ウェブ平凡 web heibon




第10回

「パロディーCMの寵児ちょうじ」になってしまった。
昭和52年(1977年)

[ 更新 ] 2021.12.15
 僕のもとに「CMを作りませんか?」という1本の電話が舞いこんだ──前回はそんな思わせぶりな感じで終わったが、それについては当時の機関誌「三田広告研究」に僕が寄せた“TVガイドCF制作記”というのが掲載されているのでその冒頭部を引用しよう。

底冷えのする、二月も終わりに近いある晩代表の朝井宅(※朝井は僕の本名)に一本の電話があった。
「初めまして、週刊TVガイドの久保と言うものですが」
「………………」
「週刊TVガイドという雑誌は、ご存知ですか」
「ハイ、あのテレビの番組の……」
「話というのは、今回ウチの方で学生さんにCMを作ってもらおうということになって」
「………………」
「とにかく、明日の夜にでもウチの社の方へ……」
彼の話を半信半疑で聞いていた。

 次行に「二月二十六日 土曜日」の小見出しがあって、当時内幸町のプレスセンタービルに入っていた週刊TVガイド(東京ニュース通信社)の会議室で広告プロダクションも交えて打ち合わせが行われた模様が書かれているから、この依頼電話があったのは昭和52年2月25日夜ということになるが、さすがにすぐ翌日に会議というのは無理がある。以下の文にも「先日」とあるから、何日かの間隔はあったのだろう。
 ともかく、会議室で対面したオトナたち・・・・・の印象がなかなか細かく描写されているので、ここもそのまま引用しておこう。

先日、電話で話した久保という男が紹介を始めた。
「ウチの局長の西川さんです」
宣伝局長・西川俊明
四十代だと思う。彫りの深い顔と少し長目の髪は、やり手のマスコミ人といった感じだ。
「葵プロの清水さんです」
葵プロモーションプロデューサー・清水康二
タートルセーターの上に、ラフなジャケットを引っかけ、いかにも制作プロのプロデューサーっぽい。ハゲた頭に鋭い目の印象がこびりついた。
「同じく北川さん」
葵プロモーションディレクター・北川三雄
デニムのシャツにジーパンだったと思う。とにかく子門真人に似ていた。
「進行の田辺くん」
葵プロモーション制作部・田辺敏彦
マスコミ人は若くみえるというけど、この人は本当に若く、ボクたちとほとんど変わらない。なぜかこの日はおとなしかった。
「そして私、TVガイドの久保です」
TVガイド宣伝課副課長・久保浩之
面構えといい、話しっぷりといい、とにかくかなり態度のデカそうな人だった。そして、彼とは長いつきあいになっていく。

 ちなみに、葵プロモーション(現・AOI Pro.)はいまもCMの制作の他、デジタルコンテンツや映画制作でも知られる広告プロダクションの大手だが、この時代はVANのシャレた広告なんかを作っていた。
 さて、このTVガイドのCMは要するに、「広研の学生が作った」ということをウリにした企画だった。とはいえ、僕らは8ミリくらいならともかく、本格的な16ミリや35ミリフィルムのカメラを使いこなせるわけではないから、現場で実質的な演出や撮影を行うのは葵プロのスタッフなのだ。つまり、僕らの力が発揮できるのはCMのアイデア出しの段階。何度かの会議を経て“パロディーCM”という1つの柱が固まった。この段階で「ビックリハウス」のCM(前回紹介)はすでに流れていたはずだから、それに乗っかってやろうという意識も働いたかもしれない。「ビックリハウス」がアラン・ドロンのダーバンCMをいじったように、当時ネタモトになるような大物外国人俳優を使ったCMが頻繁に流れていた。
 サミー・デービス・ジュニアがリズミカルにオン・ザ・ロックを作るサントリー・ホワイト。オーソン・ウェルズが渋い声で人生を語るニッカウヰスキー。ソフィア・ローレンを起用したホンダの女性向けロードパル“通称・ラッタッタ”。ユル・ブリンナーがカッ、カッと口をあけながら手を打つフジフイルム。
 この4つのCMが僕らのパロディーCMのターゲットになった。言葉のもじり、シチュエーションのギャップで笑わせようというもの、まあ内容説明は後回しにするとして、まずは俳優である。プロのモデルを使ってもおもしろくないということになって、これは学生側の責任者である僕がキャンパスでハンティングすることになった。猶予期間はひと月もなかったはずだが、サミーに関してはサントリーCMのタップダンスのマネなどをしていた顔つきの似たTという男がいた。オーソンも、広研の例会にたまにやってくるKという小太り気味の男ならどうにかなるのではないか……。ソフィアに化けられるような女子学生は思い浮かばなかったが、これは時折顔を出していた演劇サークルでオカマ役を得意としていた先輩のNさんならハマるのではなかろうか……。
 3人はどうにか口説きおとしたが、最後まで決まらなかったのがユル・ブリンナー。これはやはりスキンヘッドでなくては様にならない。どうしようか……と思っていたとき、僕ら学生にちょっと挑戦的な姿勢をとっていた葵プロの田辺氏がスッと手を挙げた。
 先の機関誌の文章によると、CMのロケは4月11日から3泊4日、静岡県菊川町の田園地帯で行われた。広大な茶畑の丘の向こうを新幹線が走っていた景色が目に残る。ここは葵プロの清水プロデューサーの故郷だったらしいが、いわゆる田舎を選んだのはCMの内容による。サミーのCMはジャズムードの本家サントリーに対して、こちらは山里の神社の境内で祭り太鼓を叩きながら「カントリー」と一言。オーソン・ウェルズはその名を「農村ウェルズ」ともじって、本家そっくりの老けメイクを施したKが農家の軒先で人生を回想するようなポーズをとる。ソフィアのラッタッタはオカマメイクのNにスクーターで畦道を走ってもらい、ユル・ブリンナーはカッ、カッと言いながら養豚場の前で実際“蚊”を叩きつぶす。
 都会と田舎のシチュエーション・ギャップというのが、言葉あそび(ダジャレ)とは別のもう1本のテーマだった。
 このロケでとりわけ強く印象に残っているのは、蚊をつぶすユル・ブリンナーの足もとに豚を走らせたい……なんてことになって、養豚場の豚を放したり捕まえたりしたこと(下級生に妙に豚の扱いになれた男がいた)と、もう1つは“農村ウェルズ”の撮影をした農家の奥さん。僕らにオニギリを差し入れてくれたり、縁側でお茶を振るまってくれたり、とてもいい人だったのだが、CMに映るわけでもないのに白光りしたような厚化粧をしていたのがいまも目に焼きついている。
 仕上がった映像にその後アフレコで声を入れて(農村ウェルズの声は僕がやった)、5月6日の夜に初めてオンエアされたようだ。

