ウェブ平凡 web heibon




第5回

村上龍は「ナイアガラ」を聴いていただろうか?
昭和51年(1976年)

[ 更新 ] 2021.10.01
 前回の最後は愛聴していたラジオ番組「大滝詠一のゴー・ゴー・ナイアガラ」についてのこんな説明で終わった。
「ただし、ラジオ局は横浜の野毛山に電波塔のあったラジオ関東だったこともあり、僕の住む新宿の落合あたりでは『1420』に合わせても、ガーピーと雑音にかき消されるようなことがあった。そして、番組自体は大滝が根城とする福生のスタジオで録られていたため、時折、米軍基地の飛行機の音が入る。SEとして、敢えて消さなかったのかもしれないが、これがなかなかオツだった。」
 さて今回、「ナイアガラ」のことをもう少し詳しく書こうと思って『All About Niagara』(白夜書房)という“大滝詠一全仕事”的なデータブックを改めて読み直したところ、アルバム「GO! GO! NIAGARA」に掲載された〈GO! GO! NIAGARAが出来るまで〉という番組制作工程を写真で簡単に紹介するページが目にとまった。このアルバム自体を持っているから、以前おそらく目にしたはずなのだが、コレによると福生のスタジオで大滝がひとりで録音した60分の番組のテープはラジオ関東(行程に中央FreeWayとあるから、届け先は麻布台のラジオ関東本社だろう)へと運ばれ、担当ディレクター(小清水・サム・勇とあるが、この人は後述する「ぎんざNOW!」に出ていたはずだ)のチェックのもと第1スタジオでオンエアされ、川崎市・・・のラジオ関東送信所からリスナーのラジオへと送られていた。
 東京での電波状況が芳しくなかったことには変わりないが、送信地は野毛山ではなかったのだ。それと、ラジ関のヘルツ数「1420」について「1422ではないか?」と校閲段階で指摘が入ったのだが、当時のヘルツは1420で正解。大滝さん自身、番組中に時折「フォーティン、トゥエンティー~」とFENのDJ調にコールしていた。
 「ゴー・ゴー・ナイアガラ」がスタートしたのは昭和50年(1975年)の6月9日。初年からときどき聴いていたはずだが、ヘビーリスナーになったのは51年に入ってからだと思う。白夜書房のデータ本に番組の各回の特集タイトルが載っているが、1月26日のフォー・シーズンズ、3月1日のレスリー・ゴーアの回などはしっかりと聴いた印象があるし、もうクタクタになって聴けなくなってしまったのだが、2月9日の放送を録音したカセットテープがあった。
 もとのを90年代くらいにダビングしたテープがまだ手元に残っているが、それを聴くまでもなく、4、5年前に取材を通して知り合ったコアな大滝ファンの方から、番組全172回(最終は53年9月25日)を収録したディスクをいただいた。
 リストを見ながら、51年2月9日の放送を再生してみると、番組はおなじみのインスト曲「Dr. Kaplan’s Office」(フィル・スペクター)にのせてスタート、「ハーイ、エブリバディー……大滝詠一の趣味の音楽だけをかけまくる60分間の時間のタイム・・・・・・が始まりました」という決まり文句の後、この日の1曲目はヴォーグス「ターン・アラウンド・ルック・アット・ミー(ふりかえった恋)」。この回はリスナーのハガキを中心にした構成だったが、3月に発売が決まった「ナイアガラ・トライアングル」のこと、ヒットの兆しが見え始めた松本隆作詞の「木綿のハンカチーフ」のこと、年頭から始まった山下達郎の「オールナイト・ニッポン」の話題……うん、確かに聴きおぼえのある内容だ。
 まだラジオDJに馴れていない山下に「応援のハガキを出してやってください」なんて言っているあたりにいかにもの“師弟愛”が感じられるが、大手ニッポン放送の番組に抜擢された山下に対して、ローカルなラジ関の番組をシコシコやる大滝……の位置関係にシャレでツッコミを入れてきたリスナーのハガキを受けてこんなことを語っている。「雑音にも負けずに聴きたい番組を一生懸命に聴く……そういうラジオ関東が好きなんですよ」。
 雑音はともかく、当時のラジ関には他にも魅力的な番組があった。土曜の夜10時からの「湯川れい子のアメリカン・トップ40」は欠かせなかったし、「ナイアガラ」の前ワクでやっていたコミック系フォークバンド「まりちゃんズ」の番組もおもしろかったし、スネークマンショーの番組もこの時期のラジ関が最初だ。どことなく、ラジオ界の東京12チャンネル的な存在だった。
 ところで、この「ハガキ特集」の回の「ナイアガラ」をわざわざ録音したのは、何度か出していた自らのハガキが読まれるのを期待していたのかもしれない。実は当時僕は「SBモナカカレーを食べる会会長」なるラジオネーム(という言い方はまだ普及していなかったが)を使って投稿し、文章まではともかく、2、3回ほどその名が読まれた記憶がある。ちなみに「SBモナカカレー」とは、昭和30年代中頃にちょっとハヤッた即席カレーで、名のとおり、モナカの皮の中にカレールウが詰まっていた。いわば懐中じるこのカレー版だが、これは確か、古本屋で見つけた昭和34、35年頃の読売新聞縮刷版にその広告が載っていて、こういうのは大滝さんにウケるに違いない……と思ったのだ。そう、「~の会会長」という肩書は、カメさん(亀渕昭信)のオールナイト・ニッポンあたりが出所かもしれないが、深夜ラジオの投稿者の間に定着していた。
 その僕のハガキが読まれた回、先のディスクで探しているのだが、まだ見つけられていない。


