ウェブ平凡 web heibon




第15回

銀座裏の広告学校と「北欧」の佐野元春
昭和53年(1978年)

[ 更新 ] 2022.03.01
 前回書いた8ミリ映画「11階の朝焼け」に主演したTというイケメンの男(掲載したチラシの写真の右上)は、商学部のゼミで知り合った奴だった。これまでゼミのことにはふれる機会がなかったけれど、3年生からはいわゆる“専門課目”としてのゼミの授業を取ることができ、一応入っておく方が就職に有利……という話だった。
 そんなわけで僕も前年からK教授のマーケティングのゼミに入っていた。「マーケティング」という言葉は、80年代のバブル期には“恋愛のマーケティング”みたいな感じで一般にも流用されるポピュラー語になったが、この頃はまだコアな商学用語の領域だった。ただ、広告研究のサークルなんかに入っている僕にとっては「広告」に関連した分野であり、他の「経営学」とか「簿記」とかのゼミよりも親しみやすい。
 とはいえ、K教授のマーケティングのゼミは屈指の人気ゼミで、「2年までのAの数が10個以上ないと難しい」とか「企業の強力なコネでもないとね……」とか言われていた。が、K教授は広研の顧問(会長、という名義だった)を務めていたのだ。部会に顔を出されるようなことはなかったけれど、部の「代表」になった僕は、あいさつがてら先生のもとを訪ねて「何かと連絡事項もございますのでここはひとつ、ぜひ私を先生のゼミに……」なんて調子の良いことを語って、すべりこんだのである。
 授業は週に2コマくらいのペースだったろうか。マーケティング理論の英語の原書が教科書としてあって、これを訳しながら講義は進む。それと、アメリカのメーカーの商品を例にした、いわゆる“モデルケース”のレジメをもとに、意見交換するような授業もあった。アメリカの百貨店のシアーズ・ローバックとP&G(プロクターズ・アンド・ギャンブル)の1960年代くらいの商品マーケティングのレジメがよく使われた印象が残る。
 なんて書いていくと、マーケティングのヨコモジが飛び交う、堅苦しい授業風景を想像されるかもしれないが、そんなことはない。僕の直談判に応じてゼミに取ってくれたように、K教授は気さくな人柄で、関西イントネーションの語り口にユーモラスな味があった。「シアーズ・ローバックゆうのは通信販売でもうけたデパートでな……」
 でな、とは実際おっしゃらなかったが、そういう関西喜劇人のテイストが漂っていた。僕らが22くらいの当時、もうすでに50前後のベテラン先生で、チョビヒゲを生やして蝶タイを愛用していた佇まいは“社長シリーズ”の森繁久弥を思わせるところもあった。
 K教授は流通業界に強かったので、百貨店などを志望する者は紹介状を書いてもらったりしていたようだが、マスコミ志望の僕は就職の相談に伺うことはなかった。原書訳の授業では活躍できなかったけれど、モデルケースの意見交換のときに、奇抜な販促のアイデアなどを提案して「おっかしなこと考えるやっちゃなぁ」と、先生に苦笑された。
 商学部にはもう1つ、M教授のマーケティングゼミがあって、こちらはKゼミ以上に難関とされていた。M教授はK教授の門下生だったらしいが、電通などのマスコミに顔のきく教授として通っていた。ゼミの授業自体がきびしいと聞いていたので、サークル活動に時間を費していた僕ははなっからあきらめていたのだが、この4年生の年に広研の顧問先生がK教授からM教授に替わったのだ。代表の僕は活動の報告などをする必要があったが、M教授は電話を一切受けつけず、文書(ハガキ)でやりとりしなくてはならなかった。ハガキの交換は頻繁なものではなかったけれど、教授の文字は達筆(単に乱暴だったのかも)すぎてまるで理解できない。そこで、教授のお宅まで出向いて、文章の内容を口頭で説明していただいたことがあった。
 K教授は湘南の大磯に住んでおられたが、M教授宅は深沢の閑静なお屋敷街にあって、玄関の門に“Professor M~”とシャレた木彫りの英字表札が掲げられていた。
 応接間に伺ったこともあった気がするが、とりわけ強く記憶されているのはハイヤーの車内。多忙な教授が自宅から企業や行政機関に向かうときの迎車に同乗して、読めない文字を解読・・してもらった。おそらく、開通してまもない新玉川線(田園都市線)の三軒茶屋あたりで僕は車を降りたのだろうが、話は嚙み合わなかった。M教授は僕らのナンパな活動(パロディーCMやキャンスト)には懐疑的な様子で、もっとアカデミックなマーケティング研究をせよ……というようなことを英語を織りまぜながら語られた。キザな感じがして、あまり良い印象を持っていなかったのだが、それから10年余り経った90年代の頃だったか、M教授は「11PM」にトレンディーなマーケッターみたいな感じで登場、案外ナンパなコメントをして、女性キャスターにイジられていた。

 ところで僕は、この4年生の年あたりから大学とは別に、広告の専門講座に通い始めた。雑誌の「宣伝会議」が主催する「コピーライター養成講座」というもので、その前身が久保田宣伝研究所とかいったことから“久保宣”の俗称もあった。僕とほぼ同じ頃に林真理子さんが通っていたという話も聞く。
 CMマニア的な感じもあった僕は「コマーシャルフォト」や「ブレーン」なんかとともにこの「宣伝会議」も新宿の紀伊國屋でよく立ち読みし、時折購入(表紙に糸井重里が書いていたショートコラムを愛読していた)していたから、それに付いている応募用紙で入学申請したのだろう。広研のサークル活動やマーケティングのゼミでは満たされない、クリエーティブの現場感を吸収したかった。
 週に2、3回の講座が行われていた場所は銀座の外れ、京橋寄りの方にある中小企業会館という建物で、並びに中央競馬会の場外馬券売場があった。後から知ったことだが、このあたりは終戦直後にガレキを処分するために埋められた三十間堀川が流れていたところなので、昔の川岸に沿って建設されたビルは堤防のように横長なのだ。


