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第11回

葉山の真夜中の海辺で近田春夫がDJをしていた。
昭和52年(1977年)

[ 更新 ] 2022.01.06
 この辺で広研(広告学研究会)と当時メインイベントだったキャンプストアー(以降、キャンスト)の歴史をちょっと書いておこう。
 慶応大学の広告学研究会の細かい創部時期についてはいまわからないのだが、前回紹介した機関誌「三田広告研究」の巻末に〈大正15年6月13日創刊〉と記されているから、マジメなゼミのような会だったにせよ、大正時代には存在していたと思われる。
 そんな広研の夏の恒例イベント「キャンスト」は、3年生の僕が役員を務めたこの年が第23回だから、単純に逆算すると昭和29年のスタートということになるが、「三越の岡田茂が慶応の学生時代にやっていた」なんていう伝説が流れていた。三越の独裁社長で“岡田天皇”とも呼ばれた岡田氏のプロフィールを見ると、大正3(1914)年の生まれだからこれはどう見ても計算が合わない。そういえば、昔は森永が大スポンサーで「森永キャンプストアー」の看板だったのだ……なんてことを思い出してネットをチェックしてみたら、〈モリナガデジタルミュージアム〉というサイトにその歴史が記述されていた。どうやら「昭和29年」は戦後の復活年で、すでに昭和初めに始まっていたようだ。
「大正末期から昭和初期にかけて日本で海水浴が一般化した。森永はこれに注目し、昭和3年(1928)から、湘南の逗子や大阪の浜寺など全国有数の海水浴場に、清潔で快適な休憩所『森永キャムプストアー』を開設した。また昭和4年からは、学生の運営による『学生キャムプストアー』がはじまった」
 要するに、森永の商品(ジュースやアイスクリームなどの清涼モノだろう)販促のための「海の家」的施設として立ちあがったのだ。僕らの時代はもう森永はスポンサーを降りて、共同石油とOTTO(三洋電機)の看板が掲げられていたはずだが、確かサンヨーは宣伝部にカネの使えるOBがいたのである。3年生の10人ほどの役員が中心になって、コネのある企業から渉外金を集めて、葉山海岸のキャンストは運営される。企業に配る企画書には「広告の実践活動……」なんていう名目が掲げられていたが、言ってみれば「楽しい夏のお店屋さんごっこ」のようなものだった。
 開催期間は7月の10日前後から8月の20日前後にかけて。役員は店長を筆頭に副店長、渉外、仕入、会計、催物、合宿所長、といたが、彼ら(いわゆる経営幹部)とは別に3年生を班長にした班が1週間単位で組まれ、各班に1、2年生部員が割りふられて店員として働くのだ。ちなみに、僕はサークルの代表でもあったが、このキャンストでは催物の役員に就いていた。催物とは名のとおり、店で催されるキャンペーンやショーの仕切り、マスコミ宣伝の係であり、他にT君とO君(以前、ウエストコーストかぶれの男と紹介した)がこの仕事をしていた。
 話が後回しになったけれど、店は葉山の長者ヶ崎海岸(葉山公園裏)にあって、これは大工さんの指導のもと、部員たちが鉄骨を組みあげて、ベニヤ張りや塗装を施して完成させるのだ。5月の連休の頃から主に土日を使って行われるこの作業は「ドカチン」と称されて、労働の後に合宿所で催される酒盛りは新入部員が先輩と打ちとける重要な儀式になっていた。僕が1、2年生の当時は上座に並んだ先輩の前で、「僭越ながらぁ~」と声を張って自己紹介をし、順に盃を受けて一芸を見せる、という体育会っぽいムードが残り、まだ春歌(♬ひとつ出たほいの~みたいな)や腹芸をやるバンカラな奴もいた。もちろん、この時代から女子部員はけっこういたけれど、ぎりぎりのデリカシーは保たれていた。もうお忘れになった読者も多いかと思うが、大正の頃から続いたわが広研は、数年前にこの合宿所で起こった性的不祥事によって廃部になってしまったのである。
