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第8回

アグネス・ラムとキャンディーズがアイドルだった。
昭和51年(1976年)

[ 更新 ] 2021.11.16
 この連載で使うガラクタ的資料(前回の「わかもの出版」のハガキのようなもの)がぶちこんである缶箱のなかにアグネス・ラムをモデルにした「週刊プレイボーイ」の表紙がある。
 雑誌を処分するときに、どうしてもおいておきたいのを切り取って保存していたものの1つだが、これは昭和51年6月8日号の表紙で、赤白ストライプのタンクトップ姿の彼女の背景にはCMモデルを務めていたトヨタのスポーツ車「スプリンター・リフトバック」が停まっている。〈タヒチ・ロケ撮り下ろし〉と、アグネスの特集記事の見出しも記されているから、ここはパペーテあたりの港かもしれない。そのCMの相手役は、スカシた2枚目時代の近藤正臣だった。
 前年の暮れの頃、エメロン・ミルキートリートメントのCM(口もとに手を寄せてホッとささやく)で評判になったアグネス・ラムが大ブレイクしたのがこの夏。僕らポパイ少年・・・・・の定番ミュージシャンになりつつあった高中正義は「スイートアグネス」というイメージソングを作り、「アグネス」といえば“チャン”より“ラム”の名が先に浮かぶようになった。
 この年の女性アイドルのトップといえば、「横須賀ストーリー」が大ヒットして、桜田淳子・森昌子のトリオからグンと抜け出た山口百恵なのだろうが、彼女は僕ら大学生の間でその名がさほど語られる存在ではなかった。たとえばキャンパスで、ちょっといい感じの女の子を見つけたときの常套句、「芸能人でいうと誰?」のクエスチョンで「アグネス・ラム」は最上級だったが、しばしば持ち出されるのはキャンディーズだった。
 「キャンディーズの3人の中でいえば誰?」なんていう“例題”のようなものができあがっていた。それは単に3人いて比べやすい、ということだけではなく、彼女たちが程良くファッショナブルで親しみやすく、いわば東京の女子大生っぽかったからだ(実際、3人とも東京出身者だった)。調べたわけではないけれど、関西の大学ではそれほどキャンディーズ熱は盛りあがっていなかったのではないだろうか(関西発の「プロポーズ大作戦」のテーマ曲こそ歌っていたが)。どうも、大阪弁の応援コールというのがピンとこない。
 キャンディーズは昭和48年秋のレコードデビュー当時からけっこう気になっていた。そのちょっと前からドリフターズの「8時だョ!全員集合」のなかで、仲本工事の指導で体操コントのようなのをやっていたはずだが、デビュー曲の「あなたに夢中」は早朝の“歌う天気予報”みたいな数分の番組で毎朝流れていた、という記憶がある。高校に通学する前、眠気も抜けないまま朝飯をかっこんでいるとき、スーちゃん(田中好子)をメインボーカルにした3人が、茶の間のテレビでこの歌を可愛らしい振りを付けて歌っていた。
 通学していた慶応の付属高校は1学年ごとにクラス替えがあったが、高2のこの年のクラスには“キャンディーズ好き”で知られる自民党の石破茂がいた。しかし、石破クンとは当時さほど親しくもなく、デビュー当時のキャンディーズのことを語り合ったおぼえはない。そう、彼とは別に、僕の席のすぐそばにいた男(高3のクラスだったかもしれない)が「江戸川区の中学でスーちゃんと同級生だった」というのを自慢していたのを思い出す。
 ちなみに、僕はスーちゃんと生年月日がまるで同じ(昭和31年4月8日)なのである。
 「あなたに夢中」はテレビでけっこうオンエアーされた割にはヒットせず、「そよ風のくちづけ」「危い土曜日」あたりは、10チャンネル(NET=テレビ朝日)でやっている「ベスト30歌謡曲」を観ると、下位の方で紹介されることがあった。そして、大学に入った年の春(昭和50年)、ランちゃん(伊藤蘭)をセンターにした「年下の男の子」が、ようやくベスト10レベルのヒット曲(オリコンの最高ランクは9位だったようだ)となった。
