第三十三回 昭島市 昭和と拝島で昭島なのだ

 立川の西にある昭島市は、すぐに思い浮かぶ名所もない地味な市といっていいだろう。地図を開くと五日市線の西立川駅の西半分あたりからがこの市の領域に入っているようだ。
 ま、立川イメージの強いこの駅は、すっとばしてもいいかな......と思っていたのだが、ちょうど目にした新聞に"駅のBGM"の特集(高田馬場に「鉄腕アトム」が流れるような)が載っていて、西立川のBGMにユーミンの「雨のステイション」が使われていることを知った。この曲、まだ荒井由実名義だった頃のアルバム『コバルト・アワー』にフィーチャーされていた1曲で、大学に入学した75年頃、免許を取ったばかりの車のカセットでよく聴いたおぼえがある。おそらく"雨のステイション"の舞台という縁なのだろうが、西立川というのは意外だった。
 そんな"検証"もあって、西立川の駅で降りた。ドアが閉まって電車が去っていくとき、サビの部分のジングルが1コーラスほど流れたが、このくらいだとかなりファンでないとユーミンの曲とは気づかないかもしれない。北口に出ると、すぐ目の前に昭和記念公園のゲート(西立川口)がある。立川市のときに東端の昭和天皇記念館に立ち寄ったけれど、公園はずっとこちらの北方へと広がっているのだ。
 ゲートの手前右手に〈雨のステイション〉の歌碑が置かれていた。彼女の著書『ルージュの伝言』から抜粋した由来の一文も添えられていたが、なんでも立川基地内のディスコに遊びに行った若い頃、帰りがけの朝方に眺めた雨の西立川駅の景色がイメージのもとになっているらしい。もう50年近く前の話だろうが、もはやこの辺にアーミーのバタ臭いムードはまるでない。
 東中神までまた1駅電車に乗って、駅の南口に出ると、くじらのキャラクターを掲げた〈くじらロード〉という商店街が右へ左へと続いている。都営団地に付随した商店街のようだが、こんな内陸で"くじら"というのは何の根拠なのだろう(昔、近くでくじらの化石が発見された、という説を聞いたが)。


DSCN5264.JPG 1975年リリースのユーミンの名作『コバルト・アワー』収録の「雨のステイション」の歌碑。ユーミンの著書『ルージュの伝言』には「雨といってもザアザア雨じゃなくて、霧雨というか、シトシト雨で、西立川のお話なのね」との記述がある。
DSCN5267.JPG 東中神駅前の公団住宅の1階は〈くじらロード〉という商店街になっていた。


 くじらロードをぬけて江戸街道を渡ると、こんどは八清(はっせい)通りという商店街になって、左に曲がった先に通称・八清ロータリーと呼ばれる広場がある。板橋の常盤台にあるような、真ん中に円形の緑地を置いたクルドサック型のロータリー。そしてここに"八清"という名の由来書きが掲げられている。昭和13年、立川周辺に増えてきた軍需産業の従業員住宅を供給すべく、東中神駅の開設に合わせて、この一帯に計画的な街が開発された。
「同十六年十月までに約五百戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、保育園、神社、公園などの福利施設が竣工、ここにロータリーを中心として放射線状に区画された大規模な住宅街が誕生した。即ちこれが八清住宅の起源であり、八清という名称は工事をした八日市屋清太郎氏の名に由来するものである」
 なるほど、"八清"は人の名前がもとだったのだ。ちなみに、この独特の名の人物は金沢出身の建築家の2代目で、先代は大正時代の上野博覧会の仮設建築などで鳴らした有名なランカイ屋(博覧会プロデュースを本領とする)だったらしい。
 映画館はもう見当たらなかったが、「昭和湯」という銭湯があった。建物は新しかったが、八清の開発時から継承されてきた浴場かもしれない。


DSCN5272.JPG かつての八清住宅の中心に位置したロータリー。そのころに整備されたものだろうか、付近には八清公園という広場もある。
DSCN5275.JPG ロータリーのほど近くに位置する「昭和湯」。工場用の煙突を転用したため、ふつうの銭湯の煙突よりも太いという。


 真覚寺という寺の門前の田舎じみた通りから多摩大橋通りを南下して、奥多摩街道に入った。南方に時折多摩川岸の低地が覗き見える、石垣の切通し道を下っていくと、この街道の右側には趣きのある寺や神社が多い。宮沢の交差点から新奥多摩街道の方へ進んで、八高線のガードをくぐった先を右折すると、"大神"という表示板を立てた、昔の五日市鉄道の駅跡が残されている。
 右読みの古びた駅名表示板とともに線路の一部も設置されているが、97年に刊行された『鉄道廃線跡を歩く Ⅳ』(JTB刊・宮脇俊三編著)に、こういう遺構は載っていないから、おそらくレトロ調に後から復刻したものだろう。この鉄道はいまのJR五日市線の実質的な旧線で、昭和の初めから戦前まで機能していた。