 さて、僕のような催物担当は無頓着だったが、店長や副店長は“地元とのコミュニケーション”にも気を配っていた。町会長や古い商店主のもとにあいさつに伺い、地回りのテキヤさんとも交流をもっていた。テキヤのボス格の男はドリフのいかりや長介のように下口唇がベロンとめくれていたので「ベロンチョ」と呼ばれていたが、店にいると「おい、店長いるか」と訪ねてきて、僕らがキャンペーンでもらったノベルティーグッズをせしめて帰っていく。ふだんは甚平姿のベロンチョがデルモンテの可愛らしいTシャツを着てやってきたときにはちょっと笑った。
 葉山は横須賀基地の関係の外国人の住宅も多いので、クリスティーヌとかいうアメリカ人の女の子が友だちや弟を連れてよく遊びにきた。僕らが店のDJルームから流していたのはイーグルスやドゥービー・ブラザーズだったが、彼女らローティーンに圧倒的に人気があったのはベイ・シティ・ローラーズ。イケメンのI君は「レスリーに似ている」と誉められていたが、僕は顔がむくんだ「エリック」と評されて、微妙な気分になった。そう、開店と閉店のテーマ曲を決めて流していたが、開店曲はあの当時から見てノスタルジックになりつつあったクラプトン(デレク&ザ・ドミノス)の「レイラ」、閉店曲はソフト&メローなボズ・スキャッグス「ハーバーライト」だった。
 砂地の上にベンチ風の席を配置した店内は“カフェ風の「海の家」”といった感じだったが、DJルームを脇に付けたステージも設置されていた。学生バンド(松本隆の小説「微熱少年」にもこのキャンストらしきライブシーンがある)が何日か入ることもあったが、山下達郎の「SOLID SLIDER」をやるバンドがいて、ヘタクソなのでライブがハネた直後にDJルームでホンモノの「SOLID SLIDER」をかけてやったことがあった。コレが収録された「SPACY」のアルバムはこの夏何度も聴いて、紛れこんだ砂粒の傷がいくつも付いている。
 キャンペーンで歌手やタレントもやってきた。そういうときはだいたい僕が司会進行をする。記録によると、まず7月30日に所ジョージが来店しているが、所さんはこの年がレコードデビューで、確かまだ拓大の学生だったのだ。この話が決まって、当時キャニオン・レコードが入っていた浜松町の貿易センタービル地下の喫茶店で顔合わせをしたとき、背中にギターをしょって、革ジャン・サングラス姿でやってきたことを鮮烈におぼえている。そのときはツッパッてコワイ感じだったが、葉山の店のライブはコミカルな歌もトークもおもしろかった。
 公演が終わった後、僕はオンボロなコロナに所とマネージャーの広岡さん(この人は後に「笑っていいとも!」なんかのバラエティー作家になる)を乗せて、逗子の駅まで送った。ウケを狙ってクレージーキャッツなんかのコミックソングを集めたテープをカーステで流したが、バックミラーに映ったサングラスの所ジョージの顔は笑っていなかった。
 コミックソングといえば、ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツ、という愉快なバンドが来た。「電気クラゲ」という寺内タケシのエレキサウンドをパロッたような曲(いま聴くとクレイジーケンバンドっぽくもある)は、長い間奏のパートでメンバーの1人(ヨシオくん、といったか?)がステージを下りるとすぐ横の砂浜を走って海にちょこっと浸り、平泳ぎの手かきのアクションをしながら戻ってきてまた演奏に加わる……というネタがあった。まさに、キャンストに打ってつけのバンドだったのだ(ダディ竹千代は「オールナイトニッポン」のパーソナリティーにも起用され、桑田佳祐や竹内まりやらとおあそびユニットも組んでいたはずだ)。
 8月3日に大場久美子がやってきた。この話は他のエッセーで何度も書いているので簡略化しようと思うが、彼女もこの夏「あこがれ」という曲でレコードデビューした。司会進行を担当した僕は、場をなごませようとその夏、宴会芸の持ちネタにしていた喜納昌吉&チャンプルーズの「ハイサイおじさん」にのせて半裸で登場、いまの感覚ならセクハラまがいのスナップが残っている。しかし、ただ思いつきの当て振りをするというだけのもので、回想すると薄ら寒くなってくる。