 ランちゃんの声は確かに小悪魔的な魅力があり、ルックスもそそられるものがあったけれど、楽曲自体はそれまでの曲に比べて、あまり好みではなかった。スリー・ディグリーズ調の「その気にさせないで」、続く「ハートのエースが出てこない」あたりから一段と引きつけられるようになって、なんといってもこの年の「春一番」という曲の印象は強かった。ここからしばらく季節モノ(とくに春と夏)の曲がキャンディーズのオハコになる。
 デビュー前からドリフと絡んで、ゆるい体操コントなんかをやっていたキャンディーズだったが、コント魂を本格的に開花させたのがこの秋からスタートした「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」という番組(月曜夜8時のテレビ朝日)。
 伊東四朗と秋野暢子が幼児番組のお兄さんとお姉さんに扮した「ママとあそぼうピンポンパン」のパロディーとか、西田敏行がデタラメの日本民話の紙芝居をやるコーナーとか、その後「ビジー・フォー」として活躍するグッチ裕三とモト冬樹のバンドのショーとか、加山雄三が光進丸で荒井注とトークをしたり、コーナーはどれもおもしろかったけれど、番組のメインになっていたのが、キャンディーズと伊東四朗、小松政夫による“お茶の間コント”である。
 障子戸や床の間がセットされた和式の茶の間に伊東演じるオニのような母親と小松お得意のお坊っちゃま風バカ息子がいて、2人の絶妙な掛け合い(いーんだ、いーんだ、ボクさえアルプスに帰れば……というイジケたフレーズが好きだった)があった後、縁側の障子戸を開けてキャンディーズの3人が現われる。小松の下の3つ子にあたる設定だったのか、とくに男の子役のランとスーは“10円ハゲ”を入れこんだ昔の悪ガキのズラを被り、ビンボーったらしい子供服を着て、「シャボン玉ホリデー」でクレージーキャッツがやっていたようなコントに挑んでいた。扮装は段々とエスカレートしていって、最後の方はメイクで鼻水まで描いていたはずだ。とりわけ、ランちゃんのハジケっぷりはスゴかった。この番組のキャンディーズによって、アイドルが演じるコントの基準(ヨゴレ度数のようなもの)が一気にハネあがった、といってもいいだろう。
 サークル(広研)でキャンディーズのコンサートの手伝いをしたのは、そんな「みごろ!たべごろ!」の放送がスタートする秋の頃だった。まず公演のポスターとチケットの制作を頼まれたが、そのチケットが1枚手元に残っている。
「キャンディーズ カーニバル Vol.2
 ’76年10月11日(祭日)
 3:00p.m.開演
 蔵前国技館」
 とあり、ハート形の枠の中にヨコシマのノースリーブを着たキャンディーズの写真がレイアウトされているが、この写真は「夏が来た!」のジャケ写のものだろう。


著者の手元に残る「キャンディーズ カーニバル Vol.2」のチケット

 当時の部誌の記録によると、この公演は「キャンディーズ10000人カーニバル」と名づけられたシリーズ公演の第2弾で、僕ら慶大生の他、青学、立教、明治、日大、国学院の広告研究サークルがプロジェクトに参加していたらしい。最初の公演(50年10月)に参加した学生が母体となって「全キャン連」(全国キャンディーズ連盟)という巨大なファン組織ができあがった、という説もあるようだが、つまりキャンディーズは「ポパイ」を読んでいるような大学生が重要なサポーターだったのだ。
