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第7回

「ポパイ」の創刊と謎の「わかもの出版」
昭和51年(1976年)

[ 更新 ] 2021.11.01
 この年(51年)の夏、ついに「ポパイ」が創刊された。巻末の発行日は8月1日となっているが、実際の発行日は梅雨もさなかの6月25日。この創刊号はその後の定型となる中とじではなく、前身の「Made in U.S.A catalog」と同じく、“背表紙”のある無線とじで、780円の価格は当時の雑誌としては安くなかったが、堀内誠一がデザインしたエアブラシ・タッチのポパイ(キャラクター)の脇に英字の項目が横書きで並ぶ、Tシャツにしたくなるような表紙はいま見ても“ジャケ買い”したくなる。
 アメリカ漫画のポパイ──僕の世代は幼い頃に毎週テレビで観ていたので、ある種のノスタルジーもあった。日曜日の夜7時半の不二家提供の時間(TBS)、「オバケのQ太郎」が始まるまでは「ポパイ」をやっていて、たまにマツ毛がビラビラしたベティ・ブープの古いアニメーションが入ることもあった。つまり、ポパイには不二家のイメージも含めて、ちょっと昔のアメリカのムードが感じられて、これも「アメリカン・グラフィティ」(第4回参照)がヒットしていた当時の気分に合っていた。
 創刊号は〈’76 Summer カリフォルニア特集〉と表紙に打たれているように、アメリカ西海岸の若者風俗の大特集だが、ページをめくっていくと、広告などに昭和51年の日本感が記録されている。
 まず表紙裏に資生堂ブラバスのオーデコロン、そしてナショナルの〈スポーツマン808〉というコンパクトな8型テレビ、デビューしたばかりのホンダ・アコード、金持ちお嬢さん風の宇佐美恵子がモデルを務めたマツダ・コスモAP……などがあって、おっ!と目にとまるのは半裸の沢田研二がアンニュイな顔でこちらを見つめるサンヨーステレオ・OTTO(オットー)の見開き広告だ。このジュリーはまさに「悪魔のようなあいつ」の頃のもので、劇中でもこういうシーンがあったような気がするから、番組のスポンサーにもサンヨーが付いていたかもしれない。その裏表紙はトヨタ・セリカの広告だが、ここに紹介されているリフトバック型はケンメリのスカGと並ぶ憧れの国産車だった。
 そう、広告のなかで1つ異色だったのは、〈ただよし、野菜をとらなきゃ、だめじゃなぁきゃ。〉のコピーを付けて、どこかの山里で野良仕事をする農婦人を被写体にしたカゴメ野菜ジュース。テレビCMでも大ヒットした作品だが、あの「ただよし」はポパイ誌読者でもあった、というわけか。
 さて、本編のカリフォルニア特集──スケートボードやラグビージャージ、ナイキのスニーカー、ソールが何層ものレインボーカラーになったビーチサンダル……やがてブームが訪れるアメリカングッズの数々が紹介されているけれど、ここで30ページ余りにわたってルポされたUCLA(カリフォルニア大学)のキャンパスの記事は衝撃的だった。わが母校の日吉キャンパスの光景を重ね合わせて、フーッとため息をつき、UCLAのロゴ入りのグッズを上野のアメ横や渋谷のミウラ&サンズに探しに行った。明るいブルーの地にUCLAと黄色で記されたナイロン製のジムショーツ(デビュー当初のサザンの桑田佳祐もよく履いていた)を長らく愛用していたが、あれはどこで手に入れたのだったか? バッタモンも含めて、UCLAをはじめとするアメリカの大学名を記したTシャツやトレーナーがあっという間に日本全国の洋服屋に蔓延し、いまもその流れのヨコモジTシャツをなんとなく着ているオッサンがいる。ちなみに僕は、UCLAのジムショーツの上によく〈NORTHRIDGE〉と胸に入ったTシャツを着て写真に収まっていたが、UCLAはともかくノースリッジ大学がどこにあるのかも知らなかった。
 このカリフォルニア特集に絶妙の味を付けているのが小林泰彦描くアメリカン風味の絵地図。小林さんはこの10年くらい前から「平凡パンチ」でこういうタッチの絵地図を描かれていたようだが、僕が知ったのはこのポパイの創刊号からだ。
 雑誌の中ほどに「みんなで創る雑誌〈ポパイ〉」と見出しを付けて、編集方針や編集部内の様子が記述されているが、この次の号あたりでエディターやライターを一般公募したはずだ。キャンパスで久しぶりに会った中学時代からの同級生の松尾クンが、学生エディターとしてポパイ編集部で活動していることを知った。結局僕は、後年この松尾クンのツテで活字業界へ足を踏み入れることになる。
 この年の秋の頃だったか、アメリカ西海岸にハマッて単身で渡米してきた同じサークル(広研)のO君(マイケル・フランクスにどっぷりハマッていた)に誘われて、千駄ヶ谷の方の出版社へ出向いた。スピン出版局というそこは「だぶだぼ」という「宝島」をさらにコアにしたような、若者向けのライフスタイル誌を発行していた。
 手元に1冊、高校の卒業近くに買った昭和49年3月発行の号がある。表紙は宇野亜喜良のオシャレな少女絵だが、目次には「コミューン体験の仕方」とか「農業をやる恋人のみつけ方」とか「ニュー・カントリー・ファッションの考え方」とか、ヒッピーやフォークロアな感じの項目が並んでいる。めくっていくと「イーストビレッジでのアイスクリームの食べ方」とか「ロンドンでのジーンズの買い方」とか、植草甚一センスの記事もちょっとある。
 たぶん、新宿の紀伊國屋あたりで背伸び気分で手に取ったのだろうが、この誌面で萩原朔美と対談をしている森洋もりひろしという人を招いて、講演会を催したことがあった。
 森洋は「だぶだぼ」の裏表紙にも〈編集発行人〉としてクレジットされている人で、僕よりも当時サブカル事情に詳しかったO君はすでにこの人に感化されていたのかもしれない。
 講演内容の詳細は忘れてしまったけれど、森氏は「オルターナティヴ」(alternative)というフレーズをやたらと使っていたことを記憶する。
 「広告はオルターナティヴな発想が大切なんだ。たとえば犬になったような視線でオルターナティヴにモノを見てみる……」
 なんていうような調子で、彼が使うオルターナティヴは辞書の意味とはちょっと違う、“全方位的な”“自由な”みたいなイメージだった。そして、この講演会と同時に営業担当の男から「旅キャタログ」というガイド書のセールスを頼まれて、キャンパスに品台を出して売ったのだ。売れ残ったのが何冊かしばらく手元にあったはずだが、ネットでチェックすると、飛行機のイラスト(おそらく湯村輝彦・画)が表紙に描かれた『アメリカの旅キャタログ』という本で、〈オルターナティヴなアメリカ旅行〉と帯にデカデカと記されているから、コレに違いない。〈SCENE FROM VAN〉と表紙に打たれているところを見ると、VANから広告を取っていたのだ。「旅キャタログ」の名は80年代初めくらいまで使われていたはずだが、やがてこのガイド書が『地球の歩き方』に発展するのだ。
 「旅キャタログ」──と、いま検索すると、メイン取材ライターだった枝川公一の名が冠されているが、その後対談の席で知りあった枝川氏があれを書かれていたとは知らなかった。
 ところで、この原稿を書くために大学時代のサークル関係のノートや冊子をごちゃっとぶちこんだカンカラ箱をひっくり返して、ネタになりそうなものを探しているとき、妙なハガキが見つかった。
 76・7・10 神田の局印があるそれはこの年(昭和51年)に届いたもので、〈わかもの出版〉という送り主の名が判子で押されている。文面は以下のとおり──。