11PMの間にやるというので、この日の夜はテープをセッティングし、今か今かと待ち構えていた。四月に予告CMが流れたときも、同じように録音していたが、「あーCMやってんだ」と思うのは、自分たちのをやっている時ではなく、次に例えばパルコのCMが続いて流れたときに、「あーテレビでやってんだ」という感じになる。
(三田広告研究)

 ちなみに文中の“テープ”とはもちろんまだビデオではなく、カセットテープである。


三田広告研究 Vol.63 表紙に「農村ウェルズ」の写真が載っている。巻末に「大正15年6月13日創刊」とあった

 ところで、このTVガイドのCMはテレビ以上に映画館の幕間に積極的に仕込む戦略をとって話題を呼んだ。代表の僕はいくつかの取材を受けたが、5月の末に最初の記事が出た報知新聞には「オオッ‼ やりますなあ 慶応ボーイ‼ 有名作品のパロディ版 映画館でも“上映中”」などの見出しが付いている。

「合衆国最後の日」を上映中の東京・渋谷東宝。映画上映前のCMがはじまると大爆笑。もちろんこの慶大生が作ったCFをみてである。
(報知新聞)

 バート・ランカスター主演のこの映画、僕の記憶にはまるで残っていないが、映画館では4編を続けて流し、とりわけ「農村ウェルズ」がウケていた印象がある(当時の記事を調べていて、「ビックリハウス」もオーソン・ウェルズのパロディーCMをやっていたことを知った)。もっとも、この「農村ウェルズ」のキーワードを提案したのは確か葵プロのディレクターで、僕のアイデアがイチから採用された“蚊をつぶすユル・ブリンナー”よりもこちらの方が笑いを取っているのがちょっとくやしかった。
 僕ら慶応に続いて早稲田(CM研究会)の学生に作らせたCM(確か、ターザンのパロディーだった)もオンエアされて、「パロディーCM早慶戦」みたいな切り口の記事が新聞や雑誌に並んだ。「三田広告研究」にも記事の切り抜きが掲載されているが、「高2コース」という学習誌でCMディレクター出身の映画監督・大林宣彦(当時「ハウス」が公開中だった)と僕ら学生とで対談したことはよくおぼえている。TVK(テレビ神奈川)の番組のパロディー特集にも呼ばれたはずだが、このとき、初めてタモリをナマで見た(中洲産業大学教授のネタをやっていた気がする)。
 そして、とうとうメジャー局の日本テレビの人気番組「ほんものは誰だ!」から出演依頼がきた。土居まさるが司会をするその番組は、ユニークなことをやっている当事者(ほんもの)を3人のなかから当てる……というもので、つまり僕は「話題のパロディーCMを制作した慶応大学広告学研究会のリーダーです」という設問の“ほんもの”として出演することになったのだ。
 先の機関誌によると、収録日は7月14日。当日はサークルの夏の恒例イベント、葉山のキャンプストアー開催期間中だったので、僕は合宿所からアロハにGパン(正確にはコーデュロイ)、ビーチサンダルというおかサーファー風の格好で行った。
 2人のニセモノは、博報堂のデザイナーと早大のオーディオ研究会の人で、ホンモノの僕はともかくニセモノ2人はADから事前に特訓をされていた。
 「広研の会員数から塾歌まで覚えさせられていた。博報堂の人達は、本番の寸前まで塾歌の練習をしていたが、生まれついての音感の無さか、どうしてもダメなのだ。」と、僕のレポートにある。
 夕方4時半にスタジオ入りして、僕の回の収録が始まったのは11時20分、とある。ゲスト回答者として森田健作、和泉雅子(彼女だけ正解したらしい)の名が記されているが、もう1人記憶に残っているのは柴田錬三郎。
 剣豪小説で知られたシバレン氏は慶応の大先輩でもあったが、アロハにビーサンでチャラチャラした感じの僕に不快感をもたれていたのかもしれない。最後に土居まさるからコメントをもとめられたとき、こう一言おっしゃった。
「不肖の後輩をもった。」
 柴田氏は翌年(昭和53年)の6月に他界されているから、まさに晩年の接触・・だったのだ。
SHARE