現在も銀座に残る中小企業会館

 その当時、地下鉄有楽町線が銀座一丁目まで開通していたので、そこから行くこともあったが、銀座駅で降りて三原橋の脇から、三十間堀跡の筋(晴海通りの下をくぐるガードがある)を1丁目の方へ北進していくこともあった。その途中にあやしい紫色の看板を出したトルコ風呂(現在のソープランド)があって、へーっ銀座にもこういう店があるのか……と思った記憶がある(気になったが、結局入店することはなかった)。
 会場こそ銀座の場末めいたところだったが、講師は「ブレーン」や「宣伝会議」でおなじみの広告クリエーターが顔を揃えていた。もの持ちのいい僕ではあるが、どういうわけか、この関係の資料が見つからず、講師陣の精細はいまわからないのだが、第1線で活躍するコピーライターやCMプランナー、アートディレクター……の講義があって、特定の商品の広告コピーを考案してその意図などを記述する……宿題が出ることもあった。この一般講座に半期ほど通った後、ゼミスタイルの専門講座に入った。何人かの講師が専門講座を受け持っていたが、僕が選んだのは電通でヒットCMを数々と手掛けていた山川浩二さんともう1人、TBS映画社の金丸(下のお名前は失念したが、政治家の金丸信の親戚とおっしゃっていた)さんという2人が交互にやるCM中心の教室。山川氏は当時、高見山がタップダンスをしたり、坊屋三郎が外国人とおかしな掛け合いをしたりのナショナル(パナソニック)カラーテレビ「クイントリックス」をはじめ、おもしろ系CMの名プロデューサー、として知られていた。
 電通のクリエーティブ局の人だから、就活の狙いもあったのではないか……と勘ぐられるかもしれないが、ここで山川先生に就職の相談をもちかけたことはない。さすがに、こんなルートで電通に入れるものではない、と思っていた。
 こちらの専門講座は毎回15人かそこらの人数だったから、やがて何人かと親しくなった。まず、第一広告社だったか……中堅クラスの広告代理店に通っているという頭髪の薄いヤクザな感じの男がグループの元締めのような感じでいた。あの人はせいぜい30代後半くらいだったのかもしれないが、22歳ほどの僕から見れば貫禄十分で、会社をさぼって競馬に行ったとかの無頼な話を自慢気に語っていた。
 その男にくっついてきたような、不可思議な女もいた。原宿の裏あたりにブティックを出すヨーロピアンモード系マダムといった風だったが、いつも顔が隠れるような大きな帽子を被っていて、師匠のもとで占いをやっている……なんて言っていた。水森亜土みたいなたどたどしい語り口と、素っ頓狂な笑い声が耳に残っている。そう、この10年後くらいにばったり町で会ったとき、「はりをやっているので、来ない?」と誘われた。
 それから、早稲田大学に通うヤサ男とその彼女らしき年上のコピーライターの2人組がいて、ジョン・トラボルタに似たサル男の熱血青年もいた。もう何人か顔が思い浮かぶ人たちがいるけれど、昼間の三田のキャンパスとは様子の違う、アートな専門学校的な風景が新鮮だった。この年は先のトラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」がもたらしたディスコブームが吹き荒れていたから、講座帰りに六本木のディスコに繰り出したこともあった。確かコピーライターの女の先導で行ったスクエアビルの何階かにあった「チャクラマンダラ」というインドの仏像なんかが置いてあるディスコ(ここは慶応の仲間と入ったことはなかった)で、占い屋の女が奇妙に腰をくねらせて踊っていた場面がフラッシュバックする。
 授業でよくおぼえているのは、香辛料の「タバスコ」の課題が出されて、このディスコなんかにも行った5、6人のグループでCMのプランを練って発表したことだ。どこかのビジネスホテルの大部屋に泊まりこんで、ブレーンストーミングみたいなのをした記憶があるが、結局僕が考案した「タバスコマン」という超人キャラクターを主役にしたCM案が採用された。「ガッチャマン」調の「タバスコマン」の主題歌まで作って、山川・金丸両先生の前で歌い踊るパフォーマンスを披露した。この種のパロディーとしては「ひょうきん族」のタケちゃんマンなんかよりずっと早かったはずだが、後年仕事で再会した山川氏はまるでおぼえていなかったから、まぁ見るに値しないものだったのだろう。
 そして、初めの半年くらい通っていた一般講座の時期だったと思うが、会場の近くに「北欧」という喫茶店があって、授業帰りに何度か立ち寄った。そこにいた連中のなかに当時広告代理店に勤務していた佐野元春がいた。広告会社はスタンダード通信社ではなかったか? 何か受講者名簿のようなものに、その社名が記されていた気がする(割とすぐに佐野元春は有名になったから、たぶんすぐに手元の資料で確認したのだ)。
 ともかく、講座帰りのその「北欧」という店で、自己紹介のようなことをしあう場面になったときに、たしか長髪にボルサリーノ型の帽子を被っていた佐野氏が「音楽をやっていてヤマハの合歓ねむの郷のコンクールに出た」あるいは「これから出るんですよ」みたいなことを熱く語っていたのを記憶している。
SHARE