舞伎町にどっとディスコが増えた、という印象がある(社会問題となった少女殺人の舞台となるのは4年後のことだ)。渋谷にディスコがなかったわけではないが、あまり知られた店はなく、唯一僕が行ったのは公園通りの入り口にあった「ソウルトレイン」。ここはクールスの曲(「紫のハイウェイ」など)なんかがかかるので、ちょっとコワモテの革ジャンバイク野郎とポニーテイル娘のグループがいて、ソウル・シーシーからスケーターにチェンジするような集合ダンスを可愛らしく踊っていた。
 六本木スクエアビルの店については、前回「チャクラマンダラ」にふれたが、他にフーフー、ネペンタ……地階にちょっと高級なキャステルというのがあった。しかし、僕が広研の仲間とよく行ったのはその斜向いの居酒屋が目につくビルに入っていた「サハラ」って店。ここはダンスタイムの間にショーパブ調の催しがあって、3人組のオカマっぽい男たちがやるギャルの「マグネット・ジョーに気をつけろ」の当て振りがサイコーだった。


ギャル「マグネット・ジョーに気をつけろ」のシングル盤(著者蔵)

 そんな店の思い出でいうと、六本木通りの明治屋の並びのビルに入っていた「グリーングラス」という店。ここは友だちがウェーターのバイトをしていたので、彼の口ききで開店前のダンスフロアーを借りて、8ミリの撮影をしたことがあった。例の相棒Hと「11階の朝焼け」(前々回紹介)とほぼ同時期に撮っていたもので、映画というよりもパルコがJPC展の動画部門として始めたJPCF(ジャパン・パロディCMフィルム)展に応募するための短い画像だった。僕らの作品テーマは“架空の専門学校”というもので、これは警察官が警棒を振りあげて日々のうっぷんを晴らすようにディスコダンスを踊る“新警察学校”というネタだった。ヴィレッジ・ピープルの「サンフランシスコ」を何度もかけて、おまわり役の役者(「11階の朝焼け」にも出演していた)に踊ってもらった。
 “ゲイ”ネタの曲を本領にしていたヴィレッジ・ピープルはなんといっても「Y.M.C.A.」が有名だが、この「サンフランシスコ」と「マッチョマン」はそれ以上にディスコの人気曲だった。これまた妙な思い出なのだが、当時はまだ“オシャレな白亜のショッピングビル”の趣きがあったロアビルの上に「プレイボーイクラブ」ともう1つ「ボビーマギー」という展望の良いディスコがあった。この店に入ったのは2、3度だが、「マッチョマン」をエネルギッシュに踊る女の姿が思い浮かぶ。
 ダンスフロアーは混み合って、客は横並びで踊っていた。僕のちょうど目の前にいた彼女、刈り上げたショートカットの項と横ジマのタンクトップの後ろ姿が記憶に残る。マッチョ、マッチョマ~ン……というヴィレッジ・ピープルの力強い歌声に合わせて、タンクトップから剝き出した両腕をワシワシと上下動させて踊る。そのたびに、かなり強烈な腋臭が漂ってきた。
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