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第13回

つかこうへいの舞台は刺激的だった。
昭和53年(1978年)

[ 更新 ] 2022.02.01
 大学で入っていたサークルとして、広告学研究会と8ミリシネクラブという映画サークルのことは前に書いたけれど、もう1つ後者の8シネの何人かが関わっていた「出発」という演劇グループの活動に参加していた。「出発」と書いて「たびだち」と読ませる──その名のセンスは内心ダセェーと思っていたが、公演の内容は軽い都会調のコメディーが中心でおもしろかった。演出、脚本から役者としても活躍していたNという調子の良い男が件のTVガイドのCMで“女装のソフィア・ローレン役”を演じた人だ。
 Nさん(1学年上)たち「出発」の連中が芝居の参考によく観ていたのは、劇団未来劇場、つかこうへい、東京ヴォードヴィルショー、東京乾電池、といったあたりで、僕も彼らに影響されて演劇を観るようになった。
 銀座の博品館がフィールドだった「未来劇場」は里吉しげみ(演出)と水森亜土の御夫婦が主宰していた劇団で、アングラ臭の薄いシャレたミステリー・コメディー調の作品は後年の三谷幸喜っぽいムードもあった。
 「未来劇場」はあまり一般的に知られていなかったが、つかこうへいはその人物自体がブームになり始めていた。代表作の「熱海殺人事件」が初上演されたのはこの年(昭和53年)より5年ほど前のことで、僕は草創期の青山・VAN99ホールの公演は行っていないが、その後定例のハコとなった紀伊國屋ホールで「熱海」を観た。手元に残るチケットの半券に「4月2日(日)」と記されており、ここに年号の記載はないがカレンダーを調べると、この前後数年間で4月2日が日曜日なのは昭和53年だから、おそらくこの年のことだろう。
 簡単に筋を説明すると、熱海で恋人を殺してしまった田舎者の犯人を、芝居がかった刑事が“マスコミに出して恥しくない男”に仕立てあげていく──という話。主役の刑事・木村伝兵衛を三浦洋一、その部下の熊田留吉を平田満、婦人警官・ハナ子を井上加奈子、殺人容疑者の大山金太郎を加藤健一がやっていたシリーズだったと思う。
 「ブス(醜女)」のフレーズを多発する暴力的なセリフ(『あえてブス殺しの汚名をきて』なんていうエッセー本も売れて、ブスという言葉は、つかの代名詞となった)やスピード感のあるギャグは、やがて台頭する星セント・ルイスやツービートに大いなる刺激と勇気を与えたに違いない。
 しかし、「熱海」の舞台でとりわけ印象に残ったのは、つかの秀逸な選曲による音楽シーンだ。加藤演じる朴訥な青年が婦人警官の井上(殺される娘でもある)を相手に“わが青春”を語る場面でマイペースの「東京」という曲とワイルドワンズの「想い出の渚」が明暗の対比のように効果的に流れる。そして、木村刑事が描く“理想の犯人”に成りきった加藤がタキシードを着こなして、客席後方からスポットライトを浴びて「マイウェイ」を歌いながら登場するシーンも圧巻だった。こういった演出は当時僕らがハマッていたパロディー的笑いのセンスと同質のものだった。
 そんな「つか」に熱を上げた僕は、広研が例年制作を任されていた野球の早慶戦のパンフ(表紙には「慶早戦」と打たれている)のなかで、つかこうへい(中退したが慶応出身者なのだ)にインタビューを試みた。
 〈慶早戦を演出してやる〉というタイトルを付けて、いくつかの項目に分かれているが、表題にした早慶戦の演出術についての“つか節”はこんな調子だ。

まぁ三振するということは、一人が三振するということじゃないのね。応援団と見てる観客の前で三振したんだと、これがどれだけ悲劇的なのか、どれだけつらいのか、ということを見せなくちゃならないんだよ。それをさ、てめえ一人で三振する奴がいるから困るんだよね。おめえ一人で三振してるんじゃないんだよ。オレたち応援団も一緒に三振したんだよ、例えばホームラン打ったにしろ、はずかしそうにグランド回るんだよな。みんなでホームラン打ったんだから、もう一塁ベース飛び抜けてって、むこうのフェンス登って、手を振るぐらいやりゃーいいんだよ。その点長島ってのは好きだったね。あいつが打ってくれると、こっちまで打ったって感じだったもんな。二流って言われる奴はさ、ジャイアンツでも、何かはずかしそうに、悪いことしたみたいにホームラン打ってんだよな。たまに打ったんだから、うれしいはずなのに。三、四番打ってる奴は、みんなと共にホームラン打った、って感じじゃないとヤバいよな。ホームラン打ちゃ、くす玉割れて、噴水がパーッと上がる。それがショーだよな。だからオレに演出させろってんだよ。早慶戦なんかだって、ここでピッチャー替えないと確かに負けるかも知れないけどさ、栄光ある塾の伝統に踏まえて、ここで替えずに負けていくことが早慶戦の早慶戦たるにふさわしいのよ。