DSCN5283.JPG 湧き水の小川が流れる奥多摩街道の脇道。
DSCN5288.JPG 1930年に五日市鉄道(五日市線)は拝島から立川まで延伸。大神停留場(のち駅)は延伸区間にあった。青梅線と並行して走っている区間だったため、1944年、不要不急線として休止された。


 廃線跡の割と広い直線道(五鉄通り、と名づけられている)をしばらく西進して、再び奥多摩街道に入っていくとやがて拝島町の交差点に差しかかる。右手に拝島大師(本覚院)を中心にした緑地が広がっているが、このあたりがもともとの拝島なのだ。
 拝島大師――街道に面した背の高い山門(南大門)をくぐると、境内には格好の異なったいくつかの堂宇(文殊楼、八角円堂など)や多宝塔が配置されている。正月2日、3日の"だるま市"でも知られる寺らしいが、この日はもう1月もなかばを過ぎて、境内は閑散としていた。拝島大師というのはここに祀られた如意輪観音のことで、そのモデルは平安時代の永観3年(985年)に入滅した元三(慈恵)大師。
 一方、拝島の地名のもとは隣接する大日堂に祀られた大日如来像という。大師の入滅より少し前の天暦6年(952年)、多摩川の洪水で近くの洲(島)に流れついたものを村人が拝むようになった......なんて伝説が存在するようだ。


DSCN5291.JPG 拝島大師の南大門。厄除け、病気平癒の信仰が特に篤いという。
DSCN5294.JPG こちらは拝島大師の大日堂。


 ところで、昭島の市名はその前身の昭和村(町)と拝島町を合体させたもので、大師通りを北進したところにある昭島の駅は昭和34年の9月までは"昭和前"といった。この場合の"昭和"は、駅北側にいまも存在する「昭和飛行機工業」の前、という意味。東中神の八清商店街に昭和湯というのがあったけれど、昭島には時代と地名と社名をネタ元にした昭和名義の物件が散在している。
 拝島大師の門前の奥多摩街道を走る立川バスに乗って、拝島駅へ出ることにした。
「拝島の町は、昔風の家並みがまだ残る古い宿場町である......」
 昭和30年代中頃に取材、刊行された『東京風土図』(社会思想社)にはそんな記述がある。上宿、なんて宿場町らしいバス停もあったので、車窓の街並みを期待していたのだが、もはや宿場らしい趣きの建物はまるで残っていなかった。
 バスは拝島駅の南口に到着した。この駅が昭島市の北端で、駅前商店街の途中から福生市の領域に入る。
 拝島の駅前は個人的に思い出深い。もう40余年前の75年の春先、駅の北東側にある拝島自動車教習所に日々通っていた。高校から大学にかけての春休みを利用して車の免許を取ろうということになったのだが、当時この近くに住んでいたわけではない。おじさんの知り合いがこの教習所に勤めていて、教習の時間が優先的に取れる、とかいうので、中落合の実家から西武線に乗ってはるばる通っていたのである。
 教習所は北東側に行く長い陸橋の向こうだったはずだが、バスが停まった先の南口というか、南西側の商店街もぼんやりと見おぼえがある。線路に近い所に日活系の映画館があって、長い教習の合間にロマンポルノを観たのだ。宇能鴻一郎原作の「ためいき」って映画で、週プレなんかのグラビアでけっこう好きだった立野弓子って子が主演していた(73年11月の封切だから、この時点のロードショーではない)。
 暇そうなオッサンばかりの場末のポルノ館の光景が回想されるが、もはや当然のごとくそんな映画館は見あたらない。五日市線、青梅線、八高線の上に架かる国道16号線の長い陸橋(昔より随分きれいになっている)を渡ると、五日市街道の入り口の向こうに自動車教習所が見えてきた。門の向こうにソテツらしき南洋樹が植えこまれた、この教習所の佇まいはほぼ変わっていない。
 ロビーにいつも、柄のわるい青梅あたりのツッパリ(まだヤンキーの呼び名は東京には浸透していなかった)グループが屯していたけれど、彼らはどうしているだろう。


DSCN5299.JPG 筆者なつかしの拝島自動車教習所。教習所の背後には横田基地が広がる。


 

泉麻人

いずみ・あさと 1956年東京生まれ。
慶応義塾大学商学部卒業後、編集者を経てコラムニストに。
東京に関する著作を多く著わす。近著に『大東京23区案内』(講談社文庫)、『東京いい道、しぶい道』(中公新書ラクレ)などがある。

泉麻人