前略 今般はご応募いただきましてありがとうございました。
厳重な書類審査の結果、貴殿には左記の要領で面接試験を受けていただくこととなりましたので必ずご出席下さい。
尚、当日は簡単な筆記試験も行いますので筆記用具をお忘れなく!
最近の作品1~2点ありましたら、ご持参下さい。
日時 7月18日 午前9時厳守
場所 労音会館


NORTHRIDGEのTシャツを着る著者と、「わかもの出版」からのハガキの文面

 文面を読むかぎり、僕がこれより先に“編集者募集”のようなのに応募したのだろう。「ポパイ」で活動する松尾クンに触発されたのかもしれないが、「わかもの出版」という名前がコワイ。「最近の作品1~2点」とあるが、この感じだと、すでに応募の段階で何らかのモノ(作文のようなもの)を送っていたのかもしれない。
 「わかもの出版」からのハガキはボールペンの手書きで、労音会館は当時映画なんかも上映する(「ぴあ」にも確か載っていた)、けっこう有名な場所だったが、水道橋からの地図まで添えられている。
 しかし、この面接に行った記憶はないし、当時ラフに付けていた手帳によると、どうもこの期間は例の葉山のキャンプストアー合宿に参加していたようだから、すっぽかしてしまったのだろう。それにしても「わかもの出版」、どういうものを作っていたのか、気になる。
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