 まだもう少し続くのだが、この辺にしておこう。まさに、木村伝兵衛の語り口だ。つかの言葉を忠実に書き出しながらテープ起こしをしたことをよくおぼえている。
 この冒頭に「五月四日。渋谷。稽古場につかこうへいをたずねる」と僕の前書きがあるのだが、ここは6月下旬からパルコ内の劇場(当時、渋谷西武劇場の名称だった)で開催されたロックオペラ劇「サロメ」の稽古場だった。
 オスカー・ワイルドの戯曲をロックミュージカル風にしたつか版の「サロメ」、スタッフロールには錚々たる面々がクレジットされている。
 脚本・阿木燿子 挿入曲・井上陽水、宇崎竜童 作詞・橋本淳 美術監督・石岡瑛子 音楽監督・酒井政利 音楽・三枝成章……
 とまあこれは一見してCBSソニーの山口百恵スタッフ+パルコ、といったクリエーター世界が想像される。
 主人公のサロメ役は当時“水野さつ子”の本名で出ていた蜷川有紀(近年、猪瀬直樹と結婚して話題になった)、相手役のヨカナーンが風間杜夫、ヘロデ王・西岡德馬(当時・西岡德美)……といったキャスト陣のなか、主題歌を含めて歌い手の中心になっていたのが元ズーニーヴーのボーカル・町田義人だった。
 ちなみに、こういったスタッフやキャストのデータはネットにアップされた「サロメ」のサウンドトラック盤(CBSソニー・昭和53年8月発売)の解説を参考にしたもので、内容に関しては「熱海」と違ってさっぱりおぼえていない。6月22日のチケット半券が手元に保存されているので、この日に観に行ったのだろうが、オシャレなパルコの劇場の方は印象に残っている。というのは、この「サロメ」、当時気に入っていた女の子を誘って行ったせいもあるだろう。
 確かこの後、公園通りを少し歩いて六本木に出て、スクエアビルあたりのディスコに立ち寄ってから、その1階のゲームセンターで別れたのだ。何か、もう1つ口説きおとせないままサヨナラした記憶がある。そう、僕が初めてスペースインベーダー(アーケードゲーム機型)をやったのがこの六本木スクエアビル1階のゲームセンターだったはずだが、店頭に出たのはこの年の8月というデータがあるから、これよりちょっと後かもしれない(あるいは、テスト機が置かれていた可能性はある)。
 話は“観劇デート”の方にいってしまったが、「サロメ」に関しては、つか氏のインタビューをした5月の稽古風景の印象が強い。インタビューを始める前にしばらく稽古を眺めていたのだが、つかは机にレコードプレーヤーを置いて、横に積みあげた歌謡曲のシングル盤をDJのように次々とかけ替えながら、「よし、この曲のイメージでセリフ言ってみろ」なんて調子で、当時新人だった熊谷真実や加藤かずこに芝居をつけていた(もっとも彼女たちの名前が同定・・されたのは後日のことだ)。しかし、「サロメ」の主演役者の記憶はなく、曲の世界もかけ離れていたから、あれは本稽古の合い間の新人特訓のような場面だったのかもしれない。
 「東京乾電池」は柄本明、ベンガル、高田純次、綾田俊樹、角替和枝……「東京ヴォードヴィルショー」は佐藤B作、石井愃一、花王おさむ、三木まうす、坂本明……なんていった人たちが中心メンバーだった時代だが、後者の「日本妄想狂時代」の半券の裏に“53・3・15”と刻印されているから、これもこの年に観たものだろう。


つかこうへいの「熱海殺人事件」と東京ヴォードヴィルショー「日本妄想狂時代」(“時代”の部分は切れている)の半券

 「作」と記された喰始たべはじめはこの劇団の座付作家であり、この7、8年後に僕が司会をしていた「冗談画報」でお会いした頃は、後輩の「WAHAHA本舗」を率いていた。「演出」の魁三太郎は役者が主体の人だったが、このチケットで注目したいのは場所(会場)と記された「渋谷エピキュラス」。
 桜丘の坂上にあったヤマハの施設で、さほどレンタル料は高くなかったのか、僕ら「出発」の後輩も公演に使っていた。最近の大々的な再開発工事が始まるまで建物は残っていたはずだが、線路端のエピキュラスの方へ上っていく枝分れしたような坂道がなつかしい。この坂道の一角は当時話題になっていた山田太一のドラマ「岸辺のアルバム」(本放送は昭和52年)でも、八千草薫が竹脇無我と逢引をするシーンで使われていた。
 ところで、先の早慶戦パンフの取材以来、僕が2度目(最後)につか氏とお会いしたのは、昭和が終わって平成に入った年、西暦でいうと1989年の晩秋の頃だった。それは世間を震撼させた“連続幼女殺人事件”の宮崎勤をテーマにした、月刊誌「世界」(岩波書店)の座談会で、つかこうへい・橋本治・泉麻人という妙な組み合わせのものだった。
 89年12月号に掲載されたその座談会、誌面上はうまく構成されているが、現場で話のリードを取って、圧倒的に喋っていたのは橋本氏だった。それがおもしろくなかったのか、帰りがけにつか氏に誘われて飲み屋に入った。飯田橋か水道橋あたりの「養老乃瀧」風の座敷……というイメージがぼんやりと残っている。
「団塊の世代、ってのはどうも苦手なんだよな。泉サンなんかが出てきて安心したんですよ」
 なんて調子で橋本氏の世代の文化人の悪口をおっしゃっていたが、おもえばつか氏もその世代なのである。それはともかく、向かい合ったつか氏が、投げ出した片足の黒いナイロン靴下を途中で脱ぎちらかして、それがしばしば視界に入って気になったことが思い出される。
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