「ハイサイおじさん」にのせて半裸で踊る著者

 この日のことで、とりわけ印象に残っているのは、大場久美子との初対面の光景。合宿所に連絡があって、最寄りの「葉山」という御用邸前のバス停に行ってみると、麦わら帽子を被った大場久美子とマネージャーと思しき男が昔風の停留所の石台のようなところに座りこんで待っていた。
 催物係の仕事で一番楽しかったのは、レコード会社回りだったかもしれない。「キャンストで流しまくります」なんて口実で洋楽・邦楽の試聴盤がもらえる。もちろん、宣伝担当者とのやりとりからキャンストでのキャンペーン話がまとまることもあった。
 僕はキャニオン・レコードの石岡さんというちょっとファニーな感じの女性宣伝マンに可愛がられていて、所ジョージの話も彼女からもちかけられたのだが、もう1つ、松本ちえこのプロモーションを葉山のキャンストで展開したい、ということになった。この話、いま思えばすでにある程度固まっていたのかもしれないが、単に松本ちえこが来るだけではなく、キャニオンと同系列社のニッポン放送をくっつけて朝から夜まで、「海辺の放送局 ちえこデー」と銘打ったマラソン生中継放送を行う……という大きなイベントになった。
 中継日は8月9日。前日くらいからニッポン放送の技術スタッフがやってきて、店前の浜に電波塔を設置していた。僕が当時広研関係の仕事スケジュールをアバウトに付けていた“ハンプティー・ダンプティー”(原田治が描いた人気キャラ)のノートにその日の行程やメモを記したページがある。
 10:00 スタンバイ 11:00 チエコ入り 13:00 歌謡パレード……
 実際、ニッポン放送の中継のスタートは13時、お昼の1時からだったようだ。
 松本ちえこは3年前(2019年)に惜しくも他界したが、この頃は資生堂バスボン石鹼のCM人気もおちついて、もうワンプッシュかけよう……くらいの時期ではなかったか。「海辺のあいつ」という、浮気なサーファー男にやきもきするような曲を歌っていたから、「電気クラゲ」と同じくキャンストのシチュエーションはぴったりだったのだろう。
 店内のステージと客席の一部を潰して放送スペースが作られ、外側の浜に面した一角もサテライトスタジオのように使われた。松本ちえこは放送に出ずっぱりで、♬チャランポランチャポンチャポン~という伊藤アキラ作詞の「海辺のあいつ」をこの日何度も歌っていたが、このときは司会がすべてプロの人だったので、大場久美子のように会話を交す機会はなかった。
 中継は夜、というより夜中まで続いて、深夜1時からは「オールナイトニッポン」がここから放送された。確か、第1部の“くり万太郎”(局アナ)の番組中だったか、南沙織が沖に出たヨットから上陸して、ちょこっと店内に現われたような気がするが、この日の記憶で一番濃いのは近田春夫である。
 第2部(火曜深夜、水曜早朝だったと思う)の近田春夫のオールナイトニッポンが始まってまだまもない頃(「ポパイ」の歌謡曲評論の連載スタートはもう少し後)だったと思うが、僕は存在を意識していたことをよくおぼえているから、すでに放送を聴いていたのだろう。あれは店内で第1部の放送をやっていたときだったか、それよりも前だったか、すーっと店に現われた近田が壁に貼り出された例のTVガイドのパロディーCM(前回参照)の4作の写真パネルをじっと眺め、「農村ウェルズ」のパネルの前で横にいた僕に向かって「コレはおもしろかったね」と評した……初対面の場面が焼きついている。
 そして、3時スタートの放送は店内からではなく、店前の砂浜にテーブルとターンテーブル、マイク装置……などを置いて行われた。僕と3、4人の部員が近田の後ろで砂浜に座りこんで放送を聴いていたはずだが、「オレ、海にいるんだよね今回」なんて言いながらかけた初っ端の曲をなぜか明確におぼえている。スピーディーなピアノのイントロで始まる西城秀樹の「セクシーロックンローラー」だ。時折聞こえる波音とともに記憶される。
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