 全キャン連の面々も混じっていたのかもしれないが、10月11日の公演当日は場内の観客整理を任された。国技館の土俵の位置(砂かぶり席のあたりまで拡げていたと思う)に置かれたステージ間近の通路に客席側を向いてしゃがみこみ、一応客の様子を監視しつつ背後のキャンディーズを断続的に瞥見べつけんしていた。
 当日の曲目の記憶はあまりないのだが、ユーチューブに音源(画像はない)がアップされていたので改めて聴いてみると、ランちゃんの「お元気ですか?」のコールとともに日本語詞を付けた「プラウド・メアリー」から始まったのだ。その後「あなたに夢中」「危い土曜日」……と初期ナンバーのメドレーの合間に「DO YOU LOVE ME」や「朝日のあたる家」などの洋楽が挟みこまれているのがキャンディーズらしい。
 バックバンドは元ワイルドワンズのチャッピーこと渡辺茂樹をバンマスにしたMMPだったが、このメンバーの1人がウチのサークルの美女とつきあっている……という噂が流れていた……。
 曲のなかで唯一強い印象が残っているのは、終盤で歌われる「めざめ」というスローバラードだ。コンサートのフィナーレ用に作られたというこの曲の途中でランちゃんが自作のポエム(詩)を朗読する。この音源には入っていなかったけれど、確か実際は朗読が始まるまでにもう少し間があって、静かな間奏だけが流れているときに、2階席あたりの客が「貴ノ花~」と掛け声を発したのだ。
 どっと笑いが起こったわけではなく、一瞬なんともいえない感じで場内がザワついたことを記憶する。ところで、このときの伊藤蘭のポエム、ちゃんと聴き直してみると、翌夏の日比谷野音での解散宣言を暗示させる“普通の女の子がうらやましい(けれどガンバリマス)”ようなことをすでに語っているのが興味深い。
 それはともかく、貴ノ花のコールはもちろん会場が蔵前国技館だったからという、ブラックなシャレを含んだものであり、「みごろ!たべごろ!」でコントをやるキャンディーズならば受けいれてくれるだろう……と、つい口走ってしまったファンは思ったのかもしれない。なんて書いたところで改めて「みごろ!たべごろ!」のデータをチェックしてみたら、番組はこの10月11日の夜にスタートしたのだ。その告知を当日彼女たちがしていたかどうか……おぼえていないけれど、公演がハネた後、国技館の仕度部屋のようなスペースでちょっとした打ちあげをやっていて、それを遠巻きに眺めていたことを思い出す。キャンディーズの3人はラストの衣装を着たまま汗だくで立っていて、司会役の稲川淳二(たぶん)がガナるような声で場を盛りたてていた。
 相撲好きでもある僕は、当時の角界の状況が気になって歴代の番付表データを調べてみたところ、輪島と北の湖が横綱を張る“輪湖時代”で、大関は人気者の貴ノ花と旭国、三重ノ海、そして注目すべきは関脇に台頭してきた若三杉。後に2代目の若乃花として横綱も務めたが、病気と金の問題で早くに角界を去った。
 とはいえ、この時期は新鋭スターとして人気絶頂の頃で、翌春大関に昇進したのに乗じて「ソウル若三杉」なんていう、ファンキーなレコード(歌・ドクター南雲とシルバーヘッドホーン)まで出た。近頃「ソウル」という呼称はあまり使われなくなってしまったが、この年から翌年にかけて「ソウル──」と冠したディスコ調の歌謡曲が続々と発売された。その発火点となったのが、年の暮れに大ヒットした「ソウルこれっきりですか」。山口百恵の「横須賀ストーリー」のキーワード「これっきりですか」のパートを軸に1年間のヒット歌謡をディスコ・メドレーに編曲したもので、本家の百恵の曲以上にこの年(昭和51年)を象徴する1曲となった。ちなみに、B面の「ピーナッツ」ってインストの曲(作編曲はJ.ダイヤモンド&Dr.ドラゴンと称していた筒美京平)は、世間を騒がせたロッキード事件の隠語・ピーナッツを皮肉ったものだろう。
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