著者所有の大滝詠一「ナイアガラ・ムーン」

 そうやって各回を聴いていたところ、この2月9日の1つ前、2月2日の放送は録音していないのに妙に聴きなじみがある。大滝が会心の作と自負する吉田美奈子の新曲「夢で逢えたら」で始まって、さらにそのカラオケ(インスト)まで流され、曲のムードから60sのガールシンガーが続く。ナンシー・シナトラ、マーシー・ブレーン、シェリー・フェブレー……和モノでは麻丘めぐみの「ときめき」と木の実ナナの「涙をこらえて」。とくに木の実ナナはレスリー・ゴーアの「メイビー・アイ・ノウ」のカバーモノで、幼児の頃に「ザ・ヒットパレード」なんかで聴いて大好きだった曲を久しぶりにこの番組で耳にして感動したのだ。なんてことまでよくおぼえている。つまり、よほど気を入れて聴いていた、まさに「ハマッた」回だったのだろう。
 大滝は「ギャンギャン」(行きましょう、の前などに付く)という独特の擬態語を多用、リスナーにもよく指摘された鼻詰まり気味の声で軽快に喋り、喋りの語尾に重ねるように食い気味に曲がスタートするのがカッコイイ。

 というのが従来の番組の感じなのだが、放送回のリストを眺めていくと、この51年は念頭の1月5日の放送から、細野晴臣、松本隆(12日)、鈴木茂(19日)と元はっぴいえんどのメンバーをゲストに招んでいるのが興味深い。彼らが出演した回のオンタイムの記憶は残っていないのだが、件のディスクでじっくりと聴いてみることにした。
 最初の細野は自ら持ち寄った好みのレコードをその場(福生スタジオ)で大滝にかけてもらいながら、ぐだぐだと話がやりとりされる……という和やかな構成で、LPに入った曲の場所がわからなくて何度かかけ直す、針の音までそのまま放送されているのがすごい。ちなみに細野の選曲は、エキゾチック・サウンドと呼ばれたマーティン・デニーのチャイニーズっぽい曲やカルメン・ミランダが歌う「チャタヌガ・チューチュー」の原曲とかで、「トロピカル・ダンディー」あるいは「泰安洋行」の頃の細野さんらしい。しかし、僕がこういう「大中」(飯倉の小物屋)っぽいファー・イーストなセンスにオシャレ感を抱くようになるのは、せいぜいこの3年後くらいのことだ。
 打って変わって松本隆の回は、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」に始まって、細野の作曲でもある小坂忠の「しらけちまうぜ」へと続く。そうだ、この曲が入ったアルバム「HOROほうろう」も昭和50年代初頭の名盤だった。「HORO」はレコードこそ持っていなかったけれど、友人から借りて聴いた「流星都市」って曲が大好きで、とくに「H・G・ウェルズのサブマリン」ってフレーズに小坂忠の歌声の魅力と松本隆の天才性を感じた。僕は「トロピカル・ダンディー」より、こういうソウル、R&B路線の細野曲の方が断然好みだった。
 ソウルと言えばもう1曲、松本・細野コンビによるスリー・ディグリーズの「ミッドナイト・トレイン」がかかったが、話を聴いていると、こちらの方が「にがい涙」(安井かずみ作詞・筒美京平作曲・深町純編曲)より先だったのだ。割と辛辣な批評をする大滝がぼそっと、フィラデルフィア・ソウルに真っ向から挑んだ「ミッドナイト」を評価しつつ、「ケナすようになるかもしれないけど」と前置きしつつ、セクシー歌謡のセンで大ヒットした「にがい涙」をくさしていたのが興味深かった。大滝は筒美京平の曲には好意的なのに、コレに関しては“歌謡曲勢に対するニューミュージック勢の矜持”のような意識があったのかもしれない。ちなみに僕はこの「にがい涙」、日吉の学生街のパチンコ屋「白鳥」の景品でゲットしたのを鮮烈におぼえている。
 さて、鈴木茂は“女性に大人気の”“お待ちかねの”といったふれこみで登場。実際、番組内でも、鈴木をアイドル視したような女性リスナーのハガキがよく紹介されていた。
 アルバム「バンドワゴン」の話が中心になっていたが、これも50年の春(シュガー・ベイブの「ソングス」よりひと月早い3月)に出た素晴らしいアルバムで、1曲目の「砂の女」はいまも夏の始まりに車のCDで必ず流す(よく聴くと、浜辺に雪のある冬シチュエーションなのだが)ナンバーになっている。
 番組で「砂の女」はかからなかったが、「100ワットの恋人」「八月の匂い」という「バンドワゴン」の曲がかかった。詞は松本隆だが、鈴木の曲には等身大に近い松本が投影されているような印象を持つ。
「100ワット」には“ショーケン”というフレーズが出てくるけれど、この歌の主人公の彼女がハマッているショーケン(萩原健一)は、時期的にみて「傷だらけの天使」のオサムに違いない。
 鈴木(や細野)が関わっているバンド「ティン・パン・アレイ」のアルバム(キャラメル・ママ)の曲が流れ、かつての「はっぴいえんど」の話になったとき、しばしば「昔はさぁ~」という語り出しの句が出てくるのが耳に残った。「昔は」といっても、はっぴいえんどの時代からせいぜい3、4年……それほど彼らの変化が目まぐるしかった、ということなのか。当時、年長の細野でも28、大滝、松本が26、27で、年少の鈴木は23か24。老成したはっぴいえんどの面々らしい……ともいえるが、おもえば大学生の僕自身「昔は」の語り出しでウルトラ怪獣やグループサウンズの頃の話をしていた気がするから、やはり時代自体の変貌が激しかったのだろう。
 ところでこの時期、細野晴臣も狭山の米軍住宅に住んでいたはずだ。番組で住まいの話は出なかったけれど、細野と大滝の談話中にも横田基地に出入りする飛行機の音が入るシーンがあった。
 そこでふと思った。大滝のスタジオもある福生の米軍住宅を舞台にした村上龍の『限りなく透明に近いブルー』がブームになったのはこの年。6月号の「群像」に発表され、7月の芥川賞を受賞、すぐに講談社から単行本が出て、あっという間にミリオンセラーとなった。
 僕はこの小説、すぐに読みはしなかったが、「限りなく透明に近いブルー、限りなく透明に~」と、ただ連呼するラジオCMをよくやっていた記憶がある。当時ムサ美に通っていたという若き村上龍(鈴木茂とほぼ同年代)は「ゴー・ゴー・ナイアガラ」を聴いていただろうか